平賀源内

結論:源内は事件で投獄され、約1か月後に獄中で破傷風により亡くなった

平賀源内は安永8年(1779年)11月20日に起きた刃傷事件の翌日に投獄され、同年12月18日(西暦1780年1月24日)に獄中で亡くなりました。死因は破傷風とされています。処刑されたのではなく、牢の中で病没した、というのが基本的な理解です。

享年は資料によって48、51、52と分かれており、一つに決まりません。事件の原因についても、記した書物ごとに話が違います。この記事では、確かめられる範囲の記述を並べ、食い違うところは食い違うまま示します。

基本情報

  • 生年:享保13年(1728年)、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の生まれ
  • 没年:安永8年12月18日(1780年1月24日)、獄中で死去
  • 享年:資料により48・51・52と記述が分かれる
  • 時代:江戸時代中期
  • 立場・身分:高松藩の蔵番の家に生まれた本草学者。のちに発明、鉱山開発、戯作・浄瑠璃の執筆などで知られる
  • 死因:破傷風とされる
  • 墓所:東京都台東区橋場の墓(国の史跡)、さぬき市志度の自性院
  • 追贈:大正13年(1924年)に従五位

平賀源内の最期:事件から獄死までの経緯

安永8年11月20日の夜に何があったのか

源内は安永8年の夏、江戸の橋本町の邸に移りました。事件が起きたのは同年11月20日の夜から明け方にかけてのことです。斎藤月岑『平賀実記』によると、神田の源内宅には門人の久五郎と友人の丈右衛門が泊まっていました。明け方、この二人が口論になり、源内が刀を抜いて両名に手傷を負わせたといいます。久五郎は、この傷がもとで亡くなったとされます。

源内が引き起こした事件であること自体は、どの話でも共通しています。食い違うのは、そこに至った理由です。

書物によって違う、事件の理由

木村黙老『聞まゝの記』は、別の経緯を伝えています。源内は大名屋敷の修理を請け負っていましたが、酒に酔った状態で、その修理の計画書を盗まれたと思い込み、町人を殺傷したというものです。

『平賀実記』は門人と友人の口論が発端、『聞まゝの記』は書類の盗難という思い込みが発端と、話の筋が違います。どちらが実際に近いのか、確かめられる材料は今のところありません。また、源内には事件以前から癇癪を起こすことがよくあった、という記述もあります。

投獄、そして獄死

源内が投獄されたのは、事件の翌日の11月21日です。そして12月18日、獄中で亡くなりました。死因は破傷風とされます。事件から亡くなるまでは1か月に満たない短さでした。

なお、享年が一致しないのは、記録の拠り所が違うためです。草稿と『戯作者考補遺』は51歳、1890年の平賀家の記録と宮武外骨の伝記は48歳としており、52歳とする記述もあります。どの数字が正しいかは、確かめられていません。

平賀源内の死因をめぐる諸説と伝承

「獄死」と「刑死」は違う

源内は牢の中で亡くなっており、処刑されたわけではありません。破傷風という死因も、刑罰によるものではなく、傷が原因の病死に当たります。ただし、破傷風にかかった経緯(誰のどんな傷から感染したのか)までは、確かめられた記述がありません。この点を断定する記事があれば、慎重に読む必要があります。

「生き延びた」という晩年説

源内は死んでおらず、逃亡して生き延びたという話もあります。田沼意次の領地だった遠州相良や、故郷に近い高松藩で庇護を受けたとする説です。しかしこれは、根拠のない俗説とされています。遺体の扱いについても、後述のとおり記述が割れていますが、そのことが生存説の裏付けになるわけではありません。

遺体と葬儀:伝わっている話

遺体は、門人の平秩東作が引き取ったとされます。友人の杉田玄白らが葬儀を行ったものの、獄死した者であるため幕府の許可が下りず、遺体も墓碑もない形の葬儀になった、と伝えられています。ただしこの話は世間体をつくろった言い方で、実際には遺体は引き渡されていたようだ、との指摘があります。

墓碑銘に刻まれた嘆き

玄白は「処士鳩渓墓碑銘」を著しました。その詩の一節は「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」という趣旨で、尋常でない人が尋常でない事を好み、尋常でない死に方をしたことを嘆いています。この碑が実際に建てられたのかは、諸説あります。罪人の墓を建てることが禁じられたため削られたという説と、原稿だけで彫られなかったという説です。

墓石の記録にも食い違いがあります。『鳩渓遺事』は、墓石に「安永八己亥十二月十八日」という没年月日が刻まれていたとしますが、『埋木花』は戒名だけで没年月日はなかったとします。墓石の文字には改変の形跡があるとされ、各文献の記述は一致していません。

事件に至る源内の歩みと、残した仕事

身分の低い生まれから本草学者へ

源内は高松藩の蔵番という低い身分の家に生まれ、13歳頃から本草学を学びました。宝暦2年頃には長崎に遊学し、オランダ語や医学、油絵などを学んだと推測されています。江戸では田村元雄(藍水)に師事しました。

宝暦7年には日本で最初の物産会を発案し、宝暦12年には湯島で「東都薬品会」を開催しています。著書『物類品隲』(宝暦13年刊)には、黒砂糖を白砂糖に精製する方法が記されました。

藩を辞し、「仕官お構い」に

源内は高松藩に一時召し抱えられましたが、宝暦11年に辞職しました。この際に「仕官お構い」となり、他家へ仕官することができなくなります。

鉱山、エレキテル、戯作

明和年間には、武蔵国川越藩の秩父中津川で鉱山の開発に携わりました。精錬の技術が未熟で、安永3年(1774年)に事業は行き詰まり、休山となっています。秋田藩の阿仁鉱山を訪れ、角館で小田野直武に蘭画の技法を伝えたとも言われます。

安永5年(1776年)には、長崎で入手したエレキテルを修理・復元しました。これを見世物にして謝礼を得ています。さらに風来山人、福内鬼外などの筆名で戯作や浄瑠璃を書き、生活費の足しにしました。火浣布の開発や金唐革紙(擬革紙)の発明も、業績として挙げられます。

土用の丑の日にウナギを食べる風習の発祥説も有名ですが、確かな根拠はないとされています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 東京都台東区橋場:旧総泉寺の墓。杉田玄白が私財を投じて建てたもので、戒名は「智見霊雄」。背後には従僕・福助の墓がある。1924年に東京府の史跡に仮指定され、1943年に国の史跡に指定された
  • 香川県さぬき市志度:生誕地。自性院にも墓があり、毎年12月に法要が営まれる
  • 埼玉県秩父:中津川での鉱山開発の地
  • 秋田県角館:小田野直武に蘭画の技法を伝えたとされる地
  • 長崎:遊学先

関連する人物

  • 杉田玄白:友人。葬儀、墓の建立、墓碑銘の執筆を担った
  • 平秩東作:門人の狂歌師。遺体を引き取ったとされる
  • 田沼意次:老中。生存説の一つに、その領地が登場する
  • 田村元雄(藍水):江戸での師
  • 小田野直武:源内から蘭画の技法を学んだ秋田藩士
  • 中川淳庵:親しく交友した蘭学者

よくある質問

平賀源内の死因は何ですか?

破傷風とされています。安永8年11月21日に投獄され、12月18日(西暦1780年1月24日)に獄中で亡くなりました。

平賀源内は何歳で亡くなりましたか?

資料によって48歳、51歳、52歳と分かれています。『戯作者考補遺』は51歳、1890年の平賀家の記録や宮武外骨の伝記は48歳としています。

なぜ投獄されたのですか?

人を傷つける事件を起こしたためです。『平賀実記』は門人の久五郎と友人の丈右衛門の口論が発端、『聞まゝの記』は修理の計画書を盗まれたと思い込んだことが発端と伝えます。

源内は死なずに生き延びたのですか?

田沼意次の領地などで庇護されたとする説がありますが、根拠のない俗説とされています。

平賀源内の墓はどこにありますか?

東京都台東区橋場に国の史跡の墓があり、故郷のさぬき市志度の自性院にも墓があります。橋場の墓は杉田玄白が建てたものです。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。