結論:「狸親父」は後世の通俗的なイメージ、「東照大権現」は死後に贈られた正式な神号
徳川家康の有名なあだ名は、性質がまったく違う二つに分けられる。「狸親父」は、狡知に長けた人物という通俗的なイメージとして定着した呼び名だ。一方の「東照大権現」は、没後の1617年(元和3年)2月21日に朝廷から正式に与えられた神号で、あだ名というより神としての名前にあたる。
「鳴かぬなら〜ホトトギス」の句は、家康自身の言葉ではない。日本語版Wikipediaは、三人の天下人(信長・秀吉・家康)を詠んだ作者不詳の川柳として扱っている。この記事では、狸親父・東照大権現・ホトトギスの句・顰像(しかみぞう)の逸話を取り上げ、史料の上で確かめられることと、そうでないことを分けて整理する。
基本情報
- 生年:天文11年12月26日(1543年1月31日)。幼名は竹千代(松平竹千代)
- 没年:元和2年4月17日(1616年6月1日)。駿府城で死去。享年75(満73歳)
- 時代:戦国時代から江戸時代初期
- 立場:慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた
- 死後の呼称:神号は「東照大権現」。「東照神君」「権現様」「神祖」「烈祖」などの尊称もある
- 生前・将軍辞任後の呼称:「駿河大納言」「武蔵大納言」「江戸の内府」「大御所」など
- 主な祭祀の地:久能山東照宮(静岡市)、日光東照宮(栃木県日光市)
徳川家康のあだ名とは?「狸親父」「東照大権現」の由来
「狸親父」は謀略家のイメージから生まれた
家康には「狸親父(たぬきおやじ)」という、狡知に長けた人物像が定着している。Wikipediaは、その由来を大坂の陣への経緯に求めている。方広寺の鐘銘事件が豊臣氏攻撃の口実とされたと考えられており、講和の取り決めにもとづいて堀が埋められ、最後は豊臣家が滅びた。この経緯が、後世に「謀略」として強調されたことが背景にあると考えられている。
ただし、評価は一つにまとまっていない。三河一向一揆での対応などを根拠に、「狸親父」的な面を肯定的に捉える論者がいる。反対に、それは古い家康像だとして否定的に見る論者もいる。「狸親父」は、家康の実像を示す言葉というより、後の時代の見方が形づくった呼び名として読むのが安全だ。
なお、「狸親父」の語が、いつ誰によって最初に使われたのかは、今回確認した資料からは分からない。旧来の解説には「敵方がそう呼んだ」とするものがあるが、そのような記録は確かめられなかったので、ここでは採らない。
家臣の評は「何を考えているか分からない」
Wikipediaは、家康の人柄について、家臣の評価に「なにを考えているかわからない」といった表現が多いと記している。腹の内を見せない人物という印象は、狸という動物のイメージと結びつきやすい。ただし、これは「狸」というあだ名の由来を直接示す記述ではない。両者を重ねて理解する、あくまで私の読み方である。
生前は官職や領地にちなむ呼び名が多かった
生前の家康の呼び名は、むしろ官職や居所に由来するものが目立つ。天正15年(1587年)ごろ、権大納言となり、所領にちなんで「駿河大納言」と呼ばれた。文禄元年(1592年)ごろには「武蔵大納言」と呼ばれた。慶長元年(1596年)に内大臣となってからは「江戸の内府」と呼ばれた。将軍を辞したあとの敬称が「大御所」である。
こうした呼び名は、悪口でも愛称でもなく、地位と領地を示す当時の呼び方だった。「あだ名」を調べるときは、まず「狸」のような通称と、官職にもとづく呼称とを区別しておくと混乱しない。
「東照大権現」の決まり方
家康は元和2年(1616年)4月17日に駿府で亡くなり、遺骸は久能山に移された。遺言では、関東の守護神にあたる「八州の鎮守」として祀ることが求められていた。
神号をめぐっては、側近の間で意見が割れた。4月20日、駿府で天海と以心崇伝が二代将軍・秀忠の前で論争し、天海は「権現」を、崇伝は「明神」を推した。5月26日、秀忠は天海の進言をとって「権現」号を選んだ。7月13日には後水尾天皇が「権現」とする勅許を出し、その後、朝廷側から日本大権現・東光大権現・東照大権現・威霊大権現の4案が示された。9月5日に秀忠が「東照大権現」を選び、元和3年(1617年)2月21日に正式な宣下があった。翌3月9日には正一位の神階も贈られている。
つまり「東照大権現」は、家康の性格を揶揄したあだ名ではない。朝廷の示した四つの案から、二代将軍が選んだ名前である。
「鳴かぬなら〜ホトトギス」と顰像の逸話は本当か:諸説を検証
ホトトギスの句は作者不詳の川柳
鳴かないホトトギスを、信長・秀吉・家康の三人の天下人ならどうするか。この句は、三人の性格の違いを表すものとして知られる。日本語版Wikipediaの『甲子夜話』の項は、これを三人の天下人がどうするかを詠んだ、作者不詳の有名な川柳として紹介している。
『甲子夜話』は、平戸藩の第9代藩主・松浦清(号は静山)の随筆だ。文政4年(1821年)11月17日の甲子の夜に書き始められ、天保12年(1841年)に静山が亡くなるまで約20年続いた。家康が没してから200年あまり後の書物である。Wikipediaの記述からは、句がいつ書かれたのかも、家康本人が口にしたとの記録があるのかも分からない。句は家康の言葉ではなく、後世の人が家康の気質を表現した川柳として受け止めるのが妥当だ。
なお、今回は句の全文や、最初の収録書名までは公的な資料で確かめられていない。そのため、この記事では句の出典の細部には踏み込まない。
三方ヶ原の「顰像」は自戒の絵と言えるのか
家康の慎重さを示す逸話として、三方ヶ原の戦いに負けたあと、自分の憔悴した姿を絵に描かせ、戒めとして座右に置いたという話がよく語られる。この絵とされるのが、徳川美術館が所蔵する『徳川家康三方ヶ原戦役画像』で、像主が顔をしかめているため「顰像」とも呼ばれる。
Wikipediaによれば、この伝承には史料的根拠がなく、昭和期に形成されたと考えられている。絵の説明は時代とともに変わってきた。1880年の目録では「長篠戦役」の図とされた。1910年の展覧会では、徳川義直が苦しい時期を忘れないよう描かせたと紹介された。1936年の展覧会では、狩野探幽が三方ヶ原の敗戦を描いたものとして新聞に紹介された。1972年の図録に至って、家康自身が慢心を戒めるために描かせたとされた。
絵そのものにも疑問が出されている。描かれた鎧直垂や片籠手などが、当時の武装と合わないという指摘がある。また、神格化された家康を表した礼拝像ではないかとする見方もあり、徳川美術館の学芸員もこの見方を支持している。江戸時代の箱書きや記録に三方ヶ原との結びつきが見当たらないことが、その理由の一つだ。制作時期は、美術館が17世紀頃、文化庁が16世紀としていて、判断が分かれている。
この絵は、「自戒の肖像」と断定できるものではない。「忍耐強く、失敗から学ぶ家康」という像が、あとから絵に重ねられた可能性がある。
三方ヶ原で語られる話のうち、確かめられること
三方ヶ原の戦いが1573年12月22日にあったことは、Wikipediaの年表に記されている。同じ項では、退却の途中で前方を塞いだ武田方の兵を、騎射で射倒して突破したことが『信長公記』にあるとされる。また、家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が、後に規律違反を犯しても超法規的に許されたとも伝えられる。こうした具体的な出来事のほうが、「待つ人」という通念よりも、人間としての家康に近づく手がかりになる。
あだ名から見える家康像:神格化と「神君」の背景
権現とは何か:天海と崇伝の違い
神号に「権現」と「明神」のどちらを選ぶかは、宗教上の立場の違いが背景にあった。天海が推した「権現」は、薬師如来を本地とする山王一実神道の考え方と結びついていた。日光東照宮の祭祀もこの流れで行われ、家康は薬師如来を本地仏とする神として位置づけられた。
Wikipediaの「東照大権現」の項は、「権現」の語義そのものを詳しく説明していない。この記事でも、語義の細かい解説には立ち入らない。確かなのは、権現号が本地仏と結びつく神号であり、崇伝の推した明神号とは神学上の立場が異なっていた、という点だ。
久能山から日光へ:二つの東照宮
遺言により、家康の遺骸はまず久能山に埋葬された。久能山には東照社が創建された。元和3年(1617年)4月17日、天海の指揮のもとで日光への遷宮が行われた。崇伝の記録には、家康が関東の守護神として日光に祀られることを遺言で求めたと記されている。
日光の社殿は、のちに三代将軍・家光が、壮麗に造り直した。寛永13年(1636年)の神忌に向けて寛永の大造替が行われ、正保2年(1645年)に宮号の宣下を受けて「東照社」から「東照宮」になった。久能山の東照社も、同じ1645年に「東照宮」の宮号を与えられている。
日光東照宮は、輪王寺・二荒山神社とともに「日光の社寺」としてユネスコの世界遺産になっている。久能山東照宮は、本殿・石の間・拝殿が2010年に国宝に指定された。家康を祀る社は、これらの二つが代表的な存在だ。
「神君」と、神になった家康
死後の家康は、「東照神君」「権現様」「神祖」「烈祖」などと尊称された。「神君伊賀越え」という呼び方もあり、これは本能寺の変の直後、家康が伊賀国の山道を越え、伊勢国から海路で三河まで戻った出来事を指す。多羅尾氏の居城では、城主・多羅尾光俊から赤飯を与えられて信用し、一泊したという。のちに多羅尾氏は近江で8,000石の代官となり、柘植氏は旗本になったとされる。
これらの尊称は、家康が江戸時代を通じて神として崇拝されたことの表れだ。「狸親父」の評価は後世の人々の見方の違いで揺れるが、「東照大権現」としての地位は、幕府の仕組みの中で固く守られた。同じ人物に、全く別方向の呼び名が重なっている。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 久能山東照宮(静岡市駿河区):家康の遺骸が最初に埋葬された地。本殿・石の間・拝殿は2010年に国宝に指定された。表参道は約1,159段の石段で、毎年4月17日に例祭が行われる
- 日光東照宮(栃木県日光市山内):東照大権現を主祭神とし、豊臣秀吉と源頼朝が合祀されている。「日光の社寺」としてユネスコ世界遺産に登録されている
- 徳川美術館(名古屋市):『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(顰像)を所蔵する
- 岡崎城(愛知県岡崎市):家康の誕生地。大樹寺・高野山も墓所として挙げられる
関連する人物
- 天海:家康の神号を「権現」とするよう進言し、日光への遷宮を指揮した
- 以心崇伝:「明神」号を推して天海と論争した。家康の遺言を記録している
- 徳川秀忠:二代将軍。天海の進言を採り、朝廷の4案から「東照大権現」を選んだ
- 徳川家光:三代将軍。日光の社殿を壮麗に造り直した
- 後水尾天皇:権現号を勅許し、神号を与えた
- 松浦清(静山):随筆『甲子夜話』の著者。ホトトギスの句の紹介で知られる
よくある質問
「狸親父」は家康の生前から使われていたのですか?
今回確認した資料からは、いつ使われ始めたのかは分かりません。Wikipediaは、狡知に長けた「狸親父」のイメージが定着していると記し、大坂の陣での謀略が後世に強調されたことが由来と考えられている、としています。
「東照大権現」は、いつ誰がつけた名前ですか?
家康の死後、朝廷が示した4案(日本大権現・東光大権現・東照大権現・威霊大権現)から、二代将軍・秀忠が選びました。正式な宣下は元和3年(1617年)2月21日で、後水尾天皇から与えられました。
「鳴くまで待とうホトトギス」は家康が言ったのですか?
確かめられていません。Wikipediaは、この句を三人の天下人を詠んだ作者不詳の川柳として扱っています。『甲子夜話』は家康の没後200年ほどあとに書かれ始めた書物です。
家康が自分の敗走姿を描かせた絵は実在しますか?
徳川美術館に『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(顰像)があります。ただし、家康が敗戦の戒めとして描かせたという話には、史料的根拠がないとされています。礼拝像だとする見方もあります。
家康の遺骸は、いまどこにありますか?
墓所として、久能山東照宮、日光東照宮、大樹寺、高野山が挙げられています。最初に埋葬されたのは久能山で、1617年に日光へ遷宮が行われました。




