平賀源内

結論:「源内が仕掛けた」は有名な話だが、裏づける資料はない

土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸時代の蘭学者・平賀源内が、売れない鰻屋のために「本日丑の日」と貼り紙を書くよう勧めたのが始まり、と広く語られています。しかし、源内とこの風習を結びつける一次資料は存在しません。Wikipediaの「土用の丑の日」も、この話の出どころは不明で、のちに作られた伝説と考えられていると説明しています。

確かなのは、江戸時代の安永・天明のころ(1772〜1788年)に、丑の日にうなぎを食べる習慣が始まったと『明和誌』が記していることです。源内が生きた時代(1728〜1780年)と重なるため、「あの発明家ならやりかねない」と結びつけられたのでしょう。ただ、『明和誌』にも源内の名は出てきません。

基本情報

  • 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)。享年は52とされるが、51や48とする資料もある
  • 時代:江戸時代中期
  • 出身:讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市志度)。高松藩の蔵番を務める白石家の三男
  • 身分・立場:本草学者、戯作者、浄瑠璃作者、鉱山開発者など。号は鳩渓、風来山人など多数
  • 主な業績:日本初の物産会の発案、『物類品隲』の刊行、エレキテルの復元、秩父の鉱山開発、蘭画の技法の伝授
  • 最期:殺傷事件で投獄され、破傷風で獄死

平賀源内とは何者か?本草学者からエレキテルまでの経歴

讃岐の低い身分から長崎遊学へ

源内の生家は高松藩の蔵番という低い身分でした。13歳ごろから藩医のもとで本草学を学び、儒学や俳諧にも親しんだといいます。1752年ごろには長崎へ遊学しました。その費用の出どころは謎とされ、藩主・松平頼恭の内命があったとする説などがあります。

1756年には江戸で本草学者の田村元雄(藍水)に師事しました。1759年に高松藩に召し抱えられたものの、1761年に辞職しています。この辞職のため、他の藩や幕府に仕えることはできなくなったとされます。

日本初の物産会と『物類品隲』

1757年、源内は日本で初めてとなる物産会(各地の産物を持ち寄って見せ合う会)を発案しました。以後も江戸で繰り返し開催し、1762年には湯島で「東都薬品会」を開いて、身分を問わず参加できる形をとりました。1763年には、黒砂糖を白砂糖にする方法などを記した『物類品隲』を刊行しています。

エレキテルの復元と見せ物

源内は、長崎で入手した静電気発生装置のエレキテルを、1776年に修理して復元しました。話題を呼んだエレキテルは見せ物となり、その謝礼は生活費の足しになりました。Wikipediaによれば、源内自身は原理をよく理解しないまま修復に成功したとされます。

戯作・浄瑠璃・鉱山・西洋画

文芸では、滑稽本の『根南志具佐』『風流志道軒伝』や狂文集『風来六部集』を著し、浄瑠璃では福内鬼外の名で『神霊矢口渡』などを手がけました。こうした文芸活動も、主に生活費を稼ぐためだったとされます。

鉱山にも関わりました。1766年ごろから川越藩主の依頼で秩父中津川の鉱山開発にあたり、石綿などを発見しています。1772年以降に鉄山計画を本格化させ、1773年に精錬所の建設が始まりましたが、精錬技術が未熟で良質な鉄が作れず、1774年に休山となりました。

1773年には、秋田藩主・佐竹義敦の招きで阿仁鉱山へ向かう途中、角館で小田野直武に蘭画の技法を伝えました。直武はのちに『解体新書』の挿絵を描いた人物です。源内自身も『西洋婦人図』などの蘭画を残しています。

土用の丑の日とうなぎの由来:源内説と諸説を検証

そもそも「土用」と「丑の日」とは

土用は、五行思想にもとづく雑節の一つで、立春・立夏・立秋・立冬の前のおよそ18日間を指します。丑の日は十二支で数える日のことで、土用の期間に丑の日があれば、それが土用の丑の日です。ふつうは夏の土用を指します。夏の土用はおおよそ7月19日ごろから8月7日ごろにあたり、丑の日が2回ある年は、1回目を一の丑、2回目を二の丑と呼びます。二の丑がある年は、全体の約57%とされています。

源内説の中身と、確かめられないこと

通説はこうです。讃岐出身の源内が、うなぎが売れずに困る鰻屋から相談を受け、「本日丑の日」と書いた貼り紙を勧めたところ繁盛し、他の店も真似をして定着した。この話は出典が不明です。『明和誌』にあると説明されることもありますが、同書にそうした記載はありません。『明和誌』(青山白峰著、文政5年=1822〜1823年)が記すのは、鰻を土用の丑に食べる習慣が安永・天明のころに始まったという点までです。

ほかの由来説

由来としては、源内以外にも説が伝わっています。

  • 春木屋善兵衛説:大量の注文を受けた鰻屋が、子・丑・寅の日に作った蒲焼を土甕に保存したところ、丑の日の分だけ傷まなかったという話。『江戸買物独案内』が出典とされますが、同書にこの話は載っていません
  • 蜀山人(大田南畝)説:南畝が「丑の日に鰻を食べると薬になる」という趣旨の狂歌を考えたとする説。『天保佳話』に載るとされますが、同書にそのような記述はありません。南畝が鰻屋を讃えた狂歌・狂詩は『紅梅集』にありますが、土用の丑とは結びついていません
  • 「丑」の字説:平仮名の「うし」を墨で書くと鰻が二匹並んで見えたから、という説。出典が示されていません

源内説も含め、これらの多くは比較的新しく作られた伝説と考えられています。

掘り下げ:夏の「う」の食べ物とうなぎの栄養、現代のうなぎ事情

丑の日に食べたのは、うなぎだけではなかった

丑の日に「う」のつくものを食べると夏負けしない、という俗信もありました。例として、瓜、うどん、梅干し、ウサギ、馬、牛などが挙げられています。今も残るのは、うなぎに添える奈良漬ぐらいです。夏に精をつけるためにうなぎを食べること自体は、古い時代にさかのぼり、『万葉集』にも見られるとされます。

栄養と夏バテの関係

うなぎはビタミンAやB群が豊富です。ただ、Wikipediaが紹介する疲労の研究者の見解では、夏バテ予防のために食べることに、現在の医学的な根拠はほとんどないとされています。

ニホンウナギの資源問題

現在のニホンウナギは、環境省レッドリストで2013年に絶滅危惧IB類(EN)となり、IUCN(国際自然保護連合)も2014年に絶滅危惧種(EN)に指定しました。野生のシラスウナギは20世紀後半から減少し、日本では2009〜2012年に採捕量が減ったため、2012年に農林水産省が資源保護を柱とする「ウナギ緊急対策」を定めています。

2010年には、水産総合研究センター(現・水産研究・教育機構)が完全養殖に成功しましたが、実験室レベルの成功です。飼育費用が高く商業化には至っておらず、現在の養殖は、河川で捕獲した野生のシラスウナギを養殖池で育てる方式が主流です。

源内の最期

1779年11月20日の夜、源内宅に泊まっていた門人の久五郎と友人の丈右衛門が口論になり、源内は抜刀して二人に傷を負わせました。久五郎はその傷がもとで亡くなったとされます。別の資料には、大名屋敷の修理を請け負った際に酔い、修理計画書を盗まれたと思い込んで町人を殺傷した、とするものもあります。源内は11月21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死しました。

ゆかりの地と関連する人物

  • 橋場の旧総泉寺墓地(東京都台東区):友人の杉田玄白が私財を投じて建てた源内の墓があります。1924年に東京府の史跡に仮指定され、1943年に国の史跡に指定されました。戒名は「智見霊雄」です
  • 志度(香川県さぬき市):源内の生誕の地です。故郷の自性院にも墓があり、毎年12月に法要が営まれるとされます
  • 杉田玄白:源内の墓碑銘を記した友人。碑銘の詩の一節は「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死」と伝えられます
  • 小田野直武:秋田藩の角館出身。源内から蘭画の技法を学び、『解体新書』の挿絵を描きました
  • 田村元雄(藍水):江戸で源内が師事した本草学者

よくある質問

平賀源内が土用の丑の日を考えたのは本当ですか?

確かな資料はありません。源内と結びつける一次資料はなく、のちに作られた伝説と考えられています。丑の日に鰻を食べる習慣が安永・天明のころに始まったことは、『明和誌』に記されています。

土用の丑の日は年に何回ありますか?

四季の土用それぞれに丑の日がありえます。すべての季節を合わせると、丑の日は年に平均約6.09回です。夏の土用は丑の日が1回の年と、一の丑・二の丑の2回の年があります。

うなぎを食べると夏バテを防げますか?

うなぎにはビタミンAやB群が豊富ですが、疲労の研究者は、夏バテ予防として食べることに現在の医学的な根拠はほとんどないと述べています。

平賀源内はどのように亡くなりましたか?

1779年に門人らを傷つける事件を起こして投獄され、安永8年12月18日(1780年1月24日)に破傷風で獄死しました。事件の経緯には、資料により異なる記述があります。

平賀源内の墓はどこにありますか?

東京・橋場の旧総泉寺墓地に、杉田玄白が建てた墓があり、国の史跡です。故郷の志度にある自性院にも墓があるとされます。