結論:男色家だったとする記述が定説に近いが、史料で分かるのは限られる
平賀源内は、男色家(男性との関係を持つ人)だったと記されるのが一般的です。日本語版Wikipediaは源内を男色家とし、生涯妻帯せず、歌舞伎役者を贔屓にしたと説明しています。なかでも二代目瀬川菊之丞(路考)との関係がよく知られている、というのが現在の通説的な書き方です。
ただし、二人の関係について、Wikipedia の記述は「よく知られていた」という以上の細部を伝えていません。いつ、どのような間柄だったのかを具体的に示す記録は、今回確かめた範囲では見つかりませんでした。この記事では、確かめられた根拠とそうでない部分を分けて整理します。
なお「ゲイ」は現代の言葉です。江戸時代の「男色」が、現代の性的指向の概念とそのまま重なるかどうかは、慎重に考える必要があります。ここでは源内について史料に書かれたことを順に見ていきます。
基本情報
- 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)、享年52
- 時代:江戸時代中期
- 出身:讃岐国寒川郡志度浦(現・香川県さぬき市志度)。高松藩の蔵番を務めた白石家の三男
- 立場:本草学者、戯作者、浄瑠璃作者、鉱山や物産の開発に関わった人物。号は鳩渓、風来山人など多数
- 主な業績:『物類品隲』の刊行、エレキテルの修理・復元、『根南志具佐』『風流志道軒伝』などの戯作、浄瑠璃『神霊矢口渡』
- 最期:安永8年(1779年)の殺傷事件で投獄され、獄中で破傷風により死去
平賀源内は男色家だったのか:根拠を整理する
Wikipedia が示す根拠は「著作」と「役者との関係」
日本語版Wikipediaで源内の男色に関して挙げられているのは、主に二つです。一つは、源内が歌舞伎役者を贔屓にし、妻帯しなかったという記述。もう一つは、著作として挙げられる水虎山人名義の『菊の園』(明和元年=1764年)と、陰間茶屋(男色を売る茶屋)の案内書である『男色細見』(安永4年=1775年)です。
題名から見て、男色の世界に通じた書き手だったことは想像できます。ただ、確かめられたのは「源内の著作として挙げられている」という点までです。作品の中身や、作者が誰かをめぐる議論までは、今回の資料では確認できていません。
二代目瀬川菊之丞との関係
瀬川菊之丞(二代目)は、寛保元年(1741年)に生まれ、安永2年閏3月13日(グレゴリオ暦で1773年5月4日)に亡くなった歌舞伎役者です。容姿が評判で、地芸(歌や音曲)にも所作(舞踊や動き)にも優れ、時代物も世話物もこなしたと評されます。
江戸での人気は大きく、路考髷(ろこうまげ)、路考茶、路考櫛のように、役者の名にちなんだ品々が町人のあいだで流行しました。菊之丞の項は、源内との関係が当時よく知られていたこと、源内が男色家であったことを書いています。ただし、それ以上の具体的な説明はありません。
菊之丞が亡くなったのは安永2年で、源内が亡くなる6年前です。今回確かめた資料には二人の関係の具体的な中身が書かれていないため、「恋人同士だった」といった踏み込んだ言い方は、資料からは裏づけられません。「関係が知られていた」という範囲にとどめるのが正確です。
「ゲイ」という言葉をどう考えるか
ここは私の考えです。史料に出てくるのは「男色」「男色家」という言葉であって、今日の「ゲイ」という自己認識や人権の議論を前提にしたものではありません。源内が男性との関係を持ったという記述は確かにありますが、本人が自分をどう捉えていたかを語る資料は、今回確かめた範囲にはありません。「ゲイ」という言葉は、読者に分かりやすい現代語として使うにとどめ、断定の根拠にはしないのが妥当だと考えます。
源内の多才な素顔:男色だけでは語れない人物
本草学者として:日本初の物産会
源内は13歳頃から藩医のもとで本草学(薬になる動植物や鉱物の学問)を学んだとされます。宝暦2年頃には長崎へ遊学し、本草学やオランダ語、医学などを学んだと推測されています。宝暦6年には江戸で田村元雄(藍水)に入門しました。
宝暦7年には、日本で最初とされる物産会(各地の産物を持ち寄って見せ合う会)を発案します。宝暦12年には湯島で「東都薬品会」を開きました。翌宝暦13年に刊行した『物類品隲』には、黒砂糖を白砂糖にする精製法も記されています。
エレキテルは「発明」ではなく修理・復元
エレキテルは静電気を起こす装置です。源内は長崎で手に入れたものを、安永5年(1776年)に修理して復元しました。原理はよく知らなかったとされますが、修復には成功しています。見せ物にして謝礼を受け、生活費の足しにしたといいます。「発明した」と紹介されることがありますが、実際は復元です。
戯作・浄瑠璃の作者として
戯作では風来山人、悟道軒、天竺浪人などの筆名を使い、『根南志具佐』『風流志道軒伝』といった滑稽本や、『風来六部集』などの狂文集を残しました。浄瑠璃は福内鬼外の名で書き、『神霊矢口渡』は明和7年に初演されています。文芸活動は、生活費を稼ぐ目的もあったとされます。
交友も広く、大田南畝の狂詩文集に序文を寄せたほか、蔦屋重三郎が出した吉原細見にも序文を書いています。
殺傷事件と獄死:事件から獄死までの経緯
安永8年11月20日夜、神田の自宅で
安永8年(1779年)11月20日の夜、神田の源内宅で、門人の久五郎と友人の丈右衛門が口論になりました。源内は抜刀して二人に傷を負わせ、久五郎は傷がもとで亡くなったとされます。これは斎藤月岑『平賀実記』による記述です。
事件の原因には別の説もあります。木村黙老『聞まゝの記』は、大名屋敷の修理計画書を盗まれたと誤解して、町人を傷つけたと伝えています。原因は一つに定まっておらず、「書類が見つかったという結末」まで確かめられる資料は今回ありませんでした。
投獄から破傷風で死去まで
源内は翌11月21日に投獄され、12月18日に破傷風で亡くなりました。事件から数えると約4週間です。
遺体は平秩東作が引き取り、杉田玄白らが葬儀を行いました。ところが獄死した者であるため、幕府の許可が下りず、墓碑を建てることはできなかったと記されています。
晩年の潜伏説は俗説
源内は事件で死んだのではなく、田沼意次を頼って遠州相良に逃れて生き延びた、という話も語られます。しかし、Wikipedia はこれを根拠のない俗説としています。記録に残るのは、獄中で亡くなったという経緯です。
ゆかりの地と関連する人物
墓所と顕彰施設
- 平賀源内墓(東京都台東区橋場):総泉寺の墓所にあたる場所にあります。杉田玄白が私財を投じて建てたとされ、墓の背後には従僕福助の墓があります。墓石の文字には改変の形跡があるとの指摘もあります。1924年に東京府の史跡に仮指定され、1943年に国の史跡に指定されました。戒名は智見霊雄です。
- 自性院(香川県さぬき市志度):故郷にある墓で、義弟の平賀権太夫が建てたと伝えられます。毎年12月に法要が行われています。
- 平賀源内記念館・平賀源内先生遺品館(さぬき市志度):発明品や著作、玄白との書簡などを展示しています。
- 平賀源内生祠(広島県福山市鞆町):源内が滞在した溝川家が建立したものです。
- 発明神社(香川県丸亀市の丸亀春日神社末社):祭神の一柱として源内が祀られています。
関連する人物
- 杉田玄白:友人。墓碑銘を撰し、『蘭学事始』で源内との対話を回想しています。
- 田沼意次:源内は物産会を通じて幕府老中に知られるようになったとされます。
- 平秩東作:獄死した源内の遺体を引き取りました。
- 小田野直武:秋田の角館で蘭画の技法を伝えられたとされる藩士です。
- 中川淳庵:交友があったと記されています。
- 蔦屋重三郎・大田南畝:源内が序文を寄せた書の版元と作者です。
- 二代目瀬川菊之丞:人気の歌舞伎役者。源内との関係が知られていたと記されます。
よくある質問
平賀源内は本当に男色家だったのですか。
日本語版Wikipediaは源内を男色家と記し、生涯妻帯せず歌舞伎役者を贔屓にしたと説明しています。ただし、具体的な交際の記録まで確かめられたわけではありません。
二代目瀬川菊之丞とは恋人同士だったのですか。
菊之丞の項には、源内との関係が当時よく知られていたと書かれています。しかし関係の中身を示す記述はなく、「恋人」と断定できる根拠は確認できませんでした。
『男色細見』は源内の作ですか。
陰間茶屋の案内書『男色細見』(安永4年)は、源内の著作として挙げられています。ただし、今回確かめた資料では内容や作者をめぐる議論までは確認できていません。
エレキテルは源内の発明ですか。
いいえ。長崎で入手した装置を、安永5年(1776年)に修理して復元したものです。原理はよく知らなかったとされますが、修復には成功しました。
源内はなぜ亡くなったのですか。
安永8年11月20日の夜に起きた殺傷事件で投獄され、12月18日に獄中で破傷風により亡くなりました。享年52です。




