結論:入籍した妻は津島美知子、その前に内縁の妻・小山初代がいた
太宰治が戸籍の上で妻としたのは、1939年(昭和14年)1月に結婚式を挙げた津島美知子(入籍は1940年)(旧姓・石原)である。それ以前に、青森の芸者だった小山初代と夫婦として暮らしたが、津島家が結婚を認めず、入籍はしていない。初代とは1937年に別れた。
美知子は、太宰の師である井伏鱒二の紹介で見合いをした、山梨の女学校の教師だった。結婚後は甲府、のち三鷹で家庭を守り、太宰の死から30年たった1978年に回想録『回想の太宰治』を出している。初代は、太宰の薬物依存、不貞の発覚、心中未遂を経て太宰のもとを去り、1944年に中国の青島で亡くなった。
基本情報
- 太宰治(津島修治):1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村生まれ。1948年(昭和23年)6月13日、東京府北多摩郡三鷹の玉川上水で亡くなる。38歳。墓所は三鷹の禅林寺
- 津島美知子:1912年(明治45年)1月31日、島根県浜田町(現・浜田市)生まれ。1997年(平成9年)2月1日没、85歳。父は地質学者の石原初太郎
- 小山初代:1912年(明治45年)3月10日、北海道室蘭生まれ。1944年(昭和19年)7月23日、中国・青島で没、32歳。芸者としての名は「紅子」
- 時代:昭和時代
- 型:人物(太宰の2人の妻)
津島美知子とはどんな人か:見合いから結婚、甲府の新婚生活まで
井伏鱒二が持ち込んだ縁談と見合い
美知子は島根県に生まれ、父の転任で各地を移ったのち、1922年に甲府へ戻った。山梨県立甲府高等女学校を出て東京女子高等師範学校文科に進み、1933年に卒業。同じ年に山梨県立都留高等女学校の教諭となり、地理と歴史を教えた。
縁談は1938年、井伏鱒二を通じて持ち込まれた。見合いは同年9月で、11月に婚約している。仲人を頼まれた井伏は、媒酌に乗り気ではなかったと伝えられる。
「完全の狂人として棄てて下さい」の結婚誓約書
媒酌を渋る井伏に対し、太宰は「結婚誓約書」を差し出した。乱れた生活を反省し、家庭を守る決意を書いたもので、その中に「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」という一文がある。井伏への誓いであって、美知子本人への手紙ではない点には注意したい。
結婚式は1939年1月8日、井伏宅で挙げられた。2人は甲府市御崎町の新居で暮らし始めた。
甲府で書かれた『富嶽百景』『女生徒』
甲府での暮らしは長くなかった。同じ1939年の9月1日には、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居している。それでも、『富嶽百景』と『女生徒』は、いずれもこの1939年の作品である。甲府時代の太宰は、湯村温泉の旅館「明治」を定宿にしていた。
なお、甲府は美知子の実家のある土地で、1945年7月の甲府空襲では石原家が全焼した。太宰は妻子を連れて津軽の生家へ疎開している。
太宰の妻として歩んだ日々:『ヴィヨンの妻』と『回想の太宰治』
3人の子と、晩年の太宰
美知子との間には、1941年に長女、1944年に長男、1947年に次女が生まれた。長男の正樹は1960年に15歳で亡くなっている。次女は、のちに小説家として知られた。
一方で、晩年の太宰には別の女性との関係があった。歌人で日記の書き手でもあった太田静子は、長編『斜陽』の材料となった人物で、1947年11月には2人の間に娘が生まれ、太宰はこの子を認知している。『斜陽』は同年に雑誌『新潮』で連載され、よく売れた。美知子はその間も家庭を保ち続けた。
『ヴィヨンの妻』の「さっちゃん」は美知子なのか
1947年3月、雑誌『展望』に『ヴィヨンの妻』が載った。詩人・大谷の妻「さっちゃん」が語り手で、飲み歩いて借金を重ねる夫のために、夫が金を取った小料理屋で働き始める。働くうちに、彼女は次第に幸せを感じるようになる。物語の終盤、新聞に夫が「人非人」と書かれても、彼女は、人非人であろうとなかろうと、自分はただ生きていきたいのだと答える。
この作品は1946年末から翌年1月中旬ごろにかけて書かれ、同年8月に筑摩書房から単行本になった。題名は、15世紀のフランスの詩人ヴィヨンにちなむとされる。ただ、さっちゃんが美知子をモデルにしたと確かめられる記録は、今回当たった資料には見つからなかった。ここでは、大谷の暮らしぶりに太宰自身の暮らしが重なる、という読み方があることまでにとどめる。
遺書と、30年後の回想録
太宰が亡くなったあと、遺書のひとつが美知子に宛てて書かれていたことが、1998年に遺族によって公表された。そこには「誰よりも愛してゐました」という一文がある。また、作家の山岸外史は、美知子が涙ながらに「山岸さんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と話したと回想している。
美知子の『回想の太宰治』は、1978年に人文書院から出た。のちに増補改訂版(1997年)や講談社文芸文庫版(2008年)も出ている。結婚前後から晩年までを家族の立場から書いた本で、太宰を知るうえでよく参照される資料になっている。
小山初代とは誰か:芸者「紅子」との出会いと離別
弘前高校の学生と芸者・紅子
初代は北海道の室蘭で生まれ、父が1922年に行方不明になったあと、一家で青森へ移った。母は芸者置屋で針仕事をしていた。初代は1925年3月に大鰐尋常小学校を卒業し、料亭玉屋で仕込妓として働いて、「紅子」の名で芸者になった。
太宰と出会ったのは1927年ごろ、太宰が弘前高校の学生だったときである。1930年に太宰が手引きして初代が玉屋を出て上京すると、津島家は芸者との結婚に強く反対した。
入籍できなかった事情
長兄の津島文治は、太宰が津島家から分家除籍されることを条件に、結婚を認めた。大学を卒業するまで毎月120円を仕送りするとも約束したが、財産分与を期待していた太宰は落胆したという。
同じ1930年11月28日には、太宰が銀座のバーの女給と鎌倉・小動岬で薬による心中を図り、相手の女性だけが亡くなる事件が起きた。太宰は自殺幇助罪に問われたが、文治らの働きかけで起訴猶予になっている。その後、初代とは仮祝言をあげたものの、入籍はしなかった。
パビナール依存、告白、そして離別
1935年4月、太宰は腹膜炎の手術後に鎮痛剤パビナールの注射を受け、依存症になった。1936年ごろには1日に約50本を注射していたとされ、初代は着物を質に入れて金を工面した。初代が井伏鱒二に泣きついたことも、記録に残っている。1936年10月13日、太宰は東京武蔵野病院に入院し、11月12日に退院した。
1937年3月、津島家の親類の画学生・小館善四郎が、初代との不貞を太宰に告白した。同じ月、2人は水上温泉でカルモチンによる心中を図ったが、未遂に終わっている。2人は6月に離別した。太宰が心を寄せた初代の「裏切り」が、この前後の太宰の作品に影を落としたとする読み方はあるが、本稿では事実の経過のみを記す。
初代のその後
別れたあと、初代は青森へ戻り、家業の魚屋を手伝い、北海道各地を移り歩き、のちに満州を経て青島に落ち着いた。1942年に一時帰国して井伏鱒二の家に身を寄せ、再び青島へ戻り、1944年に同地で亡くなった。死因は不明で、心不全とも自殺ともいわれる。遺骨は同年8月に日本へ戻り、弘前の寺に葬られた。井伏が太宰に初代の死を知らせたのは、1945年4月である。
初代の項目は出典が十分でないと注記されており、細部は確かめにくい。そのため本稿では、仮祝言の時期を絞らずに書いた。
ゆかりの地と関連する人物
- 禅林寺(東京都三鷹市):太宰の墓所
- 斜陽館(青森県五所川原市金木町):太宰の生家で、現在は太宰治記念館として公開されている重要文化財の建物
- 太宰治文学サロン(三鷹市下連雀):2020年3月に開館した施設
- 井伏鱒二:美知子との縁談を持ち込み、初代の相談にも乗った師
- 津島文治:太宰の長兄。初代との結婚の条件を示し、仕送りを約束した
- 山崎富栄:太宰とともに亡くなった女性
- 太田静子:『斜陽』の材料となった女性
よくある質問
太宰治の正式な妻は誰ですか
入籍したのは津島美知子です。小山初代とは夫婦として暮らしましたが、津島家が結婚を認めず、入籍していません。
美知子との出会いは誰の紹介ですか
師の井伏鱒二です。1938年9月に見合いをし、11月に婚約、1939年1月8日に井伏宅で結婚式を挙げました。
初代との別れの原因は何ですか
1937年3月に、画学生の小館善四郎が初代との不貞を太宰に告白したことが直接のきっかけです。その前には、太宰のパビナール依存があり、初代が井伏に助けを求めるほど生活は追い詰められていました。同月に水上温泉で心中未遂があり、6月に離別しています。
『回想の太宰治』はいつ出た本ですか
美知子が書いた回想録で、1978年に人文書院から刊行されました。1997年に増補改訂版が出ています。





