後醍醐天皇 日本史トリビア

結論:後醍醐天皇は元弘2年に隠岐へ流され、約1年後に脱出して幕府を倒す流れをつくった

後醍醐天皇が隠岐島(現在の島根県)へ流されたのは、元弘2年(正慶元年、1332年)3月7日です。倒幕の計画が発覚して笠置山で捕らえられた後、幕府は天皇を廃し、承久の乱の先例にならって隠岐へ送りました。

天皇は翌元弘3年(1333年)閏2月24日に隠岐を脱出します。出雲を目指したものの風に流されて伯耆国の名和の港に着いたと伝わり、名和氏に迎えられて船上山で挙兵しました。この挙兵が各地の反幕府勢力と結びつき、同年5月に鎌倉幕府は滅亡します。

配所の場所には、隠岐の島町の隠岐国分寺と、西ノ島町の黒木御所という二つの伝承があり、どちらかに確定していません。この記事では、島流しの経緯、配所をめぐる諸説、脱出の経過を、Wikipedia と島根県の公的ページで確かめられた範囲で整理します。

基本情報

  • 人物:後醍醐天皇(第96代天皇)
  • 時代:鎌倉時代後期(元弘の乱の時期)
  • 立場:天皇。幕府によって廃位され、謀反人として扱われた
  • 配流先:隠岐島。元弘2年3月7日に流された
  • 配流の期間:脱出まで約1年(元弘3年閏2月24日に脱出)
  • 脱出後の拠点:伯耆国の船上山(現在の鳥取県琴浦町)
  • 帰京:元弘3年6月5日(1333年7月17日)

後醍醐天皇の隠岐配流(島流し)の経緯

倒幕計画の発覚と笠置山での挙兵

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕計画は、側近の吉田定房が六波羅探題に知らせたことで発覚しました。天皇は京都を脱出し、最初は比叡山に拠ろうとしましたが失敗し、笠置山(現在の京都府笠置町)に籠城します。京を出たのは8月24日、笠置山に着いたのは8月27日(いずれも旧暦)でした。

幕府は大仏貞直・金沢貞冬を大将とする軍勢を送ります。天皇方は3,000余りで、兵力では大きく劣っていました。

笠置山の落城と捕縛

戦いは9月2日に始まり、9月28日の夜、風雨のなかで幕府方が山に放火したことで天皇方は総崩れになり、笠置山は陥落します。天皇と側近は幕府方に捕らえられ、六波羅へ送られました。

幕府は、落城に先立つ9月20日に、持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)を三種の神器のないまま践祚させていました。捕らえられた後醍醐天皇は、神器を光厳天皇に譲っています。

廃位と流罪の決定

幕府は後醍醐天皇が京都を脱出するとただちに廃位し、承久の乱の先例に従って謀反人としました。流された先が隠岐だったのも、承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐へ送られた例を、幕府が踏まえたものです。

天皇は元弘2年3月7日に隠岐島へ流されました。同じ年の5月には笠置山で奮戦した足助重範が、6月には側近の日野資朝・日野俊基・北畠具行が、幕府によって処刑されています。天皇本人は命を取られませんでしたが、周りの人々の処遇は厳しいものでした。

配所はどこか:隠岐国分寺と黒木御所の二つの伝承

隠岐国分寺(隠岐の島町)

隠岐の島町池田にある隠岐国分寺は、島根県のページで「隠岐に流された後醍醐天皇の行在所と伝えられています」と紹介されています。奈良時代の国分寺の流れをくむ寺院で、天平13年(741年)頃の創建と推定され、境内は昭和9年(1934年)に国の史跡に指定されました。

毎年4月21日に行われる蓮華会舞は、昭和52年(1977年)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。後醍醐天皇の滞在とは別の、寺に古くから伝わる行事です。

黒木御所(西ノ島町)

もう一つの伝承が「黒木御所」です。船上山の戦いを説明するWikipediaの記述では、隠岐守護の佐々木清高が天皇を黒木御所に幽閉して厳しく監視したとされます。黒木御所は西ノ島町に伝わる行在所です。

隠岐国分寺のWikipediaの記述は、後醍醐天皇の行在所になったという伝承がある一方で、隠岐の黒木御所も行在所とされるため、実際の所在は明確ではないとしています。つまり、「どこに住んでいたか」は、今も確定していません。

島流しの暮らしはどうだったのか

隠岐での日々を日ごとに記録した資料は、今回確かめたページの中にはありません。確かめられるのは、守護の佐々木清高が厳しく監視したこと、それでも約1年後に天皇が島を出ていることまでです。

日常の様子や、島で誰と連絡を取っていたかは、ここでは書きません。島流しを描く読み物には細かな場面が多く出てきますが、出どころの確かな資料で裏づけられるかどうかを分けて読む必要があります。

隠岐からの脱出と鎌倉幕府の滅亡

脱出と名和の港への到着

後醍醐天皇は元弘3年閏2月24日に、名和長年ら名和一族の助けを得て隠岐から脱出しました。出雲を目指しましたが、風に流されて東へ進み、伯耆国の名和の港に漂着したと伝わります。

名和氏は伯耆国名和(現在の鳥取県大山町あたり)で海運業を営んだ一族で、『太平記』は長年を「家富み一族広うして」と紹介しています。名和の地頭だった名和氏が天皇を保護しました。

船上山の戦い

閏2月28日、天皇は守りやすい船上山で挙兵します。船上山は標高687メートルで、山頂は広くなだらかな一方、周囲は急峻な斜面です。山の名は、山の形が船底に似ていることに由来するとされます。

幕府方では、天皇を逃した責任を感じた佐々木清高が手勢を率いて攻め寄せました。天皇方には大山寺が援軍を出し、長年の弟・信濃坊源盛も僧兵を率いて加わります。長年は木に四、五百の旗を結びつけて大軍に見せかけ、矢を放って幕府軍をけん制しました。

閏2月29日の攻防では幕府方の指揮官・佐々木昌綱が矢を受けて戦死し、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃で、幕府方の多くの兵が断崖から落ちたとされます。清高は小波城へ逃げ帰りました。

幕府の崩壊と帰京

船上山に行宮を置いた天皇は、討幕の綸旨を発します。幕府は援軍として足利高氏(のちの尊氏)らを送りましたが、高氏は天皇方に味方し、5月7日に六波羅探題を攻め落としました。東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻め、5月22日に北条高時ら北条氏の中心人物が亡くなって、鎌倉幕府は滅亡します。

後醍醐天皇が京都に帰ったのは6月5日(西暦1333年7月17日)で、ここから建武の新政が始まりました。なお、船上山の戦いを説明するWikipediaの記事には帰洛を5月23日とする記述もあり、資料によって日付が異なります。この記事では、後醍醐天皇と元弘の乱の記事に共通する6月5日を採りました。

掘り下げ:島流しをめぐる疑問と諸説の整理

「島流し」は天皇にとって異例だったのか

天皇が廃されて島へ流された例として、承久の乱後の後鳥羽上皇が隠岐へ送られた先例があります。幕府は後醍醐天皇の廃位と配流で、この先例に従いました。後醍醐天皇は、承久の乱のときと同じ扱いを受けたことになります。

脱出は計画どおりだったのか

天皇の脱出先は、出雲だったと伝わります。ところが風に流されて東へ進み、伯耆国の名和の港に着いたとされます。目的地を外れた着岸が、結果として海運業を営む名和氏に出会う場所になりました。

ただし、脱出の準備や誰が手引きしたかといった細部は、今回確かめた資料には載っていません。「綿密な救出計画」といった表現は、確かめられる事実の外にあります。

天皇一人の力だったのか

隠岐にいた約1年のあいだに、本土では楠木正成や護良親王、赤松則村らが各地で反幕府の動きを続けていました。楠木正成が籠もった千早城は約90日持ちこたえ、反幕府の機運を広げたと説明されます。船上山の挙兵は、こうした流れの上にあります。

出雲で後詰をしていた富士名義綱や塩冶高貞らが天皇方に寝返ったことで、幕府軍は混乱しました。挙兵から数か月で幕府が滅びた背景には、天皇個人の行動だけでなく、各地の武士の動きがありました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 隠岐国分寺(島根県隠岐の島町):後醍醐天皇の行在所と伝わる。境内は国の史跡
  • 黒木御所(島根県西ノ島町):行在所と伝わるもう一つの場所
  • 船上山(鳥取県琴浦町):脱出後に挙兵した山。昭和7年(1932年)に国の史跡に指定された
  • 笠置山(京都府笠置町):元弘の乱で籠城した山

関連する人物

  • 名和長年:伯耆の武将。隠岐を脱出した天皇を迎えた。のちに楠木正成らとともに「三木一草」と称された。建武3年(1336年)に京都で足利尊氏と戦って討死した
  • 佐々木清高:隠岐守護。天皇を監視し、船上山で名和軍に敗れた
  • 楠木正成:千早城などで幕府軍と戦った武将
  • 足利高氏(尊氏):幕府の援軍として送られたが、天皇方に味方して六波羅探題を攻め落とした
  • 新田義貞:東国で挙兵し、鎌倉を攻め落とした

よくある質問

後醍醐天皇はいつ隠岐に流されましたか?

元弘2年(正慶元年、1332年)3月7日です。笠置山で捕らえられた後、幕府は承久の乱の先例にならって隠岐島へ送りました。

隠岐ではどこに住んでいたのですか?

隠岐の島町の隠岐国分寺と、西ノ島町の黒木御所の二つが行在所と伝えられ、どちらかには確定していません。国分寺の境内は国の史跡です。

隠岐から脱出したのはいつですか?

元弘3年閏2月24日です。名和長年ら名和一族の助けを得て脱出し、伯耆国の名和の港に着いたと伝わります。4日後の閏2月28日に船上山で挙兵しました。

島流しの期間は何年でしたか?

流されたのが1332年3月、脱出が1333年閏2月なので、約1年です。京都に戻ったのは1333年6月5日(西暦7月17日)でした。

脱出が幕府滅亡につながったのですか?

脱出と船上山での挙兵が、足利高氏の離反による六波羅探題の陥落や、新田義貞の鎌倉攻めへと続きました。ただし、楠木正成らの各地の抵抗も、幕府を追い詰める要因でした。