平賀源内

結論:二人の確かな接点は、安永3年(1774年)の吉原細見の序文ひとつ

平賀源内と蔦屋重三郎が関わったことが記録で確かめられるのは、安永3年(1774年)に出た吉原の案内書『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』です。蔦屋重三郎が改めたこの吉原細見の序文を、源内が「福内鬼外」の名で書きました。

重三郎の名がこの細見の刊記に初めて見えることから、両者の関係を指摘する研究者もいます。ただし、二人が親しく共同事業を進めたことを示す史料が揃っているわけではなく、序文のほかに具体的な協力を語れる材料は多くありません。

源内は安永8年(1779年)に事件を起こして投獄され、同年12月に獄中で亡くなりました。重三郎が黄表紙を手がけ、歌麿や写楽の作品を刊行して名を上げるのは、その後のことです。二人は活躍の時期が少しずつずれた「すれ違いの天才」と言えます。

基本情報

  • 平賀源内:享保13年(1728年)、讃岐国志度浦(現・香川県さぬき市志度)の生まれ。高松藩の蔵番を務めた下級の家の出身
  • 平賀源内の没年:安永8年12月18日(1780年1月24日)に獄中で死去。享年は52とされるが、51・48とする説もある
  • 平賀源内の主な業績:本草学、物産会の開催、『物類品隲』の刊行、鉱山開発、エレキテルの復元、戯作・浄瑠璃の執筆
  • 蔦屋重三郎:寛延3年(1750年)、新吉原に生まれ、のちに商家の喜多川氏の養子になる
  • 蔦屋重三郎の没年:寛政9年(1797年)に江戸で死去。47歳とされる(享年48とする記述もある)。死因は脚気と伝えられる
  • 蔦屋重三郎の主な業績:吉原細見の販売・刊行、黄表紙や錦絵の出版、喜多川歌麿・東洲斎写楽らの作品の刊行
  • 時代:江戸時代中期(田沼時代から寛政の改革の時期)

平賀源内と蔦屋重三郎とは何者か?二人の生涯を比べる

平賀源内:本草学者から鉱山師、戯作者まで

源内は13歳のころから藩医のもとで本草学を学びました。宝暦2年(1752年)ごろには約1年、長崎に遊学しています。宝暦4年(1754年)に藩へ蔵番の退役を願い出て、宝暦6年(1756年)には江戸で本草学者の田村元雄(藍水)に入門しました。

宝暦7年(1757年)には日本で最初の物産会を発案し、宝暦12年(1762年)には江戸の湯島で「東都薬品会」を開きます。品々を並べるこの催しの成果をまとめたのが、翌宝暦13年(1763年)に刊行した『物類品隲』です。

活動は学問にとどまりません。明和3年(1766年)からは川越藩主・秋元凉朝の依頼で秩父中津川の鉱山開発に関わり、石綿などを見つけました。安永2年(1773年)には秋田藩に招かれて阿仁鉱山へ向かう途中、角館で小田野直武に西洋画(蘭画)の技法を伝えています。一方、安永3年(1774年)には、精錬技術の未熟さなどから鉄山が休山となり、事業は行き詰まりました。

蔦屋重三郎:吉原の入り口で本屋を始めた版元

重三郎は7歳ごろに実の両親と別れ、喜多川氏の養子になりました。安永2年(1773年)、吉原の入り口にあたる五十間道の店を間借りして書肆「耕書堂」を始め、吉原細見の卸と小売を手がけます。

安永3年(1774年)7月には北尾重政画の『一目千本』を刊行しました。これが版元としての最初の出版物とされます。安永6年(1777年)以降は戯作本を扱い、黄表紙の刊行は安永9年(1780年)から始まりました。

二人の年表を並べると

  • 1773年(安永2年):重三郎が耕書堂を始める。源内は秋田の阿仁鉱山へ向かう
  • 1774年(安永3年):『細見嗚呼御江戸』に源内が序文を寄せる。重三郎の名が刊記に初めて見える
  • 1776年(安永5年):源内がエレキテルを復元する
  • 1779年(安永8年):源内が事件を起こして投獄され、獄中で亡くなる(西暦では1780年1月)
  • 1780年(安永9年):重三郎が黄表紙の刊行を始める

この年表のとおり、二人の活動が重なる期間は、重三郎の独立から源内の死までの数年間です。

吉原細見の序文とは?福内鬼外と『細見嗚呼御江戸』の真実

吉原細見とはどんな本か

吉原細見は、江戸の吉原遊廓の案内書です。廓内の略地図、妓楼と遊女の名寄、揚げ代、茶屋や船宿、芸者の名寄、年中行事の紋日などを載せました。細見売りが遊廓の中で売り歩いたといい、享保17年(1732年)ごろから年2回の定期刊行となって明治まで続いたとされます。日本史上でも最も長く続いた定期刊行物のひとつと紹介されています。

元文3年(1738年)以降は、鱗形屋と山本の2つの版元が年2回出していました。重三郎は当初、この細見の卸・小売を担う立場でした。

序文を書いた「福内鬼外」とは

「福内鬼外」は、源内が浄瑠璃を書くときに使った筆名です。明和7年(1770年)正月には、この名で書いた『神霊矢口渡』が江戸外記座で初演されました。戯作では「風来山人」などの名を使い分けており、宝暦13年(1763年)には『根南志具佐』(10月)と『風流志道軒伝』(11月)を刊行しています。

『細見嗚呼御江戸』は、吉原細見のなかでも鱗形屋が出した版にあたり、重三郎が改めた(編集に関わった)ものです。刊記に重三郎の名が見える最初の例で、序文を寄せたのが、すでに江戸で名の通っていた源内でした。

序文の中身は確かめられていない

序文に遊女の品定めのような内容が書かれていた、という紹介を目にすることがあります。しかし、今回確かめた資料(Wikipedia の源内・重三郎・吉原細見の各項)には、序文の文面そのものは載っていません。そのため、この記事では内容には踏み込みません。確かなのは、「源内が福内鬼外の名で序文を書いた」という点までです。

源内は男色家で生涯妻を娶らず、歌舞伎役者を贔屓にした、二代目瀬川菊之丞との仲が有名だ、とも伝えられます。この人物像と吉原の案内書が結びついた意外性が当時の話題になった、という筋書きは魅力的ですが、これを裏づける記述は確認できませんでした。読者への訴求を狙った起用だったかどうかは、推測の域を出ません。

源内の最期と、その後の蔦屋重三郎:二人は別々の道を歩んだ

源内の事件と獄死

安永8年(1779年)11月20日の夜、神田の源内の家に門人の久五郎と友人の丈右衛門が泊まっており、明け方に口論になりました。源内は刀を抜いて二人に傷を負わせ、久五郎はその傷がもとで亡くなったとされます。源内は翌21日に投獄され、12月18日(西暦1780年1月24日)に破傷風で獄死しました。

友人の杉田玄白は、源内の墓碑銘(処士鳩渓墓碑銘)を著しました。碑が実際に建てられたかどうかは諸説あります。その詩句は「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死」で、「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」と訳されます。

重三郎の躍進:細見の独占から黄表紙、浮世絵へ

鱗形屋が起こした重版事件のあと、重三郎は安永4年(1775年)秋から自前の吉原細見『籬の花』を刊行します。同年には折本仕立ての細見を6文で売り出して評判を取り、「細見蔦屋」の名が高まったといいます。天明3年(1783年)には鱗形屋の吉原細見の権利(株)を買い取り、同年9月には日本橋通油町の丸屋小兵衛の店を買って耕書堂の本店としました。

浮世絵では、喜多川歌麿を起用して寛政3年(1791年)ごろから大首絵の美人画を多く刊行しました。寛政6年(1794年)5月には東洲斎写楽の役者絵を大量に出し、翌年正月で刊行が終わります。

寛政の改革での処罰

寛政2年(1790年)に幕府が出版取締りの命令を出すと、翌寛政3年(1791年)に山東京伝の黄表紙・洒落本が摘発され、京伝は手鎖50日となりました。重三郎は重過料で身上半減とされましたが、財産の半分を没収されたという説には疑問があるとの注記もあります。以後は戯作の出版を控え、学術書などを扱う書物問屋に力を入れました。

重三郎は寛政9年(1797年)に亡くなります。源内の死から約17年後のことです。

ゆかりの地と関連する人物

平賀源内ゆかりの地

  • 旧総泉寺跡(東京都台東区橋場):杉田玄白が私財を投じて建てたとされる源内の墓が、旧地に残る
  • 自性院(香川県さぬき市志度):平賀家の菩提寺で、義弟の平賀権太夫が建てたとされる墓がある
  • 平賀源内記念館・平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市志度):発明品や著作、杉田玄白との書簡などを展示する。蓄電瓶のないエレキテル1台も現存する
  • 郵政博物館(東京都墨田区):「エレキテル(平賀家伝来)」を収蔵。平成9年(1997年)6月30日に国の重要文化財(歴史資料)に指定された

蔦屋重三郎ゆかりの地

  • 正法寺(東京都台東区):重三郎の墓所
  • 吉原五十間道・日本橋通油町:耕書堂を営んだ場所(日本橋通油町は天明3年に本店とした)

関連する人物

  • 杉田玄白:源内の友人で、墓碑銘を著した
  • 小田野直武:源内から角館で蘭画の技法を学んだ秋田藩士
  • 喜多川歌麿・東洲斎写楽:重三郎が作品を刊行した浮世絵師
  • 山東京伝:寛政の改革で処罰された戯作者。重三郎が出版を手がけた
  • 鱗形屋:吉原細見の老舗の版元。重三郎が権利を買い取った

よくある質問

平賀源内と蔦屋重三郎は実際に会っていたのですか?

直接会って仕事をしたことを示す史料は、今回確かめた範囲では見つかりませんでした。確かなのは、安永3年の『細見嗚呼御江戸』で、重三郎が改めた細見の序文を源内が書いたことです。両者の関係を指摘する研究者もいます。

源内の序文には何が書かれていたのですか?

確認できた資料には、序文の文面は載っていません。ここでは「福内鬼外の名義で書いた」という事実だけを挙げ、内容は推測しません。

源内はなぜ獄中で亡くなったのですか?

安永8年11月に自宅で口論となり、刀で門人と友人に傷を負わせたため、翌日に投獄されました。傷を負った久五郎は亡くなったとされます。源内自身は、12月18日に破傷風で獄死しました。

蔦屋重三郎はどんな処罰を受けましたか?

寛政3年(1791年)、山東京伝の作品が摘発された際に、重三郎は重過料で身上半減とされました。ただし、財産の半分を没収されたという説には疑問があるとされています。

源内が作ったエレキテルは今も見られますか?

源内が長崎で入手した破損品を安永5年(1776年)に復元したエレキテルのうち、平賀家に伝わった1台が国の重要文化財に指定され、郵政博物館に収蔵されています。さぬき市の平賀源内先生遺品館にも、蓄電瓶のない1台が現存します。