滝沢馬琴 日本史トリビア

結論:同一人物だが、「滝沢馬琴」は本名と筆名を組み合わせた呼び方

滝沢馬琴と曲亭馬琴は、同じ人物を指します。江戸時代後期の戯作者で、本名は滝沢興邦(おきくに)、作家としての筆名が曲亭馬琴です。

「滝沢」は本名の名字、「馬琴」は筆名の一部で、2つをつなげた「滝沢馬琴」は、本人が名乗った例は確かめた資料に見当たらない呼び方です。Wikipedia によると、この表記は明治以降に広まったもので、近世文学の研究者からは、本名と筆名を組み合わせた誤った呼び方だと批判されています。

江戸時代に書かれた本の作者名は「曲亭馬琴」です。本来の作者名を知っておくと、史料や展示で名前に出会ったときに迷いません。

基本情報

  • 生没年:明和4年(1767年)〜嘉永元年(1848年)、82歳で没
  • 時代:江戸時代後期
  • 本名:滝沢興邦(旧字体は瀧澤興邦)。のちに名を「解」に改めた
  • 立場:戯作者。武家奉公ののち、山東京伝との縁で戯作の世界に入った
  • 筆名:曲亭馬琴
  • 代表作:『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』
  • 墓所:東京都文京区の深光寺

滝沢馬琴と曲亭馬琴の違い:本名と筆名の由来

本名は滝沢興邦、通称は瑣吉

馬琴は明和4年6月9日(1767年7月4日)、江戸深川にあった旗本・松平信成の屋敷で生まれました。父は松平家の用人です。本名は滝沢興邦、幼名は春蔵、のちに倉蔵と名乗り、通称には佐七郎、瑣吉(さきち)があります。

のちに名を「解」に改めています。蔦屋重三郎のもとで働き始めた寛政4年(1792年)に、名を瑣吉、諱を解にしたと Wikipedia は記しています。

「曲亭馬琴」の由来は本人の説明と別の解釈がある

曲亭馬琴という筆名は、もとは青年期に俳諧で使っていた俳号が、戯作の号になったものとされています。

由来について、馬琴自身は次のように説明しています。「曲亭」は『漢書』陳湯伝にある山の名にちなみ、「馬琴」は小野篁の「索婦詞」(『十訓抄』に収録)の一節にちなむというものです。

別の解釈として、「廓で誠」という俗諺をもじったものだという説もあります。ただし、これは妄説だとする反論があります。

筆名が活字になった早い例

「曲亭馬琴」と明記された早い例として、寛政5年(1793年)に山東京伝が書いた序文が挙げられています。京伝は弟子入りを断った人物ですが、その京伝の序文に馬琴の名が見えます。

混同されやすい理由と、馬琴が戯作者になるまでの歩み

なぜ「滝沢馬琴」と呼ばれるのか

混同の原因は、本名の名字と筆名の下の部分を組み合わせた呼び名が、明治以降に定着したことにあります。江戸時代の作者名は「曲亭馬琴」で、作者が自分で「滝沢馬琴」と名乗った例は、確かめた資料の中にはありません。

なお、なぜその組み合わせが広まったのかという理由までは、確かめた資料に書かれていません。

武家奉公から京伝のもとへ

父の死後、馬琴は10歳で家督を継ぎました。主君の孫・八十五郎の小姓を務めましたが、14歳で松平家を離れています。その後は長兄の紹介で戸田家の徒士になるものの長続きせず、武家の渡り奉公を転々としました。

寛政2年(1790年)、24歳の馬琴は山東京伝を訪ね、弟子入りを願います。京伝は断りましたが、出入りは許しました。翌寛政3年(1791年)、京伝の門人を名乗って黄表紙『尽用而二分狂言』を出し、戯作者として歩み始めます。

蔦屋重三郎のもとで働き、結婚、履物屋へ

寛政4年(1792年)3月、馬琴は版元の蔦屋重三郎に手代として雇われました。翌年7月に店を辞め、会田家の未亡人・お百と結婚します。

結婚後の暮らしを支えたのが、飯田町仲坂(現在の九段北一丁目付近)の世継稲荷の下にあった履物屋「伊勢屋」です。ただし馬琴は商売に熱心ではなく、義母が亡くなった寛政7年(1795年)にやめたとされています。

数奇な生涯と代表作:八犬伝の28年と失明

『南総里見八犬伝』を28年かけて完結

『南総里見八犬伝』は、文化11年(1814年)に刊行が始まり、天保13年(1842年)に完結しました。刊行に28年を費やした、全98巻106冊の大作です。馬琴が48歳から76歳に至るまでの後半生を費やした仕事で、挿絵は柳川重信、渓斎英泉、二代柳川重信が担当しました。

Wikipedia は、この作品の大ヒットによって馬琴は原稿料だけで生計を立てられた、日本初の専業作家と説明しています。ただし、副業として下駄屋を営んでいた時期もあったとされています。

『椿説弓張月』と源為朝

『椿説弓張月』は、文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行された読本で、全5編29冊です。挿絵は葛飾北斎が描きました。主人公は『保元物語』に登場する弓の名手・源為朝です。

前篇・後篇は『保元物語』にほぼ忠実に為朝の活躍を描き、続篇以降は、為朝が琉球に渡って琉球王国を再建する話を創作しています。後半の着想には、中国の『水滸後伝』が使われ、李俊がシャム王になる筋などを借りたと説明されています。

失明とお路の口述筆記

馬琴は天保10年(1839年)に失明しました。息子の宗伯はそれ以前の天保6年(1835年)に亡くなっており、宗伯の妻・お路(土岐村路とも表記)が口述筆記を担い、執筆は続きました。八犬伝の完結は、この口述筆記に支えられたものです。

馬琴は嘉永元年11月6日(1848年12月1日)に、82歳で没しました。作者名は最後まで「曲亭馬琴」であり、墓所の深光寺に残る法名は「著作堂隠誉蓑笠居士」です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 深川(現在の江東区平野一丁目):松平信成の屋敷があり、馬琴の生誕の地とされる
  • 飯田町仲坂(現在の九段北一丁目付近):履物屋「伊勢屋」があった場所
  • 深光寺(東京都文京区):馬琴の墓所

関連する人物

  • 山東京伝:弟子入りを断りつつ、出入りを許した恩人。のちには競争相手にもなった
  • 蔦屋重三郎:馬琴を手代として雇った版元
  • 葛飾北斎:『椿説弓張月』の挿絵を担当した
  • お路:宗伯の妻。失明後の馬琴の口述筆記を担った
  • 源為朝:『椿説弓張月』の主人公

よくある質問

滝沢馬琴と曲亭馬琴は別人ですか?

同一人物です。本名が滝沢興邦で、作家としての筆名が曲亭馬琴です。

どちらの名前が正しいのですか?

江戸時代の作者名は「曲亭馬琴」です。「滝沢馬琴」は明治以降に広まった表記で、近世文学の研究者からは批判されています。

「曲亭馬琴」はどういう意味ですか?

馬琴自身の説明では、「曲亭」は『漢書』陳湯伝にある山の名、「馬琴」は小野篁の「索婦詞」の一節にちなみます。別に俗諺をもじったとする解釈もありますが、妄説だとする反論があります。

馬琴は失明しても書き続けたのですか?

天保10年(1839年)に失明した後、息子の妻・お路が口述筆記を担い、『南総里見八犬伝』の執筆が続けられました。