結論:源内のすごさは「発明家」の一言に収まらない幅の広さにある
平賀源内(1728〜1780年)は、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市志度)出身の江戸時代の人物です。本草学者として物産会を開き、長崎で手に入れた静電気発生装置を修復して「エレキテル」を作り、鉱山の指導にも関わり、戯作や浄瑠璃も書きました。
一方で、すべてが成功したわけではありません。鉄山は良質な鉄を作れず休山になり、晩年は人を傷つける事件で投獄され、獄中で亡くなっています。この記事では、有名なエピソードを、確かめられた範囲の事実で順に見ていきます。
基本情報
- 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)。享年は52歳とされるが、48歳や51歳とする資料もある
- 時代:江戸時代中期
- 出身:讃岐国寒川郡志度浦。高松藩の蔵番を務めた白石家の三男
- 立場:本草学者、蘭学に通じた人物、戯作者、浄瑠璃作者
- 主な業績:物産会(薬品会)の開催、エレキテルの修復、量程器・磁針器の製作、鉱山の指導、『物類品隲』『根南志具佐』『風流志道軒伝』の執筆
- 筆名:風来山人、福内鬼外など
平賀源内とは何者か?生い立ちとすごいエピソード
足軽相当の家に生まれ、藩医のもとで本草学を学んだ
源内は高松藩の蔵番の家に生まれました。家格は足軽相当で、決して高い身分ではありません。13歳ごろから藩医のもとで本草学と儒学を学び、俳諧にも親しんでいます。寛延2年(1749年)に父が亡くなると蔵番を継ぎました。
信濃源氏の流れをくむ平賀氏の末裔を称しました。
長崎遊学から江戸へ
宝暦2年(1752年)ごろ、源内は約1年間、長崎に遊学しました。その資金や許可については、藩主・松平頼恭の内命があったとする説もあります。宝暦4年(1754年)に蔵番を退き、家督は妹の婿養子に譲りました。
宝暦6年(1756年)には江戸に出て、本草学者の田村元雄(藍水)に師事します。宝暦9年(1759年)に高松藩に三人扶持で召し抱えられましたが、宝暦11年(1761年)に辞職しました。辞職によって、その後は他藩や幕府に仕えることができなくなったとされています。
エピソード1:物産会を開いた
宝暦7年(1757年)、源内は薬種や物産を持ち寄って展示する物産会を発案しました。日本初の物産会とされています。宝暦12年(1762年)には湯島で「東都薬品会」を開きました。身分を問わず参加できる形式で、博覧会の先駆とされます。
その成果は宝暦13年(1763年)刊行の『物類品隲』にまとまりました。黒砂糖を白砂糖に精製する方法なども記された書物です。
エピソード2:歩数を測る量程器と磁針器を作った
宝暦5年(1755年)には、歩いた距離を測る量程器と、方位磁針の一種である磁針器を製作したとされます。磁針器はオランダ製のものを模したものと伝えられます。明和2年(1765年)には温度計も作ったとされ、華氏を採用していたと推定されています。
平賀源内とエレキテル:修復の経緯と現存品
エレキテルとは何か
エレキテルは、木製の箱にガラスを収めた摩擦起電器です。外のハンドルを回すと、内部のガラスが摩擦されて電気が起こり、銅線を通って放電します。内部にはライデン瓶(蓄電瓶)が入っています。
源内以前にも日本に紹介されていて、1765年には後藤梨春の『紅毛談』に載っています。オランダ人が幕府に献上したという文献もあります。
源内はどう手に入れ、作ったのか
1770年、源内は長崎に滞在中、破損したエレキテルを手に入れました。入手先は古道具屋とも、オランダ通詞の西善三郎ともいわれます。その後、工人の弥七らとともに模造を進め、1776年(安永5年)に江戸の深川で成功しました。
源内は、これを高額の見世物として公開し、得た謝礼を生活費にあてたとされます。ただし、原理を十分に理解しないまま修復したという説もあります。つまり「電気を発明した」のではなく、壊れた舶来の装置を直し、複製した、というのが実像です。
現存するエレキテルとその後
「エレキテル(平賀家伝来)」は、1997年6月30日に国の重要文化財(歴史資料)に指定されました。現在は東京都墨田区の郵政博物館に収蔵されています。さぬき市の平賀源内先生遺品館にも、蓄電瓶のない1台が現存します。2025年にはIEEEマイルストーンにも選ばれました。
後には大坂の蘭学者・橋本宗吉が1809〜10年ごろに『阿蘭陀始制エレキテル究理原』を著し、手をつないだ人々に電気を通す「百人おどし」を実演しました。日本では電気は見世物や医療器具として使われることが多く、科学的な研究は寛政の改革の統制などの影響で停滞したとされています。
鉱山・戯作・絵画:知られざる多方面の活動
鉱山開発:成功と挫折
明和3年(1766年)ごろから、源内は川越藩の依頼で秩父の中津川で鉱山開発を行い、石綿を発見しました。安永2年(1773年)には秋田藩主・佐竹義敦に招かれて阿仁鉱山を訪れ、指導にあたっています。同年から鉄山の建設も進めましたが、精錬技術が未熟で良質な鉄を作れず、安永3年(1774年)に休山になりました。
安永8年(1779年)には、陸中国の仙人山で、日本で初めて亜鉛を発見したとされます。
秋田蘭画:小田野直武に伝えた洋画の技法
秋田を訪れた源内は、角館で藩士の小田野直武に蘭画の技法を伝えました。源内自身も『西洋婦人図』(神戸市立博物館蔵)などの絵を残しています。
風来山人としての戯作
源内は、宝暦13年(1763年)に『根南志具佐』と『風流志道軒伝』を著すなど、戯作者としても活躍しました。筆名には風来山人、悟道軒、天竺浪人などを使い、後に『根無草後編』(明和6年)や狂文集『風来六部集』も出しています。
福内鬼外の名で書いた浄瑠璃
義太夫浄瑠璃は福内鬼外の名で書きました。明和7年(1770年)に初演された『神霊矢口渡』が代表作です。ほかにも『源氏大草紙』『忠臣伊呂波実記』などがあります。
平賀源内の最期とゆかりの地
獄中死に至った事件
安永8年(1779年)11月20日の夜、神田の自宅で、源内が門人の久五郎と友人の丈右衛門に手傷を負わせ、久五郎は亡くなりました。別の説として、木村黙老の『聞まゝの記』は、大名屋敷の修理を請け負った源内が、酒に酔って修理計画書を盗まれたと誤解し、町人を殺傷したと伝えています。
源内は11月21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死しました。遺体は平秩東作が引き取ったとされ、杉田玄白らが葬儀を営みましたが、獄死した者であったため墓碑のない葬儀になったといわれます。生存説や伝説もありますが、根拠のない俗説とされています。大正13年(1924年)に従五位が追贈されました。
土用の丑の日は源内の発案か
土用の丑の日にウナギを食べる習慣は、源内が考えたという説があります。夏にウナギが売れず困った店に「本日丑の日」と書くよう勧めた、という話です。ただし、源内と結びつける明確な一次資料はありません。話の出どころは不明で、石川博氏編『鰻』(2017年)の解説を引く資料は、源内説も大田南畝説も比較的新しくできた「伝説」のようだと述べています。
ゆかりの地と関連する人物
- 東京都台東区橋場:源内の墓。友人の杉田玄白が私財を投じて建てた墓で、墓の背後には従僕・福助の墓があります。昭和18年(1943年)に国の史跡に指定されました。戒名は智見霊雄
- 香川県さぬき市志度:平賀源内記念館・遺品館があります。菩提寺の自性院にも墓があり、毎年12月に法要が営まれます
- 埼玉県秩父市大滝:源内が設計したとされる「源内居」が残ります
- 香川県丸亀市・丸亀春日神社:発明神社に祀られています
- 広島県福山市鞆の浦:源内を祀る生祠があります
- 杉田玄白:源内の友人で、葬儀を営み、墓を建てました
- 平秩東作:源内の遺体を引き取ったとされる人物です
- 小田野直武:源内から蘭画の技法を学んだ角館の藩士です
- 田村元雄(藍水):江戸で源内が師事した本草学者です
よくある質問
平賀源内は電気を発明したのですか?
いいえ。長崎で手に入れた破損したエレキテルを修復・模造し、1776年に江戸の深川で成功させました。原理を十分に理解していなかったという説もあります。
平賀源内はどこの出身ですか?
讃岐国寒川郡志度浦、現在の香川県さぬき市志度です。高松藩の蔵番を務めた白石家の三男でした。
平賀源内はどう亡くなったのですか?
安永8年11月に人を傷つける事件を起こして投獄され、12月18日に破傷風で獄死したとされます。事件の経緯には複数の説があります。
土用の丑の日は本当に源内が始めたのですか?
源内が始めたとする説はありますが、明確な一次資料はなく、比較的新しい「伝説」とみる資料もあります。
平賀源内の墓はどこにありますか?
東京都台東区橋場の国史跡と、香川県さぬき市志度の自性院にあります。





