結論:1818年に満73歳で没。死の前年から喘息が悪化し、病床についたのち亡くなった
伊能忠敬は文化15年(文政元年)4月13日(西暦1818年5月17日)に亡くなりました。生まれは延享2年(1745年)なので、満年齢では73歳、数え年では74歳にあたります。Wikipediaによれば、文化14年(1817年)の秋ごろから喘息がひどくなって病床につき、弟子たちに見守られて亡くなったとされています。
死因については、Wikipediaに「慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている」と書かれています。あくまで「とみられている」という推定で、断定された病名ではありません。
もう一つ、よく知られているのは「死は地図が完成するまで伏せられた」という話です。大日本沿海輿地全図が幕府に上程されたのは文政4年7月10日(西暦1821年8月7日)、忠敬の喪が公表されたのは同年9月4日で、年表では「3か月後に喪を公表」と記されています。忠敬本人は、完成した地図を見ないまま世を去りました。
基本情報
- 生没年:延享2年1月11日(1745年2月11日)〜文化15年4月13日(1818年5月17日)
- 時代:江戸時代
- 出身:上総国山辺郡小関村(現・千葉県九十九里町)の名主の家に生まれる
- 通称:三郎右衛門、勘解由
- 立場:下総国佐原村の伊能家の当主として家業を営んだのち、隠居して天文・測量の道へ。師は天文方の高橋至時
- 主な業績:1800年から全国の沿岸を測量し、日本地図の作成事業を進めた
- 墓所:東京都台東区の源空寺(千葉県香取市の観福寺にも、遺髪を納めた参り墓がある)
伊能忠敬の死因と最期:喘息の悪化から死去、そして死の公表まで
病床についたのは亡くなる前の年の秋
Wikipediaの記述では、忠敬は文化14年の秋ごろから喘息が悪化して病床につき、翌年4月13日に弟子たちに見守られて亡くなりました。第九次測量(1815年)には、高齢のため参加していません。
死因は、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている、と記されています。忠敬は若いころから体が弱く、四国測量のころから「痰咳の病」にかかっていて、これが現代でいう慢性気管支炎にあたるとされています。
「自分があるのは至時のおかげ」
忠敬は「自分の仕事がここまで来られたのは高橋至時のおかげだ」という趣旨のことを語り、死後は至時の近くに眠りたいという意向を示したと記されています。実際に、墓は東京・上野の源空寺にあり、至時・景保父子の墓の近くに置かれています。
地図の完成と死の公表
忠敬の没後も、地図づくりは止まりませんでした。作業を監督したのは、至時の子で天文方を務めた高橋景保です。文政4年7月10日、景保と、忠敬の孫の忠誨(ただのぶ)が登城して、完成した『大日本沿海輿地全図』を上程しました。喪が公表されたのはその約2か月後の9月4日です。
なお、死を伏せた理由が何だったのかを、確かめた資料は具体的に述べていません。この記事では「完成まで公表されなかった」という事実の部分だけを書いておきます。
伊能忠敬の生涯と測量事業:商人から全国測量へ
婿養子として伊能家を立て直す
忠敬は1762年に佐原村の伊能家へ婿入りし、家業の酒造などを再興しました。名主や村方後見も務め、天明の大飢饉のときには米の買い入れや貧民救済に取り組み、餓死者を出さなかったとされています。1794年に家督を長男の景敬に譲って隠居しました。
50歳で江戸へ出て弟子入り
隠居の翌年の1795年、江戸に出て天文方の高橋至時に弟子入りし、暦学と天体観測を学びました。子午線1度の長さを測りたいという関心から、蝦夷地の測量を計画します。
第一次測量は自費中心
1800年(寛政12年)閏4月19日に出発した第一次測量は、奥州街道から蝦夷地、太平洋岸を対象とし、全体で180日間、うち蝦夷地には117日間滞在しました。このとき忠敬は自費で100両を持参し、幕府からの手当は約22両2分だったとされます。測量器具代として70両も別に支払っています。
全10次の測量
測量は第一次(蝦夷地)から第十次(江戸府内)まで続きました。第二次(1801年)は三浦・伊豆・房総半島から東北の太平洋岸、津軽、第三次(1802年)は東北の日本海沿岸から越後、中山道、第四次(1803年)は東海道、東海・北陸沿岸と佐渡を回っています。1804年には『日本東半部沿海地図』が完成し、江戸城で将軍徳川家斉の上覧を受けました。大図69枚、中図3枚、小図1枚という構成です。
その後、第五次(1805年)は紀伊半島、瀬戸内海、山陰と隠岐、第六次(1808年)は四国、第七次(1809年)は中山道経由で九州、第八次(1811年)は九州、種子島・屋久島、壱岐、対馬、五島などが対象でした。西日本の測量は幕府直轄の事業となっています。第九次(1815年)は伊豆七島などで、忠敬は高齢のため参加していません。
地図完成の裏側:『大日本沿海輿地全図』と高橋景保
大図・中図・小図の三種類
『大日本沿海輿地全図』は、大図214枚(縮尺1/36,000)、中図8枚(縮尺1/216,000)、小図3枚(縮尺1/432,000)で構成されています。大図は最も詳しく、中図には緯線と経線が引かれ。
測量方法の一端
第一次測量の初日は間縄を使いましたが時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えました。第二次測量からは再び間縄で距離を測っています。Wikipediaには、第一次測量の初期に1日に約40kmを移動したという記述もあります。
原本は焼失、控図も失われた
1873年の皇居の大火災で原本は焼失しました。伊能家の控図が翌年政府に献納され、これをもとに文部省の「日本全図」(1877年)などが作られました。控図そのものは、のちの関東大震災(1923年)で焼失しています。
高橋景保とシーボルト事件
完成作業を監督した景保は、1828年にオランダ商館医シーボルトへ禁制品の地図を贈ったことが発覚して逮捕され、翌1829年に獄死しました。帰国後のシーボルトは、伊能図をもとにメルカトル図法の日本図を1840年に刊行しています。
後世の評価と言葉
忠敬は、1883年(明治16年)に正四位を贈られました。1910年以降の修身教科書では、結びに「精神一到何事カ成ラザラン」の語が置かれています。なお、旧来さまざまな「名言」が忠敬の言葉として紹介されてきましたが、出どころを確かめられたのは上の修身教科書の語(教科書の結び)のみで、忠敬自身の言葉として確認できたわけではありません。そのため他の言葉はここでは取り上げません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 伊能忠敬記念館(千葉県香取市佐原):1998年5月22日開館。伊能忠敬旧宅も佐原にあります。
- 源空寺(東京都台東区):墓所。師の高橋至時・景保父子の墓の近くにあります。
- 観福寺(千葉県香取市):遺髪を納めた参り墓があります。
- 伊能忠敬記念公園(千葉県九十九里町):九十九里町に整備された公園で、像も建てられています。
- 国宝「伊能忠敬関係資料」:伊能家に伝わった資料群で、1957年に重要文化財、2010年6月29日に国宝に指定されました(文化遺産オンラインによる)。
関連する人物
- 高橋至時:天文方。忠敬の師です。
- 高橋景保:至時の子。忠敬の没後、地図の完成を監督しました。
- 伊能忠誨:忠敬の孫。地図の上程に景保とともに登城しました。
よくある質問
伊能忠敬の死因は何ですか?
1817年秋ごろから喘息が悪化して病床につき、翌年に亡くなったと記されています。死因は、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている、というのがWikipediaの記述です。
伊能忠敬は地図を完成させましたか?
最終的な『大日本沿海輿地全図』の完成は、没後の1821年です。作業は高橋景保らが続けました。忠敬は1804年の『日本東半部沿海地図』までは、自身の存命中に完成を見ています。
伊能忠敬の死は隠されたのですか?
地図の上程は文政4年7月10日(西暦1821年8月7日)、喪の公表は同年9月4日です。年表には「3か月後に喪を公表」とあり、完成まで公表されなかったことは確かです。理由を述べた資料は確かめられませんでした。
測量の費用はどうまかなったのですか?
第一次測量では、忠敬が自費で100両を持参し、幕府の手当は約22両2分でした。その後、西日本の測量は幕府直轄の事業になっています。
墓はどこにありますか?
東京都台東区の源空寺です。師の高橋至時・景保父子の墓の近くにあります。遺髪を納めた参り墓は、千葉県香取市の観福寺にあります。






