平賀源内

結論:源内の血を引く子孫は確かめられず、続いたのは妹の婿を通じた家

平賀源内(1728〜1780年)は、男色家であったため生涯にわたって妻帯しなかったとされる人物です。Wikipedia(日本語版)の記述には、源内の子についての記載がありません。したがって「源内の実子の系統が現在まで続いている」と言える根拠は、確かめられる資料の中にはありません。

一方で、家そのものが途絶えたわけではありません。源内は若いころ、妹に婿養子を迎えさせて家督を譲っています。また、故郷の志度(現在の香川県さぬき市)には、末妹の婿で平賀家を継いだ平賀権太夫という人物が伝わります。つまり「源内の子孫」ではなく、「源内の妹の家筋」という形で家が受け継がれたことまでが、資料から言える範囲です。

現在生きている人が源内の子孫かどうかについては、この記事では扱いません。確かめられる資料がなく、現代の個人に関わる話でもあるためです。

基本情報

  • 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)。享年は52とされるが、資料により51歳、48歳とする記述もある
  • 時代:江戸時代
  • 出身:讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)。高松藩の蔵番を務める白石家の三男
  • 家柄:足軽相当の家。信濃源氏大井氏流の平賀氏の末裔と称し、源内の代で白石から平賀に復姓したと伝わる
  • 主な業績:『物類品隲』の刊行と物産会、エレキテルの修復、秩父の鉄山開発、戯作・浄瑠璃の執筆
  • 家族:生涯妻帯しなかったとされる。妹の婿養子に家督を譲った
  • 戒名:智見霊雄

平賀源内に子孫はいるのか?家系と家督の行方

生涯独身とされる理由

Wikipediaは、源内が男色家であったため生涯にわたって妻帯しなかったとされる、と記しています。結婚した記録がなければ、嫡出の子が生まれる前提もありません。また同じ記述の中に、源内の子に関する項目は見当たりません。ここで注意したいのは、「記載がない」ことと「子がいなかったと証明されている」ことは別だという点です。資料から言えるのは、実子を示す記録が確かめられない、というところまでです。

家督は妹の婿養子へ

宝暦4年(1754年)7月、源内は「近年病身」を理由に、藩へ蔵番の退役願を出しました。このとき妹に婿養子を迎えさせ、家督を譲っています。江戸時代の武家や足軽の家では、男子がいない、あるいは本人が家を離れるといった場合に、婿養子を迎えて家名と役目を続けることがありました。源内の場合もこの形で、生家の跡継ぎが決まったことになります。

その後、宝暦11年(1761年)に源内は江戸へ戻るため再び辞職し、「仕官お構い」となって他家への仕官が難しくなりました。藩を離れた身である以上、生家の家督は最初から妹夫婦の側に移っていたことになります。

平賀を名乗った家の伝承

白石家は高松藩の蔵番という、足軽相当かそれ以下とされる家柄でした。源内の家は信濃源氏大井氏流の平賀氏の末裔と称し、源内の代で白石から平賀へ復姓したと伝わります。ただし「末裔と称した」「伝わる」という書きぶりのとおり、系図の上の由緒を史料で裏づけた話ではありません。家柄を飾るための称であった可能性も含め、この点は確かめられないと考えておくのが安全です。

平賀家の親族と墓所・顕彰に残る手がかり

義弟・平賀権太夫が継いだ平賀家

Wikipediaによれば、平賀権太夫は源内の末妹の婿で、平賀家を継承した人物です。故郷の志度にある自性院に、義兄である源内を弔う墓を建てたと伝えられています。自性院は平賀氏の菩提寺で、毎年12月に法要が行われると記されています。

ここで押さえておきたいのは、家督を譲られた妹の婿養子と、平賀家を継いだ権太夫が同じ人物なのかどうかを、確かめた資料の範囲では書き分けられないことです。この記事では、両者を同一人物とは書かず、それぞれ資料に出てくる形で並べるにとどめます。

東京の墓と、杉田玄白らによる弔い

源内の墓は、東京都台東区橋場2丁目の旧総泉寺墓地にあります。総泉寺は後に板橋へ移転しましたが、墓所は旧地に残りました。杉田玄白が私財を投じて建てたとされます。玄白は「処士鳩渓墓碑銘」を著していますが、実際に碑が建てられたかどうかは諸説あります。

最期の経緯も、家族のいない源内の姿をよく表しています。安永8年(1779年)11月20日の夜、神田の源内宅で、止宿していた門人の久五郎と友人の丈右衛門が口論になり、源内が抜刀して両人に手傷を負わせました。久五郎は傷がもとで亡くなったとされます。源内は翌21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死しました。遺体は狂歌師で門人の平秩東作が引き取ったとされ、杉田玄白らが葬儀を行いましたが、獄死人であったため幕府の許可が下りず、墓碑も遺体もないまま行われたと伝えられています(実際には遺体は引き渡されたとされます)。このとき源内の最期を引き受けたのは、血縁の子ではなく、友人や門人たちでした。なお、事件の原因については、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔って修理計画書を盗まれたと思い込み、町人を殺傷したとする異説も、木村黙老の『聞まゝの記』に見えます。

後世の顕彰を担ったのは顕彰会

源内は大正13年(1924年)に従五位を追贈されました。墓は1924年に東京府の史跡に仮指定され、1929年に再度仮指定、1943年に国の史跡に指定されています。1931年には、松平頼寿を会長とする平賀源内先生顕彰会により、墓の整備と記念碑などが完成しました。さらに1994年には、エレキテル尾崎財団の基金寄贈で「源内賞」が設けられ、毎年表彰が行われています。こうした顕彰は、いずれも顕彰会や財団といった団体の活動として記されており、子孫の活動としては書かれていません。

子孫探しでよくある誤解

「平賀姓」=「源内の子孫」ではない

平賀という名字は、源内が自分の家を平賀氏の末裔と称したことから出てきたものです。名字が同じであることは、源内本人との血縁を示しません。源内の代で白石から復姓したと伝わるため、そもそも同じ名字の家は源内以前の系統にもつながり得ます。名字だけで子孫と結びつけることはできません。

「家が続く」と「血が続く」は別の話

江戸時代の家は、血のつながりよりも、家名と役目をどう続けるかが重視される面がありました。婿養子を迎えて家督を譲ることは、その典型です。妹の婿養子が継いだ家は、源内の妹の血筋ではあっても、源内本人の直系ではありません。「源内の家が続いた」という言い方が使えるのは、この意味での家に限ります。

土用の丑の日や名のある逸話は子孫の話ではない

源内が登場する逸話には、土用の丑の日にウナギを食べる風習の発祥に関わるとする説がありますが、Wikipediaは一次資料による明確な根拠はないと記しています。こうした話題は、源内本人の人気を示すもので、子孫の存在を裏づけるものではありません。

現在の子孫は確かめられない

以上のとおり、資料から追えるのは、妹の婿養子と義弟の平賀権太夫までです。そこから先の代がどう続いたか、現在に至る系譜があるかどうかは、Wikipediaにも確かめた範囲の資料にも書かれておらず、確かめられません。確かめられないことを、あるともないとも書かないのが、この記事の立場です。より詳しく知りたい場合は、志度にある記念館や、さぬき市・台東区の担当窓口、自性院などに、公式の問い合わせ先を通じて尋ねるのが確実です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 平賀源内墓(東京都台東区橋場2-22-2):旧総泉寺墓地にあり、国の史跡
  • 自性院(香川県さぬき市志度):平賀氏の菩提寺。毎年12月に法要が行われる
  • 平賀源内記念館・平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市志度)
  • 平賀源内生祠(広島県福山市鞆町):広島県指定史跡
  • 発明神社:丸亀春日神社の末社で、源内も祭神の一柱として祀られている

関連する人物

  • 平賀権太夫:源内の末妹の婿で、平賀家を継承した人物
  • 杉田玄白:源内と交友し、墓を建てたとされる。「処士鳩渓墓碑銘」を著した
  • 中川淳庵:杉田玄白とともに挙げられる交友関係の一人
  • 平秩東作:狂歌師で門人。源内の遺体を引き取ったとされる
  • 桂川中良:門人として挙げられる人物
  • 福助:源内に仕えた従僕。墓の背後に墓がある

よくある質問

平賀源内に子どもはいましたか?

Wikipediaに子の記述はなく、男色家であったため生涯妻帯しなかったとされます。実子を示す記録は、確かめられた範囲にはありません。

平賀源内の家は途絶えたのですか?

途絶えたとは書かれていません。宝暦4年に妹へ婿養子を迎えて家督を譲り、末妹の婿の平賀権太夫が平賀家を継承したと伝わります。ただし、その後の系譜は確かめられません。

現在の子孫は存在しますか?

確かめられる資料がなく、あるともないとも言えません。名字が同じであることは、源内との血縁の根拠にはなりません。

平賀源内の墓はどこにありますか?

東京都台東区橋場2-22-2の旧総泉寺墓地にあり、国の史跡です。故郷の志度の自性院にも、義弟の平賀権太夫が建てたと伝わる墓があります。

家督を継いだ人と、墓を建てた人は同じですか?

資料の範囲では、妹の婿養子と平賀権太夫が同一人物かどうかは確かめられません。そのため、この記事では両者を別々に書いています。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。