結論:杉田玄白は83歳で没した。墓は虎ノ門の栄閑院にある
杉田玄白は文化14年4月17日(1817年6月1日)に、83歳で亡くなりました。墓は東京都港区の栄閑院(通称「猿寺」)にあります。
死因となった病名は、今回確かめたWikipediaの記述には書かれていません。「文化14年に83歳で息を引き取った」という事実が確かめられるだけで、「老衰だった」「〇〇の病だった」と断定できる材料はないのが実情です。この記事では、確かめられる範囲の最期と、墓所の情報、晩年の歩みを順に見ていきます。
基本情報
- 生没年:享保18年9月13日(1733年10月20日)〜文化14年4月17日(1817年6月1日)。享年83
- 時代:江戸時代
- 身分:小浜藩(若狭国)の藩医、のちに江戸の町医者。蘭学者
- 号:鷧齋(いさい)。のちに九幸翁(きゅうこうおう)と称した
- 主な業績:『解体新書』(安永3年・1774年刊)の刊行、晩年の回想録『蘭学事始』
- 死因:病名の記載は確かめた資料にない
- 墓所:栄閑院(東京都港区)
杉田玄白の死因と最期:確かめられること・確かめられないこと
没年月日と享年
玄白は江戸牛込の小浜藩下屋敷で生まれ、文化14年(1817年)に83歳で亡くなりました。
死因について資料はどう書いているか
日本語版Wikipediaの「杉田玄白」の項は、最期を「文化14年に83歳で息を引き取る」と記すだけで、病名や臨終の様子には触れていません。死因を調べる読者は多いのですが、病名を示す記述が確かめられない以上、この記事でも病名は書きません。インターネット上には「老衰」とする説明も見られますが、それを裏づける資料は今回の調査では見つかりませんでした。
晩年の口癖「草葉の蔭」
晩年の玄白は「草葉の蔭」という言葉を口癖のように繰り返し、友人たちがそれを渾名にしたといわれます。高齢を自覚していたことをうかがわせる話です。
隠居までの歩み
文化2年(1805年)には11代将軍・徳川家斉に拝謁し、良薬を献上しています。文化4年(1807年)には、娘・扇の婿で弟子でもあった杉田伯元に家督を譲って隠居しました。最期の10年ほどは、家督を譲った後の隠居生活だったことになります。晩年の著書には『形影夜話』などがあります。
杉田玄白の墓がある栄閑院(猿寺)と生涯の歩み
墓の場所と栄閑院の概要
玄白の墓は栄閑院にあります。日本語版Wikipediaの「栄閑院」の項では、所在地は東京都港区虎ノ門3-10-10、浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来、最寄りは虎ノ門ヒルズ駅から徒歩4分とされています。「杉田玄白」の項では墓所を「港区愛宕」と書いており、表記が異なりますが、同じ栄閑院を指しています。境内には、杉田玄白のほか、検校の芦野屋麻績一の墓もあるとされます。
栄閑院の項には、壁に掲示された「都史跡」の表示を写した写真があります。ただし、指定の名称や指定年は同項に書かれていないため、ここでは書きません。
なぜ「猿寺」と呼ばれるのか
通称の由来は、寛永年間(1624〜1645年)の逸話です。猿まわしの泥棒が住職に諭されて改心し、猿を寺に残して巡礼の旅に出ました。残された猿を寺がかわいがって飼ったことから「猿寺」と呼ばれるようになった、と伝えられます。境内の猿の像も、この話に基づいて建てられたものです。蘭学者の墓と猿の話が同じ寺にあるのは、史跡巡りの面白い取り合わせです。
見学について
墓の見学の可否や拝観時間は、今回確かめた資料には載っていません。寺院の境内にある墓所ですので、訪れる前に寺へ問い合わせ、参拝のマナーを守ってください。
生涯の流れ:町医者から『解体新書』へ
玄白は1740年に一家で小浜へ移り、宝暦3年(1753年)に5人扶持で小浜藩の藩医に召し出されました。1757年には日本橋で町医者として開業します。明和2年(1765年)に藩の奥医師となり、明和6年(1769年)には父・甫仙の死去で家督(30人扶持)と侍医の職を継ぎました。
転機は明和8年(1771年)3月4日です。小塚原での刑死体の解剖(腑分け)の玄白は、同藩の中川淳庵や、中津藩医の前野良沢らとともに見学しました。良沢も玄白と同じ版の『ターヘル・アナトミア』を持っていました。実際の解剖と図を見比べてその正確さに驚いた玄白が翻訳を提案し、翌3月5日から築地鐵砲洲の良沢邸で作業が始まりました。
『解体新書』と『蘭学事始』:玄白が残したもの
辞書のない翻訳
当時はオランダ語の辞書がなく、通詞も長崎にいたため、翻訳は暗号解読に近い作業でした。玄白は後年、その状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表現しています。1773年には、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行しました。
『解体新書』の刊行
『解体新書』は安永3年(1774年)に、江戸・日本橋の版元・須原屋市兵衛から刊行されました。本文4巻、付図1巻で、本文は漢文です。底本は、クルムスの医学書のオランダ語訳『Ontleedkundige Tafelen』(通称『ターヘル・アナトミア』)です。挿絵の原画は、秋田藩角館の藩士で秋田蘭画の画家・小田野直武が、平賀源内の紹介で描きました。桂川甫三は翻訳には直接関わりませんでしたが、子の甫周を参加させ、補助資料のオランダ医学書を提供しています。また、幕府の禁忌に触れる恐れがあったため、将軍家への献上も行われました。
良沢との関係をめぐって
翻訳の中心は前野良沢だったと評価されています。しかし著者として名が記されたのは玄白で、良沢の名は本文になく、吉雄耕牛の序文で言及されるだけです。良沢は序文の執筆を断ったとされ、訳文が不完全だと知っていたため名を出すのを避けたとの推定もありますが、理由には複数の説があります。『蘭学事始』によれば、玄白は自身の健康への不安から、不完全な部分があると知りつつ刊行を急いだとされます。
開業と天真楼
安永5年(1776年)、玄白は小浜藩の江戸中屋敷を出て浜町の屋敷の一部を借り、開業しました。同所で医学塾「天真楼」を開いています。外科に優れ、毎年千人余りを治療したと伝えられ、儒学者の柴野栗山は当時江戸随一の名医と評したとされます。晩年には藩から加増を受け、400石に達しました。
『蘭学事始』と没後の評価
『蘭学事始』は玄白の晩年の回想録で、翻訳から約40年後に書かれました。長く写本でしか流通しませんでしたが、明治2年(1869年)に福沢諭吉の提案で出版され、『解体新書』の知名度を広める一因になりました。明治40年(1907年)11月15日には、玄白は贈正四位を受けています。石川大浪が描いた肖像画は、重要文化財に指定されています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 栄閑院(東京都港区虎ノ門):玄白の墓がある浄土宗の寺。猿寺の通称で知られる
- 小塚原(刑場):1771年に玄白らが腑分けを見学した場所
- 築地鐵砲洲の前野良沢邸:翻訳が始まった場所
- 日本橋・浜町:町医者としての開業地、天真楼を開いた土地
関連する人物
- 前野良沢:中津藩医。翻訳の中心と評価される
- 中川淳庵:小浜藩の同僚で、見学と翻訳に加わった。巻頭で校閲者として名を連ねる
- 桂川甫三・甫周:親子で翻訳に協力した
- 小田野直武:『解体新書』の図の原画を描いた
- 杉田伯元:玄白の娘婿で弟子。家督を継いだ
- 福沢諭吉:『蘭学事始』の出版を提案した
よくある質問
杉田玄白の死因は何ですか?
確かめた資料には病名の記載がありません。分かっているのは、文化14年(1817年)に83歳で亡くなったことです。
杉田玄白の墓はどこにありますか?
東京都港区の栄閑院にあります。所在地は虎ノ門3-10-10で、虎ノ門ヒルズ駅から徒歩4分とされます。
栄閑院はなぜ「猿寺」と呼ばれるのですか?
寛永年間に、改心した猿まわしの泥棒が残していった猿を、寺で飼ってかわいがったという逸話によります。
杉田玄白が書いた有名な本は何ですか?
『解体新書』(1774年刊)と、晩年の回想録『蘭学事始』です。『形影夜話』などの著書もあります。
墓は見学できますか?
見学の可否や時間は確かめられませんでした。寺院の境内なので、訪れる前に寺へ確認してください。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。





