織田信長の写真は本物?本人の写真は存在せず、正体は肖像画の写し

結論:信長本人を写した顔写真は存在しない。「信長の写真」の正体は肖像画の写しである

織田信長は天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)に本能寺で亡くなりました。写真術の最初の実用的な方法、ダゲレオタイプが公表されたのは1839年です。信長の死から250年以上あとなので、本人を撮った写真が存在する可能性はありません。

ただし「信長の写真」と呼ばれるものがまったくないわけではありません。山形県天童市の三宝寺には、信長の肖像を写したとされる明治期の写真が残っています。撮られたのは信長本人ではなく、宣教師が描いたとされる肖像です。

顔つきを知る手がかりは、現存する肖像画23点と、肖像彫刻5点、そしてフロイスの人物評です。この記事ではそれらを順に見ていきます。

基本情報

  • 生没年:天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日)生まれ、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)没、享年49。生年月日には天文3年5月28日(1534年7月9日)とする別説もある
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代
  • 最期:家臣の明智光秀の謀反により、京の本能寺で自害に追い込まれた
  • 現存する肖像:肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている
  • 最古級の肖像画:天正11年(1583年)の一周忌に合わせて作られた長興寺本と神戸市立博物館本
  • 顔写真:なし(写真術の公表は1839年)

織田信長の顔写真は存在するのか:写真術の歴史と日本への伝来

写真術の公表は1839年、信長の死から250年以上後

ダゲレオタイプは、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明した、世界初の実用的な写真撮影法です。1839年8月19日にフランス学士院の定例会で発表され、公開講演ではフランソワ・アラゴが技法の全容を明らかにしました。フランス政府が特許を買い取ったため、誰でも使える技法になりました。

信長が亡くなったのは1582年です。生涯のどこを取っても、写真という技術はこの世に存在していませんでした。

日本で最初の撮影は1857年、薩摩藩

日本に写真機材が入った時期も、信長の時代とは大きく離れています。年表を並べると次のとおりです。

  • 1843年:オランダ船が写真機材を長崎に持ち込んだ。長崎の御用商人で蘭学者の上野俊之丞(上野彦馬の父)が機材をスケッチしたが、機材は持ち帰られた
  • 1848年:島津斉彬が銀板写真の機材を入手し、市来四郎らに研究を命じた
  • 1857年9月17日:市来四郎と宇宿彦植右衛門が撮影に成功したとされる。銀板写真は薬剤の調製が難しく、成功までに時間がかかった
  • 1862年:上野彦馬が長崎で「上野撮影局」を開業。同じ年に下岡蓮杖も写真館を開業した

国内での撮影の成功は、信長の没後およそ275年後です。

では「信長の写真」とは何か:三宝寺に残る写し

「信長の写真」と聞いて思い浮かぶ画像の出どころの一つが、山形県天童市の三宝寺(仰徳殿)の写真だとされています。三宝寺は天童藩の織田家の菩提寺でした。ここに、信長の肖像を写したとされる写真が残っています。

この写真の元になった絵は、宣教師が西洋の技法で描いたものとされます。ただし原画は現存しません。写真には「大武写真館」の印があり、明治中期に写真師の大武丈夫が撮影したとみられています。木炭で描いたデッサンだったともいわれます。写っているのは、太い眉、鋭い眼、高い鼻、面長の輪郭を備えた人物像です。

この写真は1992年、遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』で紹介して広く知られるようになりました。つまり「写真」といっても、撮られたのは信長本人ではなく、すでに失われた絵です。

肖像画で見る信長の顔:主な作品と特徴

23点の肖像画と5点の彫刻

信長の肖像は、肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されています。主なものを挙げます。

  • 長興寺(愛知県豊田市):狩野元秀(宗秀)筆、天正11年(1583年)6月、紙本著色、裃姿。信長の一周忌に作られた重要文化財
  • 神戸市立博物館:天正11年、絹本着色、束帯姿、古渓宗陳の賛あり。重要文化財
  • 大徳寺本坊(京都市):狩野永徳筆、天正12年(1584年)5月、絹本着色、裃姿。三回忌に合わせて作られたと推測されている
  • 報恩寺(京都市):天正16年(1588年)、裃姿。公家の近衛前久が七回忌に寄進した
  • 総見寺(滋賀県近江八幡市):甲冑姿で、柴田勝家の賛がある

彫刻では、大徳寺総見院の木像(天正11年5月、宮内卿法印康清作)と、阿弥陀寺の木像が伝わります。

ここに挙げた作例のうち制作年がわかるものは、没後の1583年から1588年に集中しています。一周忌、三回忌、七回忌といった法要にあわせて作られたものが目立ちます。

神戸市立博物館本の特徴

文化遺産オンラインの解説によれば、神戸市立博物館の織田信長像は、上畳に座り、束帯姿で笏を持ち、左脇に腰刀を帯びた姿です。画面の賛から、1583年の一周忌のために作られたことが分かります。面長で大きな目、豊かなひげが、生前の姿を反映しているとされます。平成26〜27年度(2014〜2015年)の修理で汚れが除去され、衣服の織田家の家紋がはっきりしました。この像はもともと、安土城に信長が建てた寺、総見寺に伝来したものです。

長興寺本の修復で分かったこと

長興寺の肖像は、2016〜2019年に文化庁主導で修復が行われ、中国伝来の竹の紙に描かれていることが分かりました。使われている紙の素性まで調べられるほど、研究は進んでいます。

同時代の証言と肖像画の「描き直し」:実像はどこまで分かるか

フロイスは「中くらいの背丈で華奢」と記した

外見についてのまとまった同時代の記録として、宣教師ルイス・フロイスの人物評があります。池上裕子は、同時代人による信長の人物評のうち、もっとも的確でまとまったものとして挙げています。

フロイスは信長を「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と記し、ひげは少なく、声は「はなはだ声は快調で」あったとします。ほかに、戦を好み、名誉心に富み、正義に厳格であったこと、睡眠時間が短く、酒を飲まず食を節したこと、家臣からきわめて畏敬されていたことも記されています。

ただし神田千里は、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、フロイスの評価を鵜呑みにすることには問題が多いとしています。

なお、よく「背が高い」と書かれることがありますが、ここで確かめられたフロイスの記述は「中くらいの背丈」です。

肖像画のひげと、フロイスの記述は食い違う

神戸市立博物館本は、豊かなひげが生前の姿を反映しているとされます。一方、フロイスはひげが少なかったと記しています。本能寺に伝わる直衣姿の肖像は、ひげのない姿です。肖像画ごとに差があり、どれか一つを「本物の顔」と決めることはできません。

大徳寺の肖像は派手な姿から地味な姿へ描き直されていた

大徳寺所蔵の肖像は、2008〜2009年の修復に伴う京都国立博物館の調査で、完成当初の絵から描き直されていたことが2011年に分かりました。絵の裏側に「裏彩色」が見つかったのです。

  • いま見える表の絵:薄藍の小袖、薄茶の肩衣と袴という地味な装いで、脇差のみを帯びる
  • 裏彩色から分かる元の絵:派手な片身替わりの小袖で、大刀と脇差の2本差し

赤外線撮影では、裏面で口ひげの両端がはね上がった、雄々しい顔つきに描かれていたことも確認されました。表の絵は後から地味に描き直されたとみられ、その理由として豊臣秀吉の関与も推測されています。

肖像画は、描かれた時点で政治や追善供養の事情を受けていたことが分かります。目にする肖像が「そのままの顔」とは限りません。

ゆかりの地と関連する人物

肖像画に会える場所

  • 神戸市立博物館(兵庫県):絹本着色の織田信長像を所蔵する(重要文化財)
  • 長興寺(愛知県豊田市):狩野元秀筆の紙本著色の肖像を所蔵する(重要文化財)
  • 大徳寺(京都市):本坊の狩野永徳筆の肖像と、総見院の木像がある
  • 三宝寺(山形県天童市):織田家の菩提寺で、宣教師の絵を写したとされる写真が残る

展示公開の時期は限られるため、見に行く前に所蔵先の案内で確認してください。

墓所・供養の場所

信長の遺体は発見されませんでした。焼死体が多く、特定できなかったためと考えられています。信長を供養する廟や供養塔は、京都市の本能寺(信長公廟)、滋賀県の安土城址(織田信長公本廟)、静岡県富士宮市の西山本門寺(信長公首塚)など、各地に作られました。衣冠墓・供養塔は21か所に及ぶとされます。

関連する人物

  • ルイス・フロイス:信長の外見や人柄を記した宣教師
  • 明智光秀:本能寺の変で信長を自害に追い込んだ家臣
  • 豊臣秀吉:大徳寺の肖像の描き直しに関わった可能性が推測されている
  • 狩野永徳・狩野元秀:信長の肖像画を描いた絵師

よくある質問

織田信長の顔写真はありますか?

ありません。写真術が公表されたのは1839年で、信長の死(1582年)より250年以上あとです。

ネットで見る「信長の写真」は何ですか?

三宝寺に残る写真が知られています。これは信長本人ではなく、宣教師が描いたとされる肖像を、明治中期に写したものとみられます。原画は現存しません。

日本で最初に写真が撮られたのはいつですか?

年表では、1857年9月17日に薩摩藩の市来四郎らが銀板写真の撮影に成功したと言われています。

信長の背は高かったのですか?

フロイスは「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と記しています。ひげは少なく、声は快調だったとも書かれています。

どの肖像画が一番本人に近いですか?

一つに絞ることはできません。長興寺本と神戸市立博物館本は、ともに没後1年の天正11年(1583年)の作です。ただ、ひげの有無など肖像画ごとに違いがあり、大徳寺本のように描き直された例もあります。