前田慶次

結論:二人は義理の叔父と甥。家督交代は事実だが、「不仲」は後世の話が中心

前田慶次(利益)は、前田利家の兄・利久の養子で、利家から見て義理の甥にあたります。1569年(永禄12年)、織田信長の命で利久が隠居させられ、弟の利家が荒子の家督を継ぎました。慶次は養父の利久に従って荒子城を退去したとされます。

ただし、二人の仲が悪かったという話は、後の逸話集に出てくるもので、同時代の史料には記述がありません。慶次が前田家を出た理由も、確かなことは分かっていません。私たちが知る豪快な傾奇者の姿の多くは、小説『一夢庵風流記』などの創作や、江戸時代の武辺咄に由来するとされています。

この記事では、記録で確かめられる部分と、後世に付け加わった部分を分けて整理します。

基本情報

  • 前田利家:天文7年12月25日(1539年1月15日)生まれ、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)没。享年62。生年には1536年、1537年とする説もある
  • 前田慶次(利益):生年は1533年、1541年、1543年などの説があり確定していない。没年も1605年説と1612年説などがある
  • 時代:安土桃山時代
  • 利家の立場:尾張荒子城主・前田利春の四男。織田信長に仕え、のち豊臣政権で加賀・能登・越中にまたがる大名となった
  • 慶次の立場:荒子城主だった前田利久の養子。のち上杉景勝に仕えた
  • 慶次の号:穀蔵院飄戸斎、穀蔵院忽之斎、龍砕軒不便斎など。連歌の雅号は「似生」

前田慶次と前田利家を分けた家督継承の経緯

信長の命で利家が荒子を継いだ

荒子前田家は、利家の父・利春の死後、長兄の利久が継いでいました。利家は利春の四男です。ところが1569年、信長は利久に実子がなく病弱であることを理由に、弟の利家へ家督を継ぐよう命じました。

慶次の側から見ると、養父が当主の座を追われた出来事です。慶次は利久に従って荒子城を退去したとされています。利家が若いころ信長のもとで「かぶき者」と呼ばれ、槍の名手として知られていたことを思うと、のちに傾奇者として語られる甥と、どこか似た気質を持つ叔父だったことになります。

慶次の出自は諸説ある

慶次の実父は滝川氏と伝わりますが、続柄は史料ごとに異なります。『考拠摘録』は滝川一益の弟、『三壷記』は一益の子とし、『桑華字苑』『加賀藩暦譜』『前田氏系譜』は一益の甥の滝川儀太夫(益重)の子とします。『重輯雑談』は滝川氏とするだけで、続柄は不明としています。

養子になった経緯も、子のなかった利久が妻の実家の滝川氏から婿として引き取ったという説と、慶次の実母が利久に再嫁したという説に分かれます。

前田家に仕え、七千石を受けた

慶次は1581年(天正9年)ごろ、利家に仕えました。このとき利家から利久・慶次の親子に合わせて七千石が与えられ、内訳は利久が二千石、慶次が五千石でした。家督を奪われた側が、その後も厚く遇されていたことが分かります。

1587年(天正15年)8月14日に利久が亡くなると、利久の嫡男の前田正虎が利家に仕え、利久の領地二千石をそのまま受けました。

前田慶次の出奔と、水風呂の逸話の真偽

出奔は1590年以降。理由は分からない

慶次が前田家を出奔したのは、1590年(天正18年)以降とされます。理由は不明です。利家との不仲、利久の死で前田家との縁が切れたことなどが説として挙げられますが、確たるものはありません。利家との不仲を理由とする説は、同時代の史料では確認されていません。

妻子は、慶次に同行しませんでした。池田公一は、慶次に関する史料が前田家で触れてはならないものとされ、出奔の直後に闇に葬られたのではないかと述べています。

水風呂の逸話は後世の創作の可能性が高い

出奔の際に、慶次が利家を風呂に招いて水風呂に入れ、愛馬で去ったという話が有名です。この逸話の初出は江戸後期の随筆集『翁草』で、後世の創作の可能性が高いとされています。利家の側にも、慶次との不仲を記した同時代の記述はありません。

面白い話ですが、史実として書けるのは「出奔した」ことまでで、その場面の細部は確かめられません。

出奔後は京都で文人と交流した

出奔後の慶次は京都で浪人生活を送り、連歌師の里村紹巴・昌叱父子、公家の九条稙通、茶人の古田織部ら多くの文人と交流したとされます。武勇だけでなく、連歌などの教養を身につけた人物だったと伝わる根拠は、この交流の記録にあります。

上杉家での活躍と長谷堂城の戦い

上杉景勝に仕える

慶次は1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の間に上杉景勝に仕え、組外衆筆頭として千石を受けたとされます。直江兼続の1604年の書状を、慶次の召し抱えに関するものとみる見方もありますが、解釈には異論があります。

長谷堂城の戦いでの働き

1600年、関ヶ原の戦いと同じ時期に、上杉軍は最上領へ侵攻しました(慶長出羽合戦、長谷堂城の戦い)。上杉軍は9月15日から長谷堂城を攻めましたが、9月29日に関ヶ原で西軍が敗れたとの知らせが総指揮の直江兼続に届き、10月1日に撤退を始めます。最上・伊達の連合軍が追撃するなか、兼続が殿を務め、前田利益(慶次)や水原親憲も善戦したと記されています。上杉軍は10月4日に米沢城へ戻りました。

慶次が殿を志願して朱塗りの大槍を振るった、といった細かな場面は、確かめられた資料に書かれていないため、ここでは取り上げません。確認できるのは、善戦した武将の一人として名が挙がっていることです。なお、敗報を聞いた兼続が自害しようとして慶次に諫められた、という伝承もありますが、あくまで伝承です。

米沢への移封後も上杉家に仕えた

上杉家が米沢へ移った後、慶次は米沢藩に仕えました。『前田慶次道中日記』は、1601年(慶長6年)10月15日に京都を出て、11月19日に米沢へ着くまでの道中を記した日記です。市立米沢図書館が所蔵し、米沢市の指定文化財になっています。筆跡から本人の真筆とされますが、成立年や著者を裏付ける記載は本文にありません。

無苦庵と晩年、没年の諸説

堂森での隠棲と「無苦庵」

「無苦庵」は、慶次が堂森に隠棲していたころ、自ら描いた画に添えた自画賛で、「無苦庵頌」「無苦庵記」と呼ばれます。阪谷素の記録によれば、老僧が軒先に座り、酒壺を傍らに置いて空を眺める絵だとされます。

没年は二つの説に分かれる

慶次の最期は一つに定まりません。野崎知通の遺書によれば、1605年(慶長10年)11月9日に大和国刈布で亡くなったとされます。一方、『米沢古誌類纂』など米沢の郷土史料では、1612年(慶長17年)6月4日に堂森で亡くなったと伝わります。ほかに、会津で没したとする説もあります。

利家は1599年に大坂の自邸で病没しており、慶次が上杉家に仕えるころには、すでにこの世にいませんでした。慶次が利家の死をどう受け止めたかを記した資料は、確かめられませんでした。

ゆかりの地と関連する人物

堂森善光寺(山形県米沢市)

米沢市の堂森善光寺には、慶次の供養塔があります。ただし現在の供養塔は1980年(昭和55年)に建てられたものです。遺骸は北寺町の一花院(廃寺)に葬られたとされます。大和国の安楽寺に築かれたとされる石碑も、現存しません。

荒子城(尾張国)

利家の父・利春と兄・利久が城主を務めた尾張の荒子城は、1569年の家督交代のとき、慶次が養父とともに去ったとされる城です。

関係の深い人物

  • 前田利久:慶次の養父。信長の命で弟の利家に家督を譲った
  • 前田正虎:利久の嫡男。利久の死後、利家に仕えて領地二千石を受けた
  • 直江兼続:上杉家の重臣。長谷堂城の戦いで上杉軍の総指揮を執った
  • 上杉景勝:慶次の主君
  • 最上義光:長谷堂城の戦いの最上軍の主将

よくある質問

前田慶次と前田利家は、どんな関係ですか?

利家の兄・利久の養子が慶次で、利家から見て義理の甥にあたります。慶次の実父は滝川氏と伝わりますが、続柄には諸説があります。

二人は本当に仲が悪かったのですか?

不仲を伝えるのは後の逸話集で、同時代の史料には記述がありません。慶次が前田家を出た理由も分かっていません。

水風呂の話は史実ですか?

初出は江戸後期の随筆集『翁草』で、後世の創作の可能性が高いとされています。

慶次はいつ、どこで亡くなりましたか?

1605年に大和国刈布で亡くなったとする説と、1612年に米沢の堂森で亡くなったとする説などがあり、確定していません。

慶次の人物像は、どこまで史実ですか?

現在知られる人物像の多くは、小説『一夢庵風流記』などの創作や、江戸時代の武辺咄に由来し、一次史料の裏付けは少ないとされています。京都で文人と交流したこと、上杉家に仕えたことは、記録のある範囲の事実です。