結論:お市の方は天正11年4月24日、北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに自害した(享年37とされる)
お市の方の最期は、病死でも戦死でもなく、自害です。天正11年(1583年)4月24日、賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家が籠もる越前の北ノ庄城が羽柴秀吉の軍に囲まれ、勝家と市は一族・家臣・女中衆の80名余りとともに自害し、城には火が放たれて焼け落ちました。享年は37とされます。
ただし、現代に伝わる最期の細部には、史料や伝承によって差があります。勝家が妻子を刺したのちに切腹したとする記述もあれば、市が城を出るよう勧められたのを断り、共に死ぬと誓ったとする記述もあります。この記事では、確かめられる範囲で最期の流れを順にたどり、年齢の数え方や辞世の句、墓所まで整理します。
基本情報
- 人物:お市の方(市)
- 時代:安土桃山時代(戦国時代)
- 立場:最初に浅井長政に嫁ぎ、のちに柴田勝家の妻となった女性。三人の娘(茶々・初・江)の母
- 没年月日:天正11年4月24日(1583年)
- 享年:37とされる(生年は天文16年(1547年)が通説だが、享年からの逆算)
- 最期:越前北ノ庄城で夫・勝家とともに自害
- 墓所:福井市の西光寺が現在の墓所とされる
お市の方の最期|北ノ庄城の落城と自害
賤ヶ岳の敗戦から北ノ庄城の包囲へ
最期へ至る直接のきっかけは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いです。同年4月16日に織田信孝が秀吉に背いて挙兵すると、秀吉は岐阜へ向かいました。この隙を突くように、勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めます。しかし秀吉は、のちに「美濃大返し」と呼ばれる素早い引き返しで戻り、勝家は敗れました。
敗れた勝家は居城の越前北ノ庄城に退き、そこを秀吉に包囲されます。市は、小谷城の落城から10年後にもう一度、夫とともに落城の場に身を置くことになりました。最初の夫・浅井長政との結婚から娘たちとの暮らしまでは、浅井長政とお市の方の記事で詳しく扱っています。
落城前夜:市は城を出ることを拒んだ
落城の前夜、勝家は切腹を覚悟し、市に城外へ退去するよう勧めたと伝えられます。市はこれを拒み、共に自決すると誓いました。
市がとった行動で重要なのは、娘たちの扱いです。市は茶々・初・江の三人の娘を、富永新六郎に預けて秀吉のもとへ届けさせました。このとき市は、自分が「主筋」であることを踏まえ、娘たちを大切に扱ってほしいという趣旨の書状を添えたとされます。自身は残って死を選び、娘たちを城外へ出したという流れになります。
酒宴と自害、そして城への放火
勝家、市、一族、直臣、女中衆は、一晩酒宴を開いて別れを惜しんだ後、80名余りで自害しました。城に火が放たれ、北ノ庄城は焼け落ちたと伝わります。
勝家の側の記述では、『毛利家文書』に収められた秀吉の書状によると、秀吉軍は早朝から本城に攻め込み、天守に立てこもった勝家以下200人余りを追い詰めました。勝家は妻子らを刺したのち、80人余りとともに切腹したとされます。介錯は侍臣の中村聞荷斎が務め、用意した火薬に火をつけて、天守もろとも一族が亡くなったと伝えられています。切腹の直前、勝家は家臣に向かって「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言ったとされます。
市個人の最期の動作を一次史料から細かく再現することは難しく、ここまでが確かめられる範囲です。「勝家が妻子を刺した」とする記述と、「市が自ら共に自害した」とする記述が並んで伝わる点は、そのまま併記しておきます。
辞世の句と享年の謎|37歳は本当か、娘たちのその後
市と勝家の辞世の句
市の辞世として伝わるのは、次の句です。
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」
この句は、桑田忠親『桃山時代の女性』『戦国時代の女性』などで紹介されているものです。夏の短い夜と、うたた寝の夢路を誘うほととぎすの声を詠み込んでいます。落城が4月24日、旧暦の初夏にあたることとも重なる句です。
勝家の辞世としては、次の句が伝わります。
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公」
夫妻の句は、どちらも「夏の夜」「夢路」「ほととぎす」を詠み込んでいます。ただし、この句が実際に夫婦の唱和として詠まれたのかどうかを、確かめられる資料は今回の範囲では見つかっていません。似た語が並ぶという事実だけを示しておきます。
享年37と生年天文16年の関係
市の生年は、通説では天文16年(1547年)です。ただしこれは、享年37から逆算した数字です。つまり「37歳で亡くなった」ことを前提に生年を決めているため、享年そのものが誤りなら、生年もずれます。
この逆算には矛盾も指摘されています。天文16年生まれを前提にすると、初めての結婚が20代になってしまい、当時の初婚としては遅くなります。そのため、生年に誤りがある、あるいは長政との結婚が初婚ではなかった可能性が指摘されています。婚姻の時期についても、永禄4年とする説が提唱されています。市の出自や結婚時期、小豆袋の逸話の真偽などは、お市の方の謎と諸説の記事で検証しています。
三人の娘は秀吉のもとへ
市が城外へ送り出した三人の娘は、富永新六郎によって秀吉のもとへ届けられました。それより前、天正元年(1573年)に小谷城が落ちた際にも、長政とその父・久政が自害する一方、市は三人の娘とともに藤掛永勝に救出され、織田家に引き取られています。市は二度の落城のたびに、娘たちを先に城外へ出したことになります。
柴田勝家との関係と首のない武者の伝承
勝家の人物像や、市との結びつきについては、柴田勝家の記事があります。また、市の夫を「徳川家康」とする話が広まることがありますが、確認できる夫は浅井長政と柴田勝家の二人です。その整理は徳川家康とお市の方の結婚についての記事にまとめました。
勝家には、命日の旧暦4月24日に、北ノ庄城のあたりへ首のない武者が首のない馬に乗って現れる行列が出る、という伝承も残っています。これは伝承であり、歴史上の事実として確認されたものではありません。落城の出来事がそれだけ強く地元の記憶に刻まれたことを示す話として紹介しておきます。
ゆかりの地と関連する人物
- 西光寺(福井市):現在のお市の方の墓所とされる寺。勝家の墓所としても挙げられています
- 柴田神社(福井市):お市の方の銅像がある神社
- 自性院(福井市):市の菩提寺とされる寺
- 幡岳寺(滋賀県高島市):市の菩提寺の一つ。勝家の号「幡岳」に由来する寺で、当時の位牌が現存するとされます
- 持明院(高野山):市の菩提寺とされる寺。勝家の墓所としては、高野山奥の院も挙げられています
- 小谷山山頂(小谷城跡):市にまつわる旧跡がある場所
- 桃巌寺(名古屋市千種区):勝家の墓所の一つとされる寺
- 浅井長政:最初の夫。浅井長政とお市の方|結婚から浅井三姉妹までの系譜
- 柴田勝家:最後の夫。柴田勝家の真実に迫る!鬼?知将?悲劇の英雄?
- 羽柴秀吉:北ノ庄城を攻めた側であり、娘たちを引き取った人物
市の生涯全体を知りたい場合は、お市の方とは?戦国一の美人の悲劇的な生涯も参考になります。
よくある質問
お市の方はいつ、どこで亡くなりましたか?
天正11年(1583年)4月24日、越前の北ノ庄城(現在の福井市)で亡くなりました。賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家とともに自害したとされます。
お市の方の死因は何ですか?
死因は自害です。勝家、一族、直臣、女中衆とともに80名余りが自害し、城には火が放たれました。
お市の方は何歳で亡くなりましたか?
享年は37とされます。通説の生年である天文16年(1547年)は、この享年から逆算した数字で、初婚の年齢との整合などから、生年に誤りがあるのではないかという指摘もあります。
三人の娘はどうなりましたか?
市は落城に先立って、茶々・初・江を富永新六郎に預け、秀吉のもとへ届けさせました。市が「主筋」として大切に扱ってほしいと記した書状を添えたと伝えられています。
お市の方の辞世の句はありますか?
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」が伝わります。桑田忠親『桃山時代の女性』『戦国時代の女性』に紹介されています。
ほかの人物の死因をあわせて知りたい方は、歴史上の人物の死因一覧|飛鳥から昭和まで時代順にもご覧ください。





