結論:信長の出身地は尾張国、今の愛知県。生誕地は勝幡城説が有力
織田信長は、天文3年(1534年)に尾張国で生まれました。尾張国は現在の愛知県の西部にあたり、答えは「愛知県」です。
ただし「尾張のどの城で生まれたか」は一つに決まっていません。長く通説だったのは那古野城(なごやじょう)説ですが、信長が生まれた時点で父の信秀はまだ那古野城を手にしていなかったと考えられるようになり、現在は勝幡城(しょばたじょう)説が有力とされています。勝幡城跡は愛西市と稲沢市にまたがっており、どちらも愛知県内です。つまり、どの説をとっても出身地は愛知県になります。
基本情報
- 生年:天文3年(1534年)5月。日付は12日説と28日説がある
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 出身:尾張国(現在の愛知県西部)
- 父:織田信秀(織田弾正忠家の当主)
- 母:土田御前(土田政久の娘)
- 生誕地の説:勝幡城説(有力)、那古野城説(かつての通説)、古渡城説
- 主な居城:那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城
織田信長の出身地は何県?尾張国と愛知県の関係
尾張国は今の愛知県西部
信長の時代に「愛知県」はありません。当時の地方区分は「国」で、信長が生まれたのは尾張国です。明治維新直前の尾張国は、名古屋市、瀬戸市、春日井市、津島市、半田市などの全域と、一宮市、稲沢市、愛西市、弥富市の大部分にほぼ重なります。
尾張国が愛知県になったのは明治の初めです。1871年(明治4年)の廃藩置県では名古屋県・犬山県・今尾県の管轄に分かれ、同年のうちに名古屋県へまとまり、1872年(明治5年)4月に愛知県の管轄となりました。
旧尾張国と現在の県境は完全には一致しない
旧国の範囲と県境は、細部では食い違います。1586年に木曽川の流れが変わり、尾張の北岸や中洲が美濃国に移ったため、現在は愛知県でも旧尾張国に含まれない地区があります。逆に、現在の岐阜県海津市の一部(海津町駒ケ江の一部)は旧尾張国でした。信長の生誕地の候補は、いずれも現在の愛知県内にあります。
守護は斯波氏、守護代は織田氏
尾張の守護は、1400年頃に着任した斯波義重以来、戦国期まで約150年間、斯波氏でした。その守護代を務めたのが織田氏です。応仁の乱の後、織田氏は大和守家(清洲織田氏)と伊勢守家(岩倉織田氏)に分かれて争い、信長の家である「弾正忠家」はそこから出て勢力を伸ばしました。信長の家は、守護代の家の分かれから力をつけた一族でした。
生誕地の三説:勝幡城・那古野城・古渡城
勝幡城説:現在もっとも有力
勝幡城は平城で、二重の堀に囲まれた館城でした。永正年間ごろに織田信定(信長の祖父)か、その父の良信が築いたとされます。商業地として栄えた津島を押さえた経済力を示す城ともいわれます。
『尾州古城志』などの史料をもとにした1992年の論文以降、現在はこの説が妥当と考えられています。愛知県の観光サイト「Aichi Now」も、信長が1534年にこの城で生まれたと伝えられていると紹介しています。
那古野城説:長く通説だった理由と揺らいだ理由
那古野城説は、『国史大辞典』の記述に基づき、長く通説の位置にありました。信秀が信長にこの城を譲ったとされることも、この説の背景にあります。
疑問が出たのは、公家・山科言継の日記『言継卿記』などから、1534年の時点で織田家はまだ那古野城を奪っていなかったと読めるためです。那古野城はもともと今川氏親が尾張進出の拠点として築いた城で、城主は今川氏豊でした。信秀が計略で氏豊を追い出して奪った時期は、以前は天文元年(1532年)とされていましたが、近年は天文7年(1538年)ごろと考えられています。この年代なら、1534年生まれの信長は那古野城で生まれたことになりません。
古渡城説と、信長と古渡城の関わり
三つ目の古渡城説もあります。信長は古渡城で、天文15年(1546年)に元服したことが分かっています。ただし生誕地としては、勝幡城説ほど有力とはされていません。
三説とも、史料から決定的に一つに絞れているわけではありません。「有力」と書けるのは、年代の矛盾が少ない勝幡城説です。
生誕地よりも大事?信長の居城の移り変わり
那古野城:父から譲られた城
信秀が那古野城を手に入れた後、信長はこの城を父から与えられ、城主となりました。跡地は現在の名古屋城二之丸にあたり、のちに徳川家康が名古屋城を築く際、この故地に着目しました。
清須城:桶狭間へ出陣した城
1555年(弘治元年)、守護代の織田信友が入っていた清須城で、織田信光が信友を殺害しました。信長は那古野城から清須城へ移り、大規模に改修して約10年間の居城としました。1560年の桶狭間の戦いはこの城から出陣し、1562年には徳川家康との清洲同盟もここで結ばれたとされます。ただし、この会見の逸話は後世の創作とみる見方もあり、同盟は桶狭間の直後に成立した可能性が高いとされます。
小牧山・岐阜・安土へ:尾張を出ていく歩み
1563年(永禄6年)、信長は小牧山城へ本拠を移しました。1567年に稲葉山城を落とすと、井ノ口を「岐阜」と改めます。1575年には岐阜城を嫡男の信忠に譲りました。安土城は1576年に築城が始まり、天主が完成した1579年に信長が移り住んでいます。
生まれ故郷の尾張から、美濃、近江へと、居城は攻める先に合わせて動いていきました。清須城は、信長の死後に開かれた清洲会議(1582年)の舞台でもあり、城は次男の織田信雄が相続しました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 勝幡城跡(愛西市・稲沢市):遺構は残っていませんが、日光川の左岸に「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」と「勝幡城址」の二つの石碑があります。1979年の排水工事で見つかった櫓台の基石は、愛西市佐織支所に保管されています。城跡は稲沢市の指定史跡です。名鉄津島線の勝幡駅から徒歩約10分で、駅前には幼少期の信長像があります。
- 名古屋城二之丸(名古屋市中区二の丸):那古野城の故地とされ、那古野城址の碑が建っています。名古屋城の西南には「那古野」の地名が残り、現在は「なごの」と読みます。
- 清須城跡(清須市):開発で大部分が失われ、東海道本線と東海道新幹線で分断されています。残るのは本丸土塁の一部です。1989年に建てられた天守は鉄筋コンクリート造の模擬天守で、創建当時の絵図が残らないため規模は推定によります。
関連する人物
- 織田信秀:父。今川氏豊から那古野城を奪って本拠を移した。勝幡城には家臣の武藤雄政を城代に置いた
- 織田信定:祖父。勝幡城を築いたとされる
- 織田信光:叔父。清須城で織田信友を討った
- 織田信雄:次男。清洲会議の後に清須城を相続した
- 徳川家康:通説で1562年に清洲同盟を結んだ相手。のちに名古屋城を築いた
よくある質問
織田信長の出身地は何県ですか?
愛知県です。信長が生まれた尾張国は、現在の愛知県の西部にあたります。生誕地の候補(勝幡城・那古野城・古渡城)は、いずれも愛知県内です。
信長は名古屋で生まれたのですか?
那古野城(現在の名古屋城二之丸の場所)で生まれたとする説は、長く通説でした。しかし信長の生まれた1534年には、父の信秀がまだこの城を奪っていなかったと考えられるようになり、現在は勝幡城説が有力です。
勝幡城は今の何市にありますか?
愛知県の愛西市勝幡町と稲沢市平和町にまたがる一帯です。中心は城之内付近と推定されています。
信長が尾張にいたのはいつまでですか?
1563年に小牧山城へ移るまでは尾張が本拠でした。その後、1567年に岐阜、1579年に安土へ拠点を移しています。





