結論:蘭丸は信長の小姓として使者も務めた若い側近で、本能寺の変で討死した
森蘭丸(本名は森成利)は、織田信長の家臣・森可成の三男である。天正5年(1577年)に小姓として召し抱えられ、使者などの役目を果たし、天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変で討死した。享年は18とされる。
信長との絆を物語る確かな材料は、『信長公記』に残る使者の記録、近江国で500石の知行を与えられたこと、そして本能寺で襲撃の様子を信長に報告したやり取りである。一方、「美少年」「寵愛を受けた」という話は、Wikipediaでも「一説では」とされるだけで、具体的な出典は示されていない。この記事では、記録で言えることと言えないことを分けて紹介する。
基本情報
- 名前:森成利(もり なりとし)。通称は蘭丸。同時代の文書では「乱」「乱法師」と書かれる
- 生年:永禄8年(1565年)。尾張国葉栗郡蓮台の生まれとされる
- 没年:天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺で討死。享年18
- 時代:安土桃山時代
- 立場:織田信長の小姓
- 家族:父は森可成、母は妙向尼。兄に可隆・長可、弟に長隆(坊丸)・長氏(力丸)・忠政がいる。成利は三男とされる
- 主な記録:天正5年に小姓となる/天正9年に近江国で500石を与えられる/本能寺の変で討死
織田信長と森蘭丸のエピソード:小姓としての仕事と評価
森家の三男として生まれ、小姓になるまで
父の森可成は信長に仕えた武将である。元亀元年(1570年)9月、浅井長政・朝倉義景の軍勢を宇佐山城の外で食い止め、坂本で討死した。享年48。可成らが足止めをしたことで、信長が背後を突かれる事態は防がれたとされる。このとき成利は5歳ほどになる計算だが、森家は当主を失っても信長に仕え続けた。
『兼山記』によると、成利は天正5年(1577年)5月に、弟たちとともに信長の小姓として召し抱えられた。このとき成利は12歳ほどである。母の妙向尼については、石山合戦の和睦に奔走し、成利を通じて情報を得て信長と直談判したという話も伝わる。
『信長公記』に残る使者としての姿
小姓は主君の身近で用を足す役で、成利の仕事ぶりは使者としての記録に表れる。『信長公記』には、天正7年(1579年)4月18日に銀子を届ける使者を務めたこと、天正8年(1580年)1月26日に岐阜の土蔵に関わる用を務めたことが見える。天正9年(1581年)には、信長が信忠・信孝・信雄に脇差を送った際にも使者を務めた。
信長の子らへの贈り物を託されたことは、主君の信頼がなければ務まらない役目だったことを示している。ただし、これらは用向きを淡々と記した記録であり、二人の会話や感情まで書かれているわけではない。
500石の知行と兼山の領地
天正9年(1581年)4月20日、成利は近江国で500石の知行を与えられた。さらに天正10年(1582年)の甲州征伐の後、兄の長可が信濃川中島へ領地替えになると、成利は美濃の兼山と米田島を与えられたと『信長公記』にある。
この領地には史料による違いがあり、『寛永伝』は5万石とする。『信長公記』『兼山記』は成利を金山城(兼山)の城主とするが、『遠山来由記』『巖邑府誌』は岩村城を成利が与えられたと伝える。実際には成利は岩村城に在城せず、長可の家老・各務元正が城代を務めたとされる。「岩村城主・森蘭丸」という紹介を見かけても、史料の上ではそう単純ではない。
本能寺の変での蘭丸:信長とのやり取りと最期
『信長公記』が伝える襲撃の朝
天正10年6月2日の早朝、明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだ。『信長公記』によれば、信長と小姓衆は初め、下々の者の喧嘩だと考えていたという。しかし明智勢が鬨の声を上げ、御殿に鉄砲を撃ち込んだ。信長は成利に状況を尋ねた。成利は、明智の軍勢だと報告した。
これを聞いた信長が発したのが「是非に及ばず」という一言である。通説では、脱出は不可能だと悟った言葉と解釈されている。成利が信長の目となって状況を伝えたこの場面が、二人の関係を伝える最も有名なやり取りである。なお『三河物語』は別の伝え方をしており、信長がまず信忠の謀反を疑い、成利が明智の謀反だと訂正したことになっている。
蘭丸の最期と、わからないこと
成利は健闘の末に討死したとされる。信長に槍で傷を負わせた安田国継(天野源右衛門)に討たれたという話があるが、これは本人の証言によるもので、疑問も残り、確証はない。白小袖を着て茶筅髷に結っていたという姿も、同じ人物の覚書に由来する。弟の坊丸(長隆)と力丸(長氏)も本能寺で討死した小姓衆に挙げられている。
本能寺の変については『本城惣右衛門覚書』、ルイス・フロイスの『日本史』など複数の史料があるが、いずれも書きぶりが異なり、信長と成利の最期について確たる事実は明らかになっていない。
信長自身の最期も、『信長公記』では奥に籠もり内側から納戸を閉めて切腹したとされ、宣教師の報告では切腹説と焼死説の両方がある。小姓衆の人数も史料により20〜30人から150〜160人までと幅がある。「主従が最期まで寄り添った」という像は、この不確かさの上に成り立っている。
美少年・寵愛説は本当か?史料から見た蘭丸像
「美少年」「男色関係」の根拠
蘭丸といえば美少年で、信長に寵愛されたというイメージが強い。しかしWikipediaは、信長の寵愛を受けて衆道の関係があったともいわれる、と「一説」として触れるにとどまり、具体的な出典は示していない。この記事で調べた範囲では、美貌や関係を裏づける同時代の記録は確認できなかった。そのため、ここでは「そういう説がある」という以上のことは書かない。
名前と遺品にも誤解がある
「蘭丸」は通称で、同時代の文書では「乱」「乱法師」と書かれる。本人の署名は「成利」である。諱については『寛政重修諸家譜』が「長定」とし、「長康」とする文書もある。名前ひとつにも、史料ごとのばらつきがある。
また、蘭丸の遺品とされる甲冑(伊予札胴具足)については、発見者や修理した甲冑師が、成利の所用であることを否定している。真正性は確認されていない。ゆかりの品として語られるものでも、由来が確かめられているとは限らない。
わかっている蘭丸像
記録から確かに言えるのは、次のとおりである。
- 森可成の三男で、天正5年に小姓となった
- 使者を務めた記録があり、天正9年には500石の知行を得た
- 本能寺で襲撃を信長に報告し、討死した
信長が成利を重く用いたことは、これらの役目から読み取れる。しかし、それ以上の心情や私的な関係は、史料からは見えてこない。
ゆかりの地と関連する人物
美濃金山城跡と可成寺(岐阜県可児市兼山)
森可成は美濃の烏峰城を与えられ、改築して金山城と改名したとされる。金山城は現在の可児市兼山にあたる。同じ兼山にある可成寺には、可成と長可の墓がある。
関連する人物
- 森可成:蘭丸の父。宇佐山城の戦いで浅井・朝倉軍を食い止め、元亀元年に討死した
- 森長可:蘭丸の兄。甲州征伐の後、信濃川中島に領地替えとなった
- 森長隆(坊丸)・森長氏(力丸):蘭丸の弟。ともに本能寺で討死した小姓衆に挙げられる
- 明智光秀:本能寺を襲撃した武将
よくある質問
森蘭丸は何歳で亡くなったのですか?
永禄8年(1565年)生まれとされ、本能寺の変の天正10年(1582年)に享年18で亡くなったとされる。
蘭丸は本当に岩村城の城主だったのですか?
史料によって異なる。『信長公記』『兼山記』は金山城(兼山)の城主とし、『遠山来由記』『巖邑府誌』は岩村城を与えられたと伝える。成利は岩村城に在城せず、各務元正が城代を務めたとされる。
蘭丸は信長の寵愛を受けた美少年だったのですか?
寵愛を受けて衆道の関係があったという説はあるが、具体的な出典は示されていない。確かな記録で言えるのは、小姓として使者などを務め、知行を与えられたことまでである。
本能寺で蘭丸は何をしたのですか?
『信長公記』では、信長に尋ねられて様子を見に行き、明智の軍勢だと報告した。その後、健闘して討死したとされるが、最期の詳しい様子は史料により異なり、確かなことはわかっていない。






