結論:1565年に結んだ同盟は、1572年の西上作戦で破れた。二人は直接戦わないまま信玄が亡くなった
武田信玄と織田信長は、永禄8年(1565年)11月に信長の養女を信玄の四男・勝頼に嫁がせる形で同盟を結んだ。信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約も整い、両家は縁組で結ばれていた。
関係が壊れたのは元亀3年(1572年)である。信玄は10月3日に甲府を出陣して徳川家康の領国に攻め込み、12月22日の三方ヶ原の戦いで、家康と織田の援軍を破った。信長は11月20日に上杉謙信へ書状を送り、信玄を強く非難している。
ただし二人が戦場で向き合うことはなかった。信玄は翌元亀4年(1573年)4月12日、三河街道上で病死した。享年53。信玄の死後、両家の戦いは勝頼の代に持ち越され、天正3年(1575年)の長篠の戦いを経て、天正10年(1582年)に武田氏は滅びる。
基本情報
- 武田信玄:大永元年11月3日(1521年12月1日)生まれ、元亀4年4月12日(1573年5月13日)没。甲斐の戦国大名で、室町幕府から甲斐・信濃の守護職を認められた。官位は従五位下・左京大夫から従四位下・大膳大夫
- 織田信長:尾張から出て天下統一を進めた戦国大名。永禄11年(1568年)9月に足利義昭を奉じて上洛した
- 時代:室町時代(戦国時代)
- 二人の関係:永禄8年(1565年)に同盟、元亀3年(1572年)に事実上決裂
- 同盟の証:信長の養女と勝頼の婚姻、信忠と松姫の婚約
- 決裂のきっかけ:東美濃の岩村城をめぐる対立と、信玄の遠江・三河への出兵
武田信玄と織田信長の関係の移り変わり:同盟から決裂まで
1565年、養女の縁組で結ばれた同盟
永禄8年(1565年)11月、信長は信玄と同盟を結び、同じ月に信長の養女(龍勝寺殿)を信玄の四男・勝頼に嫁がせた。養女は東美濃の遠山直廉の娘で、信長の姪にあたる。この養女は男児を産んだあと亡くなったとされる。
もう一つの縁組が、信忠と松姫の婚約である。『甲陽軍鑑』によると、永禄10年(1567年)12月、松姫は7歳、信忠は11歳だった。松姫は武田家の中で「新館御料人」と呼ばれ、信忠の妻として扱われたという。二人は会ったことがなく、手紙のやりとりだけで気持ちを通わせたと伝わる。
信長が足利義昭を奉じて上洛したのは永禄11年(1568年)9月である。この時点ではまだ、両家の同盟は続いていた。
1571年、比叡山焼き討ちと足利義昭の御内書
元亀2年(1571年)には信長が比叡山を焼き討ちした。信玄はこれを強く非難し、覚恕法親王を保護して、延暦寺を甲斐へ移すことまで図ったとされる。
同じ頃、将軍・足利義昭は信玄らに御内書を出し始めた。義昭と信長の関係はすでに悪化しており、朝倉義景、浅井長政、本願寺、三好三人衆などが連なる反信長の動きは「信長包囲網」と呼ばれる。信玄はこの包囲網に関わっていったとされる。ただし御内書の日付は、確かめた資料には書かれていない。
一方で元亀3年1月20日、信玄は織田家臣の夕庵に宛てた書状で、信長と疎遠になる気はないと述べている。同年8月ごろには、織田と本願寺の和睦に信玄が関わっていた。この時点では、両者はなお友好の形を保っていた。
岩村城をめぐる不信
決裂の火種として挙げられるのが、東美濃の岩村城である。城主の遠山景任が亡くなったあと、信長は信玄に断りなく岩村城を押さえ、自分の子の御坊丸を景任の後継者とさせた。これが信玄の不信を招いたとされる。
岩村城はその後、武田方の秋山虎繁に包囲され、元亀3年11月に降伏・開城した。翌元亀4年3月6日には、信玄が秋山虎繁を岩村城に入れている。
1572年の出陣と三方ヶ原の戦い
元亀3年10月3日、信玄は甲府を出陣した。信長はこれを知らないまま、10月5日付で信玄に、武田と上杉の和睦に尽力したという内容の書状を送っている。信玄が9月26日付の書状でなお越後出兵を述べていたことから、西へ向かう方針が固まったのは9月下旬ごろとみられている。
10月14日の一言坂の戦いで家康が敗れ、12月19日に二俣城が落ちた。そして12月22日(西暦1573年1月25日)、三方ヶ原の戦いで武田軍が圧勝する。織田方からは、『信長公記』が大将として挙げる佐久間信盛、平手汎秀、水野信元らが援軍に出ていた。援軍の人数は史料によって3,000人から2万人まで幅がある。
信長は11月20日の上杉謙信宛ての書状で、信玄を強く非難しており、この時点で関係を切る意向を示していた。松姫の婚約も、信長が家康に援軍を送ったことで両家が敵となり、解消されたと伝わる。
信玄の西上作戦と足利義昭:目的は上洛だったのか
通説は「義昭の要請に応えた信長討伐」
従来は、信玄の西上は義昭による信長討伐の呼びかけに応じたものとされてきた。上洛を目指した遠征という見方である。
これに対して近年は、別の見方も出ている。9月下旬の方針決定は、本願寺や朝倉義景からの要請を受けたものとみられるという説明である。さらに、義昭が諸国に信長討伐を呼びかけたのは元亀4年(1573年)に入ってからで、信玄の三方ヶ原での勝利を見た義昭が信長を見限り、信玄と結んだとする説もある。この説では、信玄の西上が義昭の挙兵の原因になったと考える。
浜松城の兵糧攻めや東美濃の取り込みという見方
目的についてはほかにも説がある。堀江城を落として浜松城への水運を断ち、兵糧攻めにする狙いだったとする説である。堀江城への攻撃は4日で撤退に追い込まれ、信玄は吉田城・田原城や野田城へ目標を切り替えたとされる。また、岩村城のある東美濃の遠山氏を武田方に取り込む動きだったとする見解もある。
武田軍は元亀4年2月に野田城を落とした。信玄の目的が上洛だったのかどうかは、確かな史料で一つに決められていない。『甲陽軍鑑』は遺言として、山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と伝えたと記す。ただしこれは軍記物の記述であり、そのまま事実とは言い切れない。
信玄の死と、その後の義昭・朝倉・浅井
元亀4年1月、三方ヶ原の勝報を受けた義昭は二条御所に籠もって挙兵した。3月末に信長が京都へ出兵し、4月5日に天皇の勅命で信長と義昭は講和した。その1週間後の4月12日に、信玄が帰国の途上で亡くなる。臨終の地は信濃国駒場(阿智村)とされるが、浪合や根羽とする説もある。
その後、7月3日に義昭は再び挙兵して槇島城に籠もったが、7月18日に敗れて京都を追われた。8月20日に朝倉義景、9月1日に浅井長政が自害し、朝倉氏と浅井氏は滅亡した。信玄の死が、包囲網の崩れる大きな節目になったことは年表から分かる。
なぜ信玄と信長は直接対決しなかったのか:死後の武田家と長篠の戦い
戦ったのは家康と織田の援軍だった
信玄が攻めたのは、同盟相手の信長の領国ではなく、まず家康の領国だった。三方ヶ原でも織田軍は援軍の形で参加し、信長が前線に立ったという記述は確かめた資料にない。信玄が上洛を果たす前の元亀4年4月に亡くなったため、二人が本格的に戦う機会は来なかった。
信長が信玄の動きをいつ知ったのかを示す材料もある。信玄が出陣した10月3日の後、信長は10月5日付で友好的な内容の書状を送っていた。信長が出陣を知らなかったという記述が信長の項目にあり、同盟が内側から崩れていく様子がうかがえる。
『甲陽軍鑑』が伝える遺言と、実際の葬儀
『甲陽軍鑑』は信玄の遺言として、死を3年間隠すこと、勝頼は上杉謙信を頼ることを挙げる。一方、遺骸を諏訪湖に沈めよという遺言は誤りとされ、墓は恵林寺に現存する。天正3年(1575年)4月12日に三周忌の仏事が、天正4年(1576年)4月16日に勝頼による葬儀が、いずれも恵林寺で営まれた。
勝頼の代の戦いと長篠の戦い
天正2年(1574年)正月、勝頼は東美濃に攻め込み、明知城が落ちた。天正3年4月には、徳川方に転じた奥平貞昌の長篠城を包囲する。5月21日の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍が武田軍に大勝し、武田方は有力な武将の多くを失った。
天正10年(1582年)の甲州征伐で勝頼が自害し、武田氏は滅亡した。信長が上杉謙信へ書状を送ってから、およそ10年である。
フロイス書簡の称号のやりとり
信玄の死から8日後にあたる元亀4年4月20日付のフロイス書簡には、信玄と信長が天台宗や第六天魔王にまつわる称号を名乗り合ったとするやりとりが記されている。ただし、これは宣教師による拡大解釈とされ、確かな事実として扱われてはいない。
なお、元亀2年の信玄による三河侵攻とされてきた出来事について、史料の年代の比定に誤りがあり、実際は天正3年の出来事だった可能性も指摘されている。年表を読むときは、この点にも注意が必要である。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 恵林寺:信玄の墓が現存する。三周忌と、勝頼による葬儀が営まれた寺でもある
- 岩村城:遠山氏が治めた東美濃の要衝で、信長と信玄の関係悪化の舞台になった
- 三方ヶ原:家康の拠点・浜松城の近くで戦いが起きた地
- 信松院:八王子にある寺。松姫が出家後に暮らした庵が、のちの信松院になったという
関連する人物
- 武田勝頼:信玄の四男。信長の養女を妻に迎え、のち長篠の戦いで敗れた
- 織田信忠:信長の嫡男。松姫と婚約した
- 松姫(信松尼):信玄の娘。武田氏の滅亡後に出家し、元和2年(1616年)4月16日に56歳で亡くなった
- 徳川家康:三方ヶ原で信玄に敗れた
- 足利義昭:信玄に御内書を送った将軍で、のち槇島城で敗れて京都を追われた
よくある質問
武田信玄と織田信長は同盟を結んでいたのですか?
はい。永禄8年(1565年)11月、信長の養女が信玄の四男・勝頼に嫁ぐ形で同盟が結ばれました。信忠と松姫の婚約も整っていたと伝わります。
武田信玄と織田信長は直接戦ったのですか?
確かめた資料では、二人が直接戦った記述はありません。三方ヶ原の戦いでは信長は援軍を送った立場で、信玄はその翌年に亡くなりました。
同盟が壊れた理由は何ですか?
岩村城をめぐって信長が信玄に断りなく動いたことへの不信、足利義昭を中心とする信長包囲網との関係、本願寺や朝倉義景からの要請などが挙げられます。どれが決め手かは、一つに決められていません。
信玄は上洛を目指していたのですか?
通説は義昭の要請に応じた上洛とされますが、浜松城の兵糧攻めや東美濃の取り込みを狙ったとする説もあり、はっきりしていません。
信玄はどこで亡くなったのですか?
元亀4年4月12日に三河街道上で病死しました。臨終の地は信濃国駒場(阿智村)とされますが、浪合や根羽とする説もあります。





