本多忠勝

結論:山県昌景と本多忠勝は同時代の「猛将」だが、どちらが最強かは資料では決められない

山県昌景は武田信玄・勝頼に仕えた武田四天王の一人で、天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死しました。本多忠勝は徳川家康に仕えた徳川四天王の一人で、慶長15年(1610年)に63歳で亡くなっています。

二人は元亀3年(1572年)の遠江・三河をめぐる戦いで敵味方として同じ時期に戦場にいました。ただし、「戦国最強」を決める客観的な基準は資料にありません。本記事では、資料にある事実と、後世の評価として伝わる話を分けて紹介します。

基本情報

山県昌景

  • 生年:永正12年(1515年)頃とされるが不確か。没年:天正3年5月21日(1575年)、享年は「60歳余り」とされる
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代
  • 立場:武田信玄、のち武田勝頼に仕えた重臣。もとの姓は飯富で、永禄8年(1565年)以降に山県を名乗った
  • 通称:源四郎、のち三郎兵衛尉。駿河の江尻城の城代を務めた
  • 墓所:愛知県新城市と山梨県甲州市の恵林寺に伝わる

本多忠勝

  • 生年:天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前の生まれ。没年:慶長15年(1610年)、桑名にて没、享年63
  • 時代:戦国時代から江戸時代前期
  • 立場:徳川家康の家臣で、のち大名。通称は平八郎、官位は従五位下・中務大輔
  • 主な業績:姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手、関ヶ原などで戦い、伊勢桑名10万石の藩主となった
  • 墓所:桑名の浄土寺。大多喜の良玄寺にも分骨された

山県昌景とは何者か? 武田の重臣の生涯

飯富から山県へ:兄の最期と改姓

昌景はもと飯富昌景といい、飯富虎昌の弟または甥とされる人物です。出自には、安芸の山県氏の出身だとする少数説もありますが、確かな史料はないと説明されています。

転機は永禄8年(1565年)の義信事件です。信玄の嫡男・武田義信の謀反の企てが発覚しました。昌景はこの企てを信玄に知らせたと考えられています。信玄は飯富家を廃し、先代の頃に絶えていた山県の名を昌景に与えました。

家老格への歩み

『甲陽軍鑑』は、昌景が信玄の近習から使番となり、信濃攻めで功を立てて騎馬150騎の侍大将になったと記します。確認できる最も古い記録は弘治2年(1556年)で、善光寺に関する武田氏の文書の取次役として名が見えます。

1560年代には、行政面の仕事でも名が出てきます。甘利信忠の死後(1567年)には裁判に関わる役割を担い、永禄12年(1569年)には江尻城の城代として、駿河・遠江・三河方面の軍事を担当しました。

武田四天王としての位置づけ

昌景は、馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信とともに武田四天王に数えられます。四天王は後世の総称で、そのうち高坂昌信は勝頼の後期まで生きており、『甲陽軍鑑』はその口述が原本になったとされます。

本多忠勝とは何者か? 家康を支えた生涯

13歳の初陣と一向一揆での選択

忠勝は、徳川本家(安祥松平家)の譜代である本多氏の出身です。永禄3年(1560年)、13歳のとき、大高城への兵糧入れで初陣を果たしたとされています。

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、本多一族の多くが敵方につくなか、忠勝は浄土宗に改宗して家康側に残りました。永禄9年(1566年)には19歳で旗本先手役に抜擢され、与力54騎が付けられています。

主な戦いと小牧・長久手での振る舞い

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、朝倉軍の真柄直隆と一騎討ちをして名を上げたとされます。元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは殿軍を務め、家康の本隊を退却させました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、500名で豊臣軍の前に立ちはだかりました。龍泉寺川で単騎のまま馬の口を洗わせるほどの豪胆な振る舞いをし、豊臣軍の進撃をためらわせたと伝わります。

天下三名槍「蜻蛉切」

忠勝の槍は「蜻蛉切」と呼ばれ、天下三名槍の一つに数えられる大笹穂槍です。穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという逸話が名の由来とされ、銘は「藤原正真作」です。

二人が交わった戦い:三方ヶ原と長篠

三方ヶ原の戦い(元亀3年12月22日)

元亀3年(1572年)10月、武田軍は甲府を出て軍を二手に分け、遠江・三河へ侵攻しました。山県昌景は秋山虎繁とともに別働隊(『当代記』によれば5,000人)を率い、9月29日に諏訪から東三河に入って武節城・長篠城を攻略し、遠江へ進んで11月初めに二俣城の包囲に加わったと記されています。

12月22日の三方ヶ原では、徳川軍は鶴翼の陣、武田軍は魚鱗の陣で、日没までの約2時間戦いました。徳川軍の武将として参戦した本多忠勝らの防戦により、家康は討ち取られなかったとされます。本多忠勝の項には、この戦いで忠勝が山県昌景の隊を撃退したと書かれています。

三方ヶ原の前哨戦の逸話として、忠勝が内藤昌成とともに見付の東坂の上まで物見に出た際、町衆が町に火を掛けて本多隊の撤退を助けたという話も伝わります。

長篠の戦い(天正3年5月21日)

天正3年(1575年)5月21日の決戦で、昌景は武田軍の左翼に内藤昌秀とともに配置され、緒戦で一番手として織田方の陣に攻めかかりました。しかし鉄砲の射撃を受けて退却し、左翼で鉄砲により討死したとされています。『信長公記』では討ち取られた首の筆頭に昌景が挙げられています。

本多忠勝はこの戦いで徳川軍の本隊の武将として名が挙がっていますが、具体的な戦闘の記述は見当たりません。そのため、この戦場で二人が直接ぶつかったと確かめられる資料はありません。

「戦国最強」を語る:評価と逸話をどう読むか

本多忠勝への評価

織田信長が忠勝を「花も実も兼ね備えた武将」と紹介したとされます。豊臣秀吉は「日本第一」「東国一の勇士」と称えたと伝わり、家康は「まことに我が家の良将なり」と激賞したとされます。いずれも「〜とされる」と伝わる評価です。

生涯57回の合戦でかすり傷も負わなかったという話も有名です。『藩翰譜』には「一所の手も負わず」とありますが、複数の文献から引かれた伝承で、書き方も文献によって異なります。本記事では事実とは断定しません。

山県昌景に残る逸話

昌景は赤備えの部隊を率いたと語られがちですが、その伝承は疑わしいと説明されています。体格はたいへん小柄だったと説明されています。川中島での一騎討ちの話や、長篠で刀の柄を口にくわえて死んだという話は、後世の出所の不確かな逸話で、史実として書くことはできません。

私の考え

私は、二人を単純に比べて優劣を付けるのは難しいと考えます。忠勝は戦場での無事と勝ち戦の記録が長く残り、昌景は主家が衰える局面で重臣として戦い、討死したという違いがあります。生き方も資料の量も違うため、「最強」の称号は後世の人気が付けたものと受け止めるのが妥当です。

ゆかりの地と関連する人物

山県昌景ゆかりの地

  • 愛知県新城市:墓所が伝わる
  • 山梨県甲州市の恵林寺:墓所が伝わる

本多忠勝ゆかりの地

  • 三重県桑名市の浄土寺:墓所。晩年を過ごした桑名では、城郭の修築や町割り、東海道の宿場の整備を行い、藩の基礎を築いたとされる
  • 千葉県大多喜町:天正18年(1590年)に家康の関東移封に伴い10万石を与えられた地。里見氏への備えとされる。良玄寺に分骨された

関連する人物

  • 武田信玄・武田勝頼:昌景が仕えた主君
  • 馬場信春・内藤昌秀・高坂昌信:武田四天王の同僚
  • 徳川家康:忠勝が仕えた主君
  • 小松姫:忠勝の娘で、真田信之の正室
  • 本多忠政・本多忠朝:忠勝の嫡男と次男

よくある質問

山県昌景はどこで、どのように亡くなりましたか。

天正3年5月21日の長篠の戦い(設楽原)で、武田軍の左翼にいて、鉄砲により討死したとされます。

本多忠勝は一度も傷を負わなかったのですか。

57回の合戦でかすり傷も負わなかったと伝わりますが、複数の文献を引いた伝承で、書き方も一定ではありません。事実として断定できる資料は確認できませんでした。

山県昌景と本多忠勝は戦ったのですか。

三方ヶ原の戦いで忠勝が昌景の隊を撃退したと、本多忠勝の項に書かれています。長篠の戦いでは、二人が直接戦ったと確かめられる記述はありません。

二人のうち、どちらが強かったのですか。

比べられる客観的な資料はありません。忠勝は信長・秀吉・家康に称賛されたと伝わり、昌景は武田四天王の一人に数えられます。強さの優劣は、後世の評価の問題です。