結論:信長の刀で現存して確かめやすいのは「義元左文字」、「へし切長谷部」は信長との結びつきが伝承
織田信長の刀として最も知られるのは、国宝の「へし切長谷部」と、重要文化財の「義元左文字(宗三左文字)」である。このうち義元左文字は、茎に信長の名と桶狭間の戦いの日付を記した金象嵌の銘が残る。一方、へし切長谷部は信長の所持品とする伝承があるが、誰を経て黒田家に渡ったかは文献によって話が分かれる。
つまり、信長の刀は「名前が有名であること」と「信長の所持が史料で裏づけられること」が別の問題になる。この記事では、Wikipedia と文化庁「文化遺産オンライン」で確かめられた範囲で、二振りの来歴と、説が分かれる点を整理する。
基本情報
- 織田信長:天文3年(1534年)生まれ、天正10年6月2日(1582年6月21日)没、享年49。戦国時代から安土桃山時代の武将
- 「天下布武」の印:美濃攻略後に使い始めたとされ、初見は永禄10年(1567年)
- へし切長谷部:南北朝時代の刀。刃長64.8cm。国宝。福岡市博物館蔵(所有者は福岡市)
- 義元左文字:刃長66.9cm。重要文化財。建勲神社蔵で、京都国立博物館に寄託されている
- 本記事の型:謎・諸説(信長の刀とされる名刀の来歴と真偽)
織田信長の刀とは?名刀「へし切長谷部」の来歴と名前の由来
へし切長谷部とはどんな刀か
へし切長谷部は、山城の刀工・長谷部国重の作とされる刀である。国重は正宗十哲の一人とされ、長谷部派の開祖と言われる。文化遺産オンラインの解説では、幅が広く切先の大きい、反りの浅い姿で、肌と刃文は南北朝時代の特徴を示すという。長谷部派の現存作は、銘のあるものも無銘のものも含めて、この刀が随一とされている。
数値は、刃長64.8cm、反り1.0cm、元幅3.0cm、先幅2.5cm、茎長16.7cmである。もとは長い太刀だったが、後に磨り上げられて刀に改められた。そのため作者の銘はなく、「大磨上無銘」と呼ばれる。茎には、本阿弥光徳が長谷部国重の作と鑑定した金象嵌の銘と、「黒田筑前守」の所持銘が入っている。
「へし切」の名の由来
名の由来として広く語られるのは、信長が無礼を働いた茶坊主を斬った話である。Wikipedia によると、『黒田御家御重宝故実』などは、観内という茶坊主が台所の膳棚の下に隠れたところを「圧し切り」にしたことから、この名がついたと伝える。文化遺産オンラインも、信長に逆らった茶坊主が棚の下に隠れたため、棚の下に刀を差し込んで圧し切ったという伝説を紹介している。
ただし Wikipedia は、「棚ごと切った」という説明は、圧して切るという意味に合わないとして否定されていると記す。同じ逸話でも、書かれ方が資料によって違う。いずれも後の時代の記録に基づく伝承であり、信長自身の記録で裏づけられた話ではない。
信長から黒田家へ――伝わり方は三つの説
信長から黒田家への伝来は、一通りに決まっていない。Wikipedia は次の三説を挙げる。
- 信長から羽柴秀吉を経て、黒田長政に与えられたとする説
- 信長が直接、長政に与えたとする説
- 黒田孝高(官兵衛)が中国攻めの策を提言した褒美として、信長から与えられたとする説
以後は福岡藩主黒田家の家宝となり、江戸時代中期に徳川吉宗の命で編まれた『享保名物帳』には、長谷部派の作品として唯一載った。
織田信長の愛刀と真贋の謎――義元左文字に残る銘と疑問
桶狭間で得た刀と、茎に刻まれた銘
義元左文字は、もとは今川義元が持っていた刀である。Wikipedia が伝える来歴では、天文5年(1536年)に三好政長(宗三)から武田信虎に贈られ、天文6年(1537年)に信虎の娘が今川義元に嫁ぐ際の引出物として義元の手に渡った。別名の「宗三左文字」「三好左文字」は、この経路にちなむ。
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いで義元が討たれたあと、信長がこの刀を手に入れたと伝えられる。もとは二尺六寸の太刀だったが、信長が二尺二寸一分に磨り上げさせ、金象嵌の銘を入れさせたとされる。茎には、差裏に「織田尾張守信長」、差表に「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」の文字がある。信長の所持を、刀そのものが語る数少ない例である。
銘文をめぐる疑問
この来歴には、疑問も出されている。Wikipedia によれば、歴史学者の馬部隆弘は、通説に次の三点の疑問があると指摘している。
- 三好政長が武田信虎に贈る必然性が見いだせない
- 本能寺の変で失われたはずの刀が、豊臣氏に伝わった経緯が不明である
- 「織田尾張守信長」という銘が、永禄3年当時の信長の名乗り(上総介)と合わない
本能寺の変のあと、この刀は松尾大社の神官の手を経て豊臣秀吉に渡り、秀頼を経て徳川家康に伝わったとされる。家康は大坂の陣でこれを佩いたと伝わり、「天下取りの刀」とも呼ばれた。その後は徳川将軍家の重宝となり、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けて、再び刃を入れ直された。このとき、金象嵌の一部が溶けて金の粒になったという。
薬研藤四郎――本能寺で焼けたとされる短刀
短刀の薬研藤四郎は、鎌倉時代の粟田口吉光(藤四郎吉光)の作とされる。元亀2年正月10日に松永久秀から信長に贈られ、天正8年には津田宗及が京都で信長のもとを訪ねて見せてもらったと伝わる。本能寺の変で焼けたといわれ、『享保名物帳』でも焼失の部に載っている。ただし、信長から秀吉・秀頼を経て家康に渡ったとする別の説もあり、確かな記録はない。Wikipedia は、2018年時点で現存していないとしている。
織田信長の刀はどこで見られる?ゆかりの地と関連する人物
福岡市博物館(福岡市早良区)
へし切長谷部は福岡市博物館に収蔵されている。昭和53年(1978年)9月19日に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)が、ほかの黒田家伝来品とともに「黒田資料」として福岡市に寄贈した。福岡市美術館を経て、1990年10月に開館した福岡市博物館へ移管された。公開は毎年1月上旬から2月上旬ごろの約1か月間とされるが、年ごとの日程は福岡市博物館の公式サイトで確認する必要がある。「圧切長谷部」とも書かれる。
国の指定は、1933年に重要美術品、1936年に旧国宝、1953年3月31日に文化財保護法による国宝となった。
建勲神社(京都市北区)
建勲神社は船岡山の山腹にあり、信長を主祭神、織田信忠を合祀する。明治2年(1869年)に明治天皇が信長を祀る神社の創建を命じたのが始まりで、明治13年(1880年)に船岡山へ移った。義元左文字は、この神社の創建時に徳川将軍家から寄進されたものである。神社の重要文化財には刀「宗三左文字」があり、このほか、紺糸威胴丸や太田牛一『信長公記』も重要文化財に含まれる。公開の有無は、神社と京都国立博物館の案内を確かめたい。
関連する人物
- 黒田孝高(官兵衛)・黒田長政:へし切長谷部を伝えた黒田家の人物。長政(1568〜1623年)は、関ヶ原の戦いの功績で筑前国に入り、福岡藩の初代藩主となった。墓所は福岡市博多区の崇福寺などにある
- 今川義元:桶狭間の戦いで討たれた、義元左文字のもとの持ち主
- 豊臣秀吉・徳川家康:信長の死後、義元左文字が渡ったとされる人物
よくある質問
信長が最も大切にした刀はどれですか?
資料からは断定できない。信長の所持が銘で確かめられるのは義元左文字だが、信長がどの刀を一番大切にしたかを述べた確かな記録は、今回確かめた資料には出てこない。
へし切長谷部は本当に信長の刀だったのですか?
文化遺産オンラインは「信長所持」と説明し、『享保名物帳』には長谷部派の作品として唯一載っている。一方で、信長から黒田家に渡った経路は三つの説に分かれ、茶坊主を斬った逸話は後世の記録に基づく伝承である。
へし切長谷部と義元左文字は、見られる時期や場所が違いますか?
へし切長谷部は福岡市博物館で、例年1月上旬から2月上旬ごろに公開される。義元左文字は建勲神社が所有し、京都国立博物館に寄託されている。いずれも公開の日程は変わることがあるため、各施設の公式案内で確認したい。
薬研藤四郎は現在も残っていますか?
Wikipedia は2018年時点で現存していないとしている。本能寺の変で焼けたといわれるが、別の伝来説もあり、確かな記録はない。2017年には再現刀が作られ、建勲神社に奉納された。





