織田信長の子孫と家系図|嫡流は断絶、次男・信雄の系統が明治まで続く

結論:嫡流は断絶したが、次男・信雄の系統が大名家として明治まで続いた

織田信長の子孫のうち、嫡流は長男・信忠の子である織田秀信(三法師)の代で絶えました。秀信は関ヶ原の戦いのあとに所領を没収され、数年後に病没しています。

一方、次男・信雄の子孫は、江戸時代を通じて柏原藩・高畠藩・天童藩の藩主として大名の家柄を保ちました。三男・信孝の家は、神戸家の再興をのぞけば続いていません。つまり「信長の家」が江戸時代に生き残った主な道筋は、信雄の系統です。この記事では、すでに亡くなった当主の系譜(誰が家を継いだか)に絞って整理します。

基本情報

  • 人物:織田信長(安土桃山時代の武将)
  • 嫡男:織田信忠(弘治3年〈1557年〉生まれとされる。天正10年〈1582年〉没)
  • 次男:織田信雄(永禄元年〈1558年〉生まれ。寛永7年〈1630年〉没)
  • 三男:織田信孝(永禄元年〈1558年〉生まれ。天正11年〈1583年〉没)
  • 江戸時代に続いた系統:信雄の子孫(柏原藩、小幡藩のちの高畠藩・天童藩)
  • 藩の廃止:天童藩・柏原藩とも明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県

織田信長の家系図:当主の系譜を順にたどる

信長の子は多く、系図によって数え方が異なる

日本語版 Wikipedia の記述では、信長の息子として信忠、信雄、信孝、羽柴秀勝、津田信房(織田勝長)、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、庶長子の信正が挙がっています。娘も、蒲生氏郷の正室になった相応院、松平信康の正室になった徳姫(五徳)、前田利長の正室になった玉泉院(永姫)など、複数の名があります。ただし娘の人数や順序は系図によって異なるとされています。

嫡流:信忠から秀信へ、そして断絶

信忠は天正3年(1575年)に秋田城介に任じられ、同年11月に信長から家督と岐阜城を中心とする美濃・尾張などの領国を譲られました。天正10年(1582年)の本能寺の変では、妙覚寺から二条新御所に移って籠城し、誠仁親王を脱出させたのち、明智軍の攻撃を受けて自刃したと伝えられています。

家督は信忠の嫡男・秀信(幼名・三法師)が継ぎました。豊臣政権のもとで岐阜に約13万石を領しましたが、関ヶ原の戦いのあとに所領を没収され、数年後に病没して、嫡流は絶えました。秀信が織田弾正忠家の当主であったのは、1582年から1605年までとされます。

次男・信雄の家:大名として復活する

信雄は北畠家の養嗣子となり、本能寺の変後は尾張を領しましたが、羽柴秀吉と対立して小牧・長久手の戦いに至り、のちに単独で講和しました。小田原の役のあとには関東への転封を拒んだことで秀吉の怒りを買い、追放されています。赦免後は常真と号し、御伽衆として仕えました。

元和元年(1615年)、大坂の陣のあとに、大和国宇陀郡に3万石、上野国に2万石、合わせて約5万石を与えられました。信雄自身は京都で茶や鷹狩りを楽しみ、領地には入らなかったとされます。寛永7年(1630年)4月30日に京都の北野の屋敷で亡くなりました。

信雄の子たちと領地の分かれ方

信雄の嫡男・秀雄と次男は父に先立って亡くなり、三男の信良も寛永3年(1626年)に父より先に亡くなりました。信良は元和2年(1616年)に福島御殿に入っています。信良の死後は信雄の孫の信昌が2歳で相続し、叔父の織田高長が後見となりました。寛永7年(1630年)以降、幕府は高長にも領地を与え、これが宇陀松山藩の始まりとなりました。こうして信雄の系統は、小幡の家(のちの高畠藩・天童藩)と宇陀松山の家(のちの柏原藩)の二つの流れに分かれました。

柏原藩・小幡藩・天童藩:信雄の子孫が治めた藩

小幡藩から高畠藩、そして天童藩へ

小幡藩の織田家は2万石で、歴代は信良、信昌、信久、信就、信右、信富、信邦と続きます。信昌の代に藩庁が福島から小幡陣屋へ移され、寛永19年(1642年)に完成しました。信長の孫にあたる信良の家は、国主格の待遇を受けていました。

明和3年(1766年)に藩財政の再建をめぐって重臣間の紛争が起き、翌年の明和事件(山県大弐らが捕らえられた事件)に結びつきました。信邦は連座して蟄居となり、養嗣子の信浮は出羽の高畠藩へ移され、国主格の待遇も廃止されました。

その後、文政11年(1828年)に幕府から高畠から天童への拠点移転の許可を得た織田信美が、天保元年(1830年)に天童へ移って天童藩を立てました。石高は当初2万石で、のち1万8000石となっています。歴代藩主は信美、信学、信敏、寿重丸、信敏(再任)です。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、慶応4年(1868年)9月に降伏しました。信敏は隠居させられ、所領2000石を没収されましたが、弟の寿重丸が幼少だったため、新政府の計らいで信敏が藩知事に再任されました。

宇陀松山から柏原へ

宇陀松山の織田家(高長の系統)は、元禄8年(1695年)4月に織田信休が2万石で丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に入り、柏原藩として立ち直りました。これは、信休の父・信武が宇陀崩れと呼ばれる事件を起こしたことへの処罰として、減らされた石高で移されたものです。

再立藩後の歴代藩主は、信休、信朝、信旧、信憑、信守、信古、信貞、信敬、信民、信親の10人です。財政は苦しく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆、天保4年(1833年)には打ち壊し騒動も起きました。第8代の信敬は倹約を中心とする改革を行い、藩校・又新館を設けています。最後の藩主・信親は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年の廃藩置県で柏原県となりました。

明治以後:建勲神社

信長は新政府の計らいで神号を下賜され、明治3年(1870年)4月、天童の舞鶴山上に建勲神社が建立されることになりました。

分家・ゆかりの家とよくある誤解

柏原藩には、信長の弟の家もあった

柏原藩には、もう一つの織田家があります。慶長3年(1598年)6月、信長の弟・織田信包が、伊勢国安濃津から柏原に3万6000石で移って立藩しました。歴代は信包、信則、信勝の3代で、第3代の信勝が慶安3年(1650年)に嗣子のないまま亡くなって藩は廃されています。この家は信長の子ではなく弟の系統で、のちの信雄流の柏原藩とは別の家です。柏原藩の織田家を「信長の子孫」とひとくくりにすると、誤りになります。

信孝の家は続かなかった

信孝は、柴田勝家らに呼応して岐阜城で挙兵しましたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れたのち、羽柴秀吉に岐阜城を包囲されて降伏しました。尾張の野間にある内海大御堂寺(現・野間大坊)の安養院で、信雄の命により自害させられたと伝わります。秀吉の内意があったとも言われます。

『寛政重修諸家譜』などでは信孝に子女はないとされています。『系図纂要』には娘が一人いるとの記述がありますが、史料によって異なります。神戸家は信孝の死後にいったん断絶し、のちに神戸政房が家を復興したと伝えられています。また、信孝の末裔を名乗った家について、系図上の誤伝があったとの指摘もあり、「信孝の子孫」とする話は慎重に見る必要があります。

「信長の家」は一本の線ではない

ここまで見たとおり、信長の家は嫡流(信忠系)、信雄系の二つの藩、信孝の神戸家、弟・信包の柏原藩と、いくつもに分かれています。確かめられるのは、当主の系譜と、藩として続いた事実までです。

ゆかりの地と関連する人物

  • 大徳寺総見院(京都・紫野):信雄の遺骨が葬られた寺です。
  • 崇福寺(群馬県甘楽町小幡):信雄の遺骨の一部が分骨された寺です。
  • 室生寺(奈良県宇陀市室生):織田家の廟があります。
  • 建勲神社(天童の舞鶴山):明治3年に建立されることになった、信長を祀る神社です。
  • 野間大坊(愛知県知多郡美浜町):信孝が自害した内海大御堂寺です。
  • 関連する人物:織田信忠、織田秀信、織田信雄、織田信孝、織田信包、織田高長。

よくある質問

織田信長の直系の子孫は今も続いていますか。

嫡男・信忠の系統は、孫の秀信で絶えました。大名家として続いたのは、次男・信雄の子孫です。現代の個人については、この記事では扱いません。

織田信雄の子孫は、どの藩の藩主になりましたか。

小幡藩(のち高畠藩、天童藩)と、宇陀松山藩(のち柏原藩)です。天童藩と柏原藩はどちらも明治4年(1871年)の廃藩置県で廃されました。

柏原藩の織田家は、すべて信長の子孫ですか。

いいえ。最初の柏原藩(1598年〜1650年)は信長の弟・信包の系統で、元禄8年(1695年)に立った後の柏原藩は信雄の系統です。

信長を祀る神社はありますか。

建勲神社があります。天童藩の項には、信長が新政府の計らいで神号を下賜され、明治3年(1870年)4月に天童の舞鶴山上に建立されることになったと記されています。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。