結論:信玄は家康の「同盟相手」から「最大の敵」になり、三方ヶ原の大敗が家康を鍛えた
武田信玄と徳川家康は、1568年に今川領を分け合う約束で手を組みました。ところが遠江をめぐって1569年に手切れとなり、1572年の西上作戦で信玄が攻め込んできます。同年12月の三方ヶ原の戦いで、家康は大敗しました。
信玄は翌1573年4月、撤退の途中に53歳で亡くなります。武田氏が滅びた1582年には、家康が武田の旧臣を受け入れ、井伊直政に約120人を付けます。信玄は家康を打ち負かした相手であり、のちにその旧臣が徳川家に入る流れの源にもなった、というのがこの因縁の骨組みです。
基本情報
- 武田信玄:戦国時代の甲斐の大名。1573年(元亀4年)4月12日に死去、享年53。死去の地は信濃国駒場(長野県阿智村)とされるが、浪合や根羽とする説もある
- 徳川家康:三河・遠江を領した戦国大名で、のちに江戸幕府を開いた人物
- 両者の関係:1568年(永禄11年)に今川領の分割をめぐり同盟、1569年に手切れ、1572年に三方ヶ原で激突
- 三方ヶ原の戦い:元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)。結果は武田軍の勝利
- 兵力は史料により幅があり、武田軍2.7万〜4.3万、徳川・織田連合軍1.1万〜2.8万とされる(諸説あり)
武田信玄と徳川家康の盟約から決裂まで
今川領を分ける約束(1568年)
1568年12月、信玄が駿河へ侵攻すると、家康は遠江を切り取ることを条件に武田氏と同盟し、遠江の曳馬城を攻め落としました。大井川を境に、駿河を武田領、遠江を徳川領とする取り決めがあったとされます。信玄は同月、薩埵峠の戦いで今川軍を破り、今川館を一時占拠しています。
秋山虎繁の遠江侵攻で手切れに
協定は長続きしませんでした。翌1569年1月、武田家臣の秋山虎繁が遠江に侵攻し、家康は武田と手を切ります。家康は同年5月に掛川城の今川氏真を降して遠江を押さえ、北条氏康の協力も得て武田軍を退けました。同じ1569年5月、家康は今川氏と和睦して駿河侵攻から離脱しています。以後、徳川と武田は敵対関係に入ります。
西上作戦の開始(1572年)
信玄は1572年10月に甲府を出発し、徳川方の諸城を攻めました。10月14日の一言坂の戦いでは家康軍が敗れ、12月19日には二俣城が開城して、遠江北部は武田領になります。
三方ヶ原の戦いの経緯と家康の敗走
籠城から出撃へ
家康と織田方の佐久間信盛は、当初は浜松城で籠城することを考えていたとされます。ところが武田軍は浜松城を素通りして三方ヶ原へ向かいました。家康は方針を変え、織田の援軍とともに追撃に出ます。
なぜ出撃したのかには諸説あります。通説は信玄の挑発に乗ったというものですが、国人衆の信頼を得るためとする説、時間を稼ぐためとする説もあります。『当代記』などは、物見の兵が小競り合いを始めたため戦闘に巻き込まれたと記します。平山優氏の新説は、武田軍が堀江城を落として浜松城を兵糧攻めにする狙いがあり、家康がそれを察したためとします。
魚鱗と鶴翼、約2時間で崩れた連合軍
同日の夕方に三方ヶ原へ着くと、武田軍は魚鱗の陣で待ち構えていました。家康は鶴翼の陣で応じましたが、日没までの約2時間で連合軍は崩れ、壊走します。両軍がこの陣形をとった理由に定説はなく、兵力の見積もりや大将首を狙う意図などの説が出ています。主戦場の場所も特定されておらず、「小豆餅」「根洗」「大柴原」「大谷」の4説が並んでいます。
損害も数字に幅があります。武田軍は約200人(100〜500人とする説も)、徳川軍は約2,000人(500人〜数千人とする説も)です。家康の項目では、徳川・織田連合軍の死傷者は1,000人以上とされ、織田方の援将である平手汎秀らも戦死しました。徳川方では夏目吉信、鈴木久三郎、本多忠真、中根正照らの名が討死として挙がっています。
身代わりと空城計の逸話
家康は少数の供回りとともに浜松城へ逃げ帰りました。夏目吉信と鈴木久三郎が身代わりになったと伝えられます。城では門を開けて篝火を焚く「空城計」を行い、追撃した山県昌景の隊が突入をためらって引き上げた、という話も有名です。ただしこれは伝承とされ、家康の項目でも信憑性に疑問が示されています。
同夜には、大久保忠世らが犀ヶ崖付近で野営する武田軍に夜襲をかけたとも伝わります。崖から武田兵が落ちた、布を橋に見せかけたといった話は、同時代の史料になく江戸時代の編纂物が初出で、荒唐無稽な逸話とみられています。
しかみ像の通説と、信玄の撤退・死
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の通説はどう作られたか
徳川美術館が所蔵する絹本著色の掛軸が、顔をしかめた家康を描いた「しかみ像」です。敗戦直後の家康が慢心を戒めるために描かせ、生涯座右に置いた、という話で知られます。
ところがこの説明は、時間をかけて形づくられたものだと研究で指摘されています。1880年の目録では「長篠戦役」の図とされ、1910年の展覧会では初代義直が苦境を忘れないために描かせたと説明されました。三方ヶ原の敗戦図として狩野探幽に描かせたと紹介されたのは1936年の徳川美術館の展覧会で、家康自身が自戒のために描かせたという形になったのは1972年の図録からです。原史彦氏(2016年)は、「三方ヶ原」との結びつきは1936年以前にさかのぼれないと報告しています。
制作時期も一致しません。徳川美術館は江戸時代・17世紀頃の作とみており、文化庁の文化遺産オンラインでは桃山時代・16世紀とされています。家康没後に描かれた礼拝像とする説(藤本正行氏、松島仁氏、原氏)もあり、徳川美術館は従来の口伝に沿った解釈を長く示してきましたが、原氏は今後の位置づけや展示の在り方を検討するとしています。つまり「敗戦を忘れないために描かせた」という話は、現時点では確かな史料に裏づけられた事実とは言えません。
野田城、信玄の病、そして死
勝った武田軍は遠江で年を越しました。堀江城は攻めきれないままでした。1573年1月に東三河へ侵攻し、2月に野田城を落とします(『武田信玄』の項目では2月10日、『三方ヶ原の戦い』では2月16日と記され、日付は一致しません)。その後、喀血を繰り返し、長篠城で療養しました。近習と一門衆の合議で甲斐への撤退が決まり、4月12日に亡くなります。
病死とするのが一般的ですが、『松平記』には野田城の戦いで討死したとする異説があります。信玄の死は秘匿され、勝頼が跡を継いだとされます。
信玄の死後、家康が受け継いだもの
武田氏の滅亡と旧臣の受け入れ
家康は1573年8月に長篠城を奪還し、1575年の長篠の戦いなどを経て、武田氏は1582年の甲州征伐で滅亡しました。
同年6月の本能寺の変のあとの天正壬午の乱では、家康は武田の遺臣を相次いで味方につけました。6月4日、岡崎に戻った家康は、領内にかくまっていた武田旧臣をまず呼び出します。6月12日には、庇護を求めていた依田信蕃が旗を揚げ、約3,000の旧武田家臣が集まったと記されています。岡部正綱らが甲斐の武士に所領を保証する文書を出したことも確認できます。ただし順調ではなく、本多信俊が河尻秀隆に殺され、甲斐で一揆も起きています。
井伊直政と「赤備え」
1582年、家康は北条氏との和睦のあと、井伊直政に約120人の旧武田家臣と自分の旗本の一部を付けました。直政は装備を赤色に統一し、これは武田の赤備えを率いた山県昌景の意志を継ぐ意味があったとされます。井伊家の軍装は幕末まで赤備えが基本とされました。
直政は赤備えを率いた小牧・長久手の戦い(1584年)で勇猛さを知られ、京都の人々から「赤鬼」と呼ばれたといいます。1600年の関ヶ原の戦いでは、島津勢を追撃して足に傷を負いました。戦後は近江の佐和山(のちの彦根)に加増されています。
なお、武田の法制度や統治制度を家康が体系的に引き継いだという話は、今回確かめた資料には記述がなく、ここでは扱いません。確かめられたのは、武田の旧臣が徳川家に入り、井伊の赤備えに武田の赤備えを継ぐ意味があったとされるところまでです。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 三方ヶ原(浜松市中央区三方原町付近):合戦のあった台地。主戦場は4説あり特定されていない
- 浜松城:家康が逃げ帰った城
- 犀ヶ崖:夜襲の逸話が伝わる場所。逸話は江戸時代の編纂物が初出
- 駒場(長野県阿智村):信玄が亡くなった地とされる場所
- 徳川美術館:「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を所蔵
- 井伊直政の墓所・記念碑:彦根の清凉寺・長松院、高崎の龍広寺、浜松の龍潭寺、高野山奥之院の供養塔
関連する人物
- 夏目吉信:家康の身代わりになったと伝わる家臣
- 山県昌景:武田の武将で、空城計の逸話で家康を追撃した隊の将とされる
- 武田勝頼:信玄の死後、跡を継いだとされる
- 井伊直政:武田旧臣を付けられ、赤備えを率いた
- 依田信蕃:天正壬午の乱で、約3,000の旧武田家臣を集めた人物
よくある質問
三方ヶ原の戦いで、家康は何をして負けたのですか?
家康は浜松城での籠城を考えていたとされますが、武田軍が素通りしたため出撃し、夕方から約2時間の戦いで崩れました。出撃の理由は、信玄の挑発に乗ったという通説のほか、複数の説があります。
しかみ像は、敗戦を戒めるために家康が描かせたものですか?
そう伝えられてきましたが、研究では、三方ヶ原との結びつきが1936年以前にさかのぼれないと報告されています。家康没後の礼拝像とする説もあり、確定していません。
信玄の死因は何ですか?
野田城攻略後に持病が悪化し、撤退の途中の1573年4月12日に亡くなったとされます。死去の地は信濃国駒場とされますが、浪合や根羽とする説もあり、確定していません。『松平記』には野田城で討死したとする異説があります。
井伊の赤備えは、武田の赤備えと同じものですか?
1582年に家康が約120人の武田旧臣を井伊直政に付け、直政が装備を赤色に統一したことが始まりで、武田の赤備えを率いた山県昌景の意志を継ぐ意味があったとされます。




