【織田信長の肖像画】その魅力と謎に迫る徹底ガイド

結論:信長の「本物の顔」は一枚に決められないが、没後まもない肖像画が複数残っている

織田信長の肖像画は、日本語版Wikipediaによれば絵が23点、彫刻が5点確認されている。そのうち主なものの多くは、没後1年から2年ほどの天正11〜12年(1583〜1584年)に作られた。信長が生きているうちに描かれた肖像画は、少なくとも主な作品の中には見当たらない。

どの絵がいちばん似ているのかを、決め手になる史料で断定することはできない。教科書でおなじみの長興寺本は裃姿、神戸市立博物館本は束帯姿というように、同じ人物でも装いが違う。大徳寺本のように、表の絵が後から描き直されたと見られるものまである。

宣教師ルイス・フロイスは、信長を「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と書いている(Wikipediaによる)。髭は少なく、声はとても快調だったという。肖像画を見比べるときは、この記述も手がかりになる。

基本情報

  • 人物:織田信長(戦国時代から安土桃山時代の武将)
  • 没年:天正10年(1582年)。本能寺の変で亡くなった。
  • 確認されている肖像:肖像画23点、肖像彫刻5点(日本語版Wikipediaによる)
  • 主な肖像画:長興寺本(愛知県豊田市)、神戸市立博物館本、大徳寺本(京都市)
  • 長興寺本と神戸市立博物館本は、いずれも国の重要文化財
  • 成立の目安:長興寺本と神戸市立博物館本は天正11年(1583年)、大徳寺本は天正12年(1584年)

織田信長の肖像画はどんな種類がある?主な作品の特徴

教科書でおなじみの長興寺本(狩野元秀筆)

愛知県豊田市の長興寺に伝わる「紙本著色織田信長像」は、狩野元秀の筆で、国の重要文化財である。長興寺の項によれば、天正11年(1583年)に信長の家臣で衣城代の余語正勝が寺を再興して信長の一周忌の法要を営み、その際にこの絵が寄進された。教科書に載る信長像として知られている。

Wikipediaには、この絵が竹の紙に描かれていたことが判明したとあり、寄進の銘もあると記されている。服装は裃である。長興寺は臨済宗東福寺派の寺で、信長像のほかに涅槃図と無為昭元の肖像が重要文化財に指定されている。

束帯姿の神戸市立博物館本(古渓宗陳の賛)

神戸市立博物館が所蔵する「織田信長像」は、絹に彩色した1幅で、縦73.3cm、横36.8cm。国の重要文化財である。文化庁の文化遺産オンラインによれば、描かれた信長は畳の上に座り、右手に笏を持ち、左の脇に腰刀を帯びた束帯姿をしている。

大徳寺総見院の初代住持だった古渓宗陳(1532〜97)が賛を書いており、天正11年の夏と記されている。賛から、信長の一周忌のために作られたことが分かる。もとは信長が安土城内に建てた摠見寺に伝わった絵で、その後、織田家の子孫、個人の所蔵者、美術館を経て、現在は神戸市立博物館にある。

文化遺産オンラインは、面長の顔、大きな目、豊かな髭が信長の面影を伝えるとし、束帯の姿は神格化を表すと解説している。平成26〜27年度(2014〜2015年度)の解体修理で表面の汚れが取れ、衣に織田家の木瓜紋が見えるようになった。

描き直されたと見られる大徳寺本(狩野永徳筆)

京都市の大徳寺にある信長像は、狩野永徳の筆とされ、天正12年(1584年)5月の作である。Wikipediaによると、現在見える表の絵は、薄藍色の小袖に薄茶色の肩衣と袴を着け、脇差だけを差した地味な姿で、月代は剃られていない。

この絵では、裏側の彩色が見つかっている。裏の絵は片身替わりの派手な装いで、大小2本差しで、口髭がはね上がった雄々しい顔だったと見られている。つまり、いまの表の絵は描き直されたものとされる。なぜ描き直したのかは、ここで確かめられた資料には書かれていない。

ほかの肖像画と彫刻

Wikipediaの一覧には、ほかにも次の作品がある。

  • 京都市・報恩寺:天正16年(1588年)、裃姿。近衛前久が寄進した。
  • 京都市・本能寺:直衣姿で、髭は描かれていない。
  • 滋賀県近江八幡市・総見寺:甲冑姿。
  • 兵庫県丹波市・柏原歴史民俗資料館:束帯姿で、髭は描かれていない。

彫刻では、大徳寺総見院の木像が天正11年(1583年)5月に宮内卿法印康清の作として作られた。束帯姿である。京都市の阿弥陀寺にも束帯姿の木像がある。

なぜ肖像画が多いのに「本物」が決まらないのか:諸説と読み解き方

主な作品は没後に作られた追善の像

確かめられた主な作品の年代を並べると、長興寺本と神戸市立博物館本が天正11年(1583年)、大徳寺本が天正12年(1584年)、報恩寺本が天正16年(1588年)である。神戸市立博物館本の賛からは、一周忌のために作られたことが分かる。長興寺本も一周忌の法要で寄進された。こうした肖像画は、亡くなった人を供養し、祀るための像だった。

そのため、同じ信長を描いても、裃、束帯、直衣、甲冑と装いが変わる。神戸市立博物館本の束帯について、文化遺産オンラインは神格化を表すと説明している。装いの違いは、似せる努力の差というより、どんな姿で祀るかの違いも映していると考えられる。ただし、これは資料の解説をもとにした読み方で、すべての作品に当てはまるとは限らない。

宣教師が西洋の技法で描いたとされる肖像

山形県天童市の三宝寺には、宣教師が西洋の技法で描いたとされる信長の肖像の写真が残る。太い眉、大きく鋭い目、高い鼻、面長の輪郭、髭などが特徴とされる。ただし、Wikipediaによれば原画は現存していない。

日本の画家が描いた肖像とは顔つきの印象がかなり違うと指摘されることがあるが、原画がない以上、これをもって信長の顔を決めることはできない。

フロイスの記述と見比べる

フロイスは、信長の背丈を「中くらい」、体つきを「華奢」と記した。髭は少なく、声はとても調子がよかったという。この記述に沿えば、神戸市立博物館本の豊かな髭は、少なくともフロイスの記述とは一致しない。本能寺本や柏原歴史民俗資料館本のように髭を描かない作品もあり、髭の有無は作品ごとに違う。

肖像画だけでなく文字の記録も、書き手の立場や見た時期で印象が変わる。肖像画と記録を重ねて、一致するところと食い違うところを見ていくのが、肖像画を読むときの基本になる。

ゆかりの地と関連する人物

肖像画を所蔵する寺・施設

  • 長興寺(愛知県豊田市):狩野元秀筆の信長像を所蔵する。臨済宗東福寺派の寺。
  • 神戸市立博物館(神戸市):古渓宗陳の賛がある束帯姿の信長像を所蔵する。
  • 大徳寺(京都市):狩野永徳筆とされる信長像と、総見院の木像がある。
  • 本能寺(京都市):直衣姿の信長像がある。
  • 総見寺(滋賀県近江八幡市):甲冑姿の信長像がある。
  • 阿弥陀寺(京都市):束帯姿の木像がある。

常に公開されているとは限らない。見たいときは、各館や寺の公式な案内で、展示の時期や公開の条件を確かめるとよい。

関連する人物

  • 狩野元秀:長興寺本の筆者。
  • 狩野永徳:大徳寺本の筆者とされる絵師。
  • 古渓宗陳:神戸市立博物館本に賛を書いた僧。
  • 余語正勝:信長の家臣で、長興寺を再興し信長の一周忌の法要を営んだ。
  • ルイス・フロイス:信長の容姿を書き残した宣教師。

よくある質問

教科書に載っている信長の肖像画はどれ?

長興寺(愛知県豊田市)に伝わる、狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」がよく知られている。Wikipediaの長興寺の項に、教科書に載ると書かれている。国の重要文化財である。

信長が生きているうちに描かれた肖像画はある?

確かめた主な作品は、いずれも没後の天正11〜16年(1583〜1588年)のものだった。生前の作として確実なものは、ここで確かめた範囲では見つからなかった。

信長の背は高かった?

フロイスは「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と書いている(Wikipediaによる)。具体的な身長の数字は、ここでは確かめていないので書かない。

肖像画に描かれた髭や服装がばらばらなのはなぜ?

主な作品は一周忌などの供養のために作られ、束帯や裃など、祀り方に合わせた装いで描かれている。神戸市立博物館本の束帯は神格化を表すと、文化遺産オンラインは解説している。髭の有無も作品によって違う。

肖像画は実物を見られる?

長興寺、神戸市立博物館、大徳寺などが所蔵しているが、常設で見られるとは限らない。行く前に、所蔵先の公式な案内で公開や展示の状況を確かめるとよい。