結論:勝家の家は、養子・勝政の子である孫の勝重が旗本として継いだ筋が確かめられる
1599年(慶長4年)、徳川家康に召し出された青年がいました。柴田勝家の孫、柴田勝重です。勝家は天正11年(1583年)に北ノ庄城で自害しましたが、その家は絶えませんでした。確かめられる家の筋は、勝家の養子・勝政の子である勝重が、上野国で2000石を与えられて旗本となり、のちに武蔵国多摩郡上仙川村を治めた系統です。
一方、勝家の実子とされる勝里・勝忠については、その後の消息を公的な資料や百科事典で確かめられませんでした。勝家の血を直接ひく子の系統が続いたかどうかは、はっきりしません。この記事では、確かめられる範囲で、勝家の周りの人々の続柄と、勝重から始まる旗本家の流れを整理します。
基本情報
- 人物:柴田勝家(しばた かついえ)
- 時代:戦国時代から安土桃山時代。織田信長の重臣として知られる
- 没年:天正11年4月24日(1583年6月14日)。『寛政重修諸家譜』では4月21日(6月11日)とされる
- 享年:62とされるが、57歳説・58歳説などの異説があり、生年は確定していない
- 正室:お市の方(織田信長の妹)
- 実子とされる人物:勝里(庶子といわれる)、勝忠(末子といわれる)
- 家を残した筋:養子・勝政の子、勝重から続く旗本家
柴田勝家の家系図|実子・養子・孫の続柄と旗本家の流れ
実子・養子・娘の続柄
勝家の実子として名が挙がるのは、勝里と勝忠の二人です。勝里は庶子、勝忠は末子といわれています。ただし、二人がその後どう生きたのか、子孫を残したのかについては、確かめられる記述が見つかりませんでした。お市の方の生涯は浅井長政とお市の方|結婚から浅井三姉妹までの系譜で整理しています。
勝家には養子が多く、柴田勝春、柴田勝政、柴田勝豊、柴田勝敏、佐久間勝之の名が挙げられています。続柄は人によって異なります。勝政は佐久間盛次の三男、勝春は勝家の庶兄の子といわれ、勝敏は勝家の甥(妹の子)とも実子ともいわれます。勝豊は長浜城に置かれた養子で、羽柴秀吉に圧迫されたのち懐柔された人物です。佐久間勝之は、のちに佐々成政の養子になりました。
勝家の姉には吉田次兵衛と佐久間盛次のそれぞれの妻がおり、妹は勝敏の母とされます。佐久間盛次は姉婿であり、勝政の実父でもあります。つまり勝家の一門は、姉妹の嫁ぎ先や甥を通じて、佐久間氏などと重なり合っていました。
勝家の養子には女子もおり、高城胤則の妻になりました。『寛政重修諸家譜』ではこの女子を中村文荷斎の娘としています。中村文荷斎は、秀吉の書状に、勝家の最期で介錯をした人物として出てきます。
孫・勝重が落ち延び、2000石の旗本になるまで
勝重は天正7年(1579年)の生まれで、父は勝家の養子・勝政、母は日根野高吉の娘です。天正11年(1583年)に勝家が滅びたとき、勝重は北ノ庄城から落ち延び、外祖父の日根野高吉のもとで育てられました。
慶長4年(1599年)、勝重は徳川家康に召し出され、上野国の群馬郡・碓氷郡で2000石を与えられました。関ヶ原の戦いに供奉し、両度の大坂の陣に従軍しています。元和元年(1615年)の夏の陣では首級を二つ挙げ、武蔵国で500石を加増されました。『寛政重修諸家譜』では知行高が2520石余とされています。
勝重は寛永9年(1632年)に54歳で没し、多摩郡上仙川村の春清寺に葬られました。墓は宝篋印塔です。
上仙川村の領主として約80年、そして三河へ
勝重の知行地は武蔵国多摩郡上仙川村などで、島屋敷が陣屋でした。柴田家はこの地の領主として約80年を過ごし、元禄11年(1698年)、勝重の孫にあたる勝門の代に、領地が三河へ移されました。
勝重の家族もたどれます。正室は日根野吉時の娘で、継室は織田長政の娘と、佐久間勝之の娘です。佐久間勝之は勝家の養子だった人物ですから、旗本家になっても、勝家の一門との縁が続いていたことになります。子には勝興・勝平・勝昌らがおり、三浦信勝と行重は養子です。娘は佐久間甚九郎、奥山重次、飯高貞勝にそれぞれ嫁ぎました。
天明5年(1785年)には、当主の勝房が勝家の位牌と「先祖書」を春清寺に納めました。この先祖書は、勝淵神社に伝わる兜の埋納伝承の初出とされています。ただし、その記述には史実と異なる点が含まれると指摘されています。家に伝わる由緒書は、そのまま史実の証拠にはならないことが分かる例です。
勝家の子孫をめぐる言い伝えと、よくある誤解
「勝家の子が立花家へ逃れた」という言い伝え
青森市民図書館歴史資料室の配信によると、勝家の子孫を名乗る家には、別の言い伝えがあります。落城の直前に勝家が子の勝春を柳川(福岡県)の立花家へ落ち延びさせ、自害の前に描かせた肖像画を勝春の乳母に託した、というものです。この肖像画は代々その家で守られ、平成5年(1993年)に福井市立郷土歴史博物館へ寄託されたといいます。
ただ、この話は、勝春を勝家の庶兄の子(養子)とする説明とは続柄が食い違っています。どちらが正しいかを確かめられる史料は、今回あたった範囲では見つかりませんでした。言い伝えとして紹介するにとどめます。
「勝家の血筋は途絶えた」とも言い切れない
勝家本人が妻子とともに自害したと秀吉の書状(『毛利家文書』所収)が伝えるため、「一族はみな滅びた」と受け取られがちです。しかし、孫の勝重は落ち延びて旗本になりました。勝重は養子・勝政の子なので、勝家と血がつながっているかは別の問題ですが、少なくとも「柴田勝家の家」として江戸幕府に仕える家が残ったのは確かです。
家系図をたどるときの注意
勝家の父は柴田勝義とされますが、確実な資料はなく、子とされるのは伝承です。勝全(勝定)も、『近江仲島文書』に見える柴田勝定と同一人物と考えられていますが、諸説あります。養子と実子、甥の区別が説によって揺れるため、家系図は資料ごとに少しずつ違います。この記事では、確かめられる続柄だけを書きました。
ゆかりの地と関連する人物
- 柴田神社(福井県福井市):勝家を祀る神社で、墓所の一つでもある。北ノ庄城跡は現在の福井城の跡地にあたる
- 西光寺(福井市):菩提寺の一つ。墓の所在地は福井市左内町
- 幡岳寺(滋賀県高島市):菩提寺の一つで、位牌が現存する
- 高野山奥の院(和歌山県高野町)と桃巌寺(名古屋市千種区):いずれも墓所として挙げられる
- 春清寺(多摩郡上仙川村):孫・勝重の墓があり、当主の勝房が勝家の位牌を納めた寺
関連する人物では、再婚相手のお市の方と、その最初の夫である浅井長政がいます。勝家の人物像は柴田勝家の真実に迫る!鬼?知将?悲劇の英雄?、お市の方との縁組については徳川家康とお市の方の結婚は確認できずの記事も参考にしてください。主君の織田家の続き方は織田信雄の子孫と家系図で読めます。
よくある質問
柴田勝家の子孫は現在もいますか?
確かめられるのは、孫の勝重から始まる旗本家が、少なくとも天明5年(1785年)の当主・勝房の代まで続いていたことです。現代の子孫については、個人に関わるため、この記事では扱いません。
柴田勝家に実子はいたのですか?
勝里と勝忠が実子とされ、勝里は庶子、勝忠は末子といわれます。二人のその後は確かめられませんでした。
勝重は勝家の血を引いていますか?
勝重の父・勝政は、佐久間盛次の三男で勝家の養子とされています。そのため、勝重は勝家の孫ですが、勝家との血縁は確認できません。
旗本になった柴田家の領地はどこでしたか?
慶長4年(1599年)に上野国の群馬郡・碓氷郡で2000石を与えられ、のち武蔵国多摩郡上仙川村などが知行地となりました。元禄11年(1698年)には三河へ領地が移されています。
ほかの戦国大名の子孫も知りたいのですが?
家系図と子孫の記事は、歴史上の人物の子孫と家系図まとめで一覧にしています。






