石田三成

結論:二人の「嫌われ者」像は後世に作られた部分が大きい

石田三成は豊臣政権を実務で支えた奉行で、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600年10月1日に京都の六条河原で斬首された。明智光秀は織田信長の重臣で、1582年に本能寺で信長を討ち、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて世を去った。

どちらも後世に悪い印象で語られやすいが、Wikipediaによると、有名な逸話の中には、江戸時代の編纂物に基づくものや、史料と合わないとされるものがある。光秀は教養人、三成は兵站や検地をこなす実務家という面が確かめられる。「裏切り者」の一言では片づけられない二人である。

基本情報

石田三成

  • 生没年:永禄3年(1560年)~慶長5年10月1日(1600年11月6日)、享年41
  • 出身:近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)。幼名は佐吉
  • 立場:豊臣秀吉、のちに秀頼に仕えた。官位は従五位下・治部少輔、五奉行の一人
  • 最期:関ヶ原で敗れ、古橋村で捕らえられたのち、京都の六条河原で斬首された

明智光秀

  • 生年:不詳。1516年説、1528年説など複数があり、享年も55、67、70など諸説ある
  • 没年:天正10年6月13日(1582年7月2日)の山崎の戦いの敗走中とされる
  • 立場:足利義昭に仕えたのち織田信長の家臣となった。1575年に「惟任」の姓と従五位下日向守を与えられた
  • 主な拠点:近江の坂本城、のちに丹波一国を与えられた

石田三成と明智光秀の生涯と「裏切り者」扱いの真相

石田三成:実務で出世した奉行

三成の若いころの動向は、一次史料では追いにくいとされる。1585年には従五位下・治部少輔に叙任され、若くして出世した。

仕事ぶりで目立つのは実務である。堺奉行を務め、九州平定後は博多の復興を進めた。九州平定では大軍の兵糧・弾薬の補給を管理し、その手腕が評価されている。近江国蒲生郡や島津氏・佐竹氏の領国では検地の奉行を務めた。文禄の役では船奉行を務め、増田長盛・大谷吉継とともに軍奉行として朝鮮に派遣された。

1595年の秀次事件の後、近江佐和山19万4,000石を与えられて佐和山城主となった。佐和山は交通の要所に位置していた。秀次の旧臣を庇護し、高禄で再雇用したとされる。

明智光秀:前半生が謎に包まれた重臣

光秀は生年も出自もはっきりしない。美濃の土岐氏系明智氏の出とするのが通説だが、一次史料による裏付けはない。現在は可児郡の明智城出身とする説が有力とされる一方、近江出生説など別の説もある。朝倉義景に仕えたとされる。

その後は足利義昭に仕え、細川藤孝との関係を経て義昭の上洛に関わり、義昭の家臣から信長の家臣へ移った。1571年の比叡山焼き討ちに関与し、近江の滋賀郡を与えられて坂本城を築いた。1579年に丹波を平定し、1580年には丹波一国を与えられた。細川藤孝らが寄騎となって畿内方面軍が成り立ち、高柳光寿はこの権勢を「近畿管領」と呼んでいる。

「裏切り者」と呼べるのか

光秀は主君の信長を討ったので、「裏切り」と見る立場は分かりやすい。ただ、Wikipediaによると近代に入るまでは「逆賊」としての評価が主であり、高柳光寿は光秀を合理主義者とみている。

三成の場合は事情が違う。秀吉の死後に家康と対立し、1600年に挙兵して西軍を組織したが、仕えていた豊臣家の側に立った行動である。江戸時代には徳川家に敵対したことから、奸臣のように描かれることが多かったという。「嫌われ者」の印象は、勝った側の時代に形づくられた面が大きいと私は考える。

本能寺の変の動機の諸説と、有名な逸話の出どころ

光秀はなぜ信長を討ったのか:諸説

Wikipediaは本能寺の変の動機として、次のような説を挙げている。

  • 怨恨説:信長の苛烈な扱いへの恨みとする説。ただし、酒席の逸話は『フロイス日本史』の記述などから疑問視されており、家康饗応の料理をめぐる話は解釈が分かれる。母が磔にされたという話は創作とされる
  • 野望説:光秀が天下を狙ったとする説。高柳光寿『明智光秀』がこの説を採用している
  • 恐怖心説:佐久間信盛や林秀貞らが追放されたことから、自分も追放されるのではという不安が動機になったとする説
  • 理想相違説:光秀は室町幕府を再興し、混乱を避けて安定させようとしたとする説
  • 四国説:光秀・長宗我部元親のラインと、羽柴秀吉・三好康長のラインの対立の結果だとする説。藤田達生らが主張する
  • 将軍指令説:足利義昭の指令があったとする説。義昭の関与を示す証拠は見つかっていない
  • 朝廷説・イエズス会説:黒幕を朝廷や宣教師の組織に求める説。朝廷説は現在この説を唱える研究者はほぼいないとされ、イエズス会説は歴史学界ではほとんど顧みられていないとされる

どれも決め手はなく、定説はない。愛宕百韻の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」は謀反の意を込めたものと解釈されてきたが、信長が内容を知っていた可能性や、謀反以前の意図だったとする異論もあり、議論が続いている。

三成の有名な逸話はどこまで確かか

三成といえば、寺で茶を三杯、だんだん熱くして出し、秀吉に気に入られて召し抱えられたという「三献茶(三杯の茶)」の話が有名である。

しかしWikipediaは、この話を載せる史料が江戸時代中期の『武将感状記』(1716年成立)であると指摘する。三成の息子が記した『霊牌日鑑』では、三成は18歳のとき姫路で秀吉に仕えたとされ、話と合わない。後世の創作とみる説がある。

ほかにも、季節外れの桃を断った話、処刑前に干し柿を断った話(『明良洪範』が出典)などがある。大谷吉継との茶碗の逸話は、江戸時代の史料に確かめられないとされる。光秀についても、愛妻家で後年は側室を持たなかったという伝えや、下戸だったという逸話があるが、これらも伝承の域を出ない部分がある。逸話は楽しむ材料としては面白いが、史実とは分けて読みたい。

関ヶ原の挙兵は三成一人の決断だったのか

1600年に家康が会津征伐に向かうと、三成は挙兵し、西軍を組織した。ただし、西軍の形成は三成一人ではなく、複数の有力者の談合で進んだとする見方(布谷陽子)がある。三成が7月10日頃まで挙兵計画を周囲に明かしていなかったとする説(笠谷和比古)もあり、研究者の間でも評価が分かれている。

関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、三成は伊吹山方面へ逃れて古橋村で捕らえられた。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」と伝わる。

評価の変遷:江戸時代から現代まで

三成:奸臣から再評価へ

江戸時代の三成は、奸臣のように描かれることが多かった。その中で水戸藩主の徳川光圀は、『桃源遺事』で、三成を憎んではならず、主君のために義を立てた人物として理解すべきだと記している。近代以降は実証史学が進み、評価の見直しが進められている。

現代の長浜市・米原市・彦根市などの湖東地域では、「三成めし」や「三成タクシー」、マンホールの設置など、地域をあげた顕彰が行われている。

光秀:逆賊から文化人・内政家へ

光秀は近代以前には「逆賊」の評価が中心だった。一方で、江戸期の軍記『明智軍記』や浄瑠璃『絵本太功記』の題材にもなった。堀新は、『明智家法』について17世紀後半の制作の可能性を指摘している。

人物像としては、和歌や茶の湯、連歌に通じた文化人とされる。亀岡や福知山の城下町整備に関わったと伝えられる。『フロイス日本史』は、光秀の才知と狡猾さを記す一方、築城の手腕も評価している。

二人に共通するもの

共通点は、政権の中枢を担った有能な家臣でありながら、主君の死や政権の転換の局面で歴史の「敗者」になったことである。敗者の評価は、勝った側の時代に書かれた物語に左右されやすい。二人の評価の変遷は、その例として読める。

ゆかりの地と関連する人物

石田三成ゆかりの地

  • 石田町(滋賀県長浜市):生誕の地とされる
  • 佐和山城跡(滋賀県彦根市):三成が城主を務めた城
  • 大徳寺三玄院(京都市):遺骸が葬られたとされる。高野山奥の院には、自らの墓所も設けていたと伝わる

明智光秀ゆかりの地

  • 坂本城跡(滋賀県大津市):光秀が築いた城。落城した
  • 谷性寺(京都府亀岡市)、西教寺(滋賀県大津市)、高野山奥の院:墓所が伝わる
  • 亀岡・福知山:城下町整備に関わったと伝えられる

関連する人物

  • 豊臣秀吉:三成の主君。山崎の戦いで光秀を破った
  • 徳川家康:関ヶ原で三成と戦った
  • 織田信長:光秀の主君。本能寺で討たれた
  • 細川藤孝:光秀と関係が深く、のちに丹波平定で寄騎となった
  • 島左近:三成が召し抱えたとされる家臣(異説もある)

家の行方

光秀は山崎の戦いの後、坂本城も落城し、明智氏は断絶したとされる。娘の玉(細川ガラシャ)は細川忠興に嫁ぎ、その系統は細川家に続いた。三成には重家、重成らの子と、山田勝重室、岡重政室、津軽信枚室(辰姫)となった娘がいたとされる。

よくある質問

Q1. 明智光秀はなぜ信長を討ったのですか。

怨恨説、野望説、恐怖心説、四国説などがあるが、定説はない。有名な怨恨の逸話には、疑問視されているものや創作とされるものが含まれる。

Q2. 三成が秀吉に仕えるきっかけの「三献茶」は史実ですか。

逸話を載せる史料は江戸時代中期の『武将感状記』で、三成の息子が記した『霊牌日鑑』とは内容が合わない。後世の創作とみる説がある。

Q3. 二人とも「裏切り者」なのですか。

光秀は主君の信長を討ち、近代に入るまでは「逆賊」としての評価が主だった。三成は豊臣家の側に立って家康と戦った人物で、江戸時代に奸臣のように描かれた面が大きい。

Q4. 三成は本当に実務に優れていたのですか。

九州平定での兵糧・弾薬の補給管理、堺奉行や博多の復興、検地への参加など、実務での働きが確かめられる。補給管理の手腕は評価されている。

Q5. 光秀の子孫は今も続いていますか。

明智家そのものは山崎の戦いの後に断絶したとされる。娘の玉(細川ガラシャ)が嫁いだ細川家に血筋が続くが、「光秀の子孫」を称する家は複数あり、確証のある男系の子孫は分かっていない。