結論:尾張を統一して畿内に勢力を広げ、天下人への道を開いたが、本能寺で倒れた
織田信長は、尾張国(愛知県西部)の織田信秀の嫡男として生まれ、1565年(永禄8年)に尾張を統一した。1560年(永禄3年)に桶狭間で今川義元を討ち、1568年(永禄11年)には足利義昭を奉じて上洛し、畿内に勢力を広げた。1575年(天正3年)の長篠の戦いで武田軍に勝ち、1576年(天正4年)から安土城を築いた。
天下統一を目前にした1582年(天正10年)6月2日、家臣の明智光秀に本能寺を襲われて自害した。享年49。
ただし、「楽市楽座を始めた」「三段撃ちで武田の騎馬隊を破った」といった有名な話は、近年の研究で見直されている。この記事では、信長がしたことを時代順に整理し、確かめられている部分と見直されている部分を分けて書く。
基本情報
- 生没年:1534年(天文3年)〜1582年(天正10年)6月2日、享年49
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 立場:尾張の織田信秀の嫡男。父の死去により1552年(天文21年)に家督を継いだ
- 幼名:吉法師。1546年(天文15年)に古渡城で元服し、三郎信長と称した
- 主な出来事:尾張統一(1565年)、桶狭間の戦い(1560年)、上洛(1568年)、長篠の戦い(1575年)、安土城の築城(1576年着工)、本能寺の変(1582年)
- 死後:1582年10月9日に従一位・太政大臣を追贈され、1917年(大正6年)11月17日に正一位を追贈された
織田信長がしたこと:尾張統一から上洛、天下布武まで
尾張を統一するまで
1552年(天文21年)3月、父・信秀の死去で信長は家督を継いだ。尾張国内は一つにまとまっておらず、信長は一族や国内の勢力と戦いながら支配を固めていった。1554年(天文23年)には清洲の守護代家を滅ぼしている。弟の信勝(信行)とは稲生の戦いで争って勝ち、1558年(永禄元年)に信勝を清洲城で殺害した。
最後に残った犬山城の織田信清を下して尾張統一を達成したのは1565年(永禄8年)である。家督を継いでから、十年以上かかったことになる。
桶狭間の戦いと美濃の平定
1560年(永禄3年)5月19日、信長は桶狭間の戦いで今川義元を討った。この後、松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結んだ(清洲同盟)。
次の目標は隣国の美濃だった。1567年(永禄10年)に稲葉山城の戦いで斎藤龍興を破って美濃を平定し、井ノ口の地名を「岐阜」に改めた(『信長公記』)。
足利義昭を奉じた上洛
1568年(永禄11年)9月7日、信長は足利義昭を奉じて上洛を始めた。同年10月18日に義昭は将軍に就任する。翌1569年(永禄12年)1月5日に三好勢が義昭の仮御所・本圀寺を襲った本圀寺の変では、信長は豪雪の中をわずか2日で救援に駆けつけた。
「天下布武」の印は全国統一の宣言だったのか
信長は1567年(永禄10年)11月から、「天下布武」の朱印を使い始めた。「天下を武力で統一する」宣言のように語られることが多い。しかし、ここでいう「天下」は全国ではなく五畿内を指すとみられ、室町幕府の再興への意志を込めたものとされる。
全国統一の宣言という読み方は、のちの結果から逆算した面がある。信長が当初から日本全土を見据えていたかどうかは、印の文字だけでは決められない。
楽市楽座・鉄砲・安土城:経済と軍事の「革新」を見直す
楽市楽座は信長の発明ではない
信長といえば楽市楽座が有名だが、確かめられる範囲では、「楽市」の語が史料に最も古く見えるのは、1549年(天文18年)に近江の六角氏が石寺新市に出した楽市令である。今川氏真(1566年、富士大宮)、徳川家康(1570年、小山新市)、後北条氏(1578年以降)も、それぞれ楽市令を出している。
信長の例としては、1567年(永禄10年)10月の美濃・加納宛の制札がある。往還の自由や、借銭・借米・地子・諸役の免除を定めた。「楽市楽座」の文言が初めて使われたのは、1568年(永禄11年)9月の加納宛の制札である。
また、1577年(天正5年)6月の安土山下町中宛の掟書には、「楽座」の文言がない。諸座・諸役・諸公事の免除のほか、徳政の免除などが定められ、旅人に安土での宿泊を求める規定や、馬の売買を安土に集める規定もあった。また、「楽座」を座の廃止ではなく、商人の座役の免除を意味するものとみる研究者もいる。
関所の撤廃と道路の整備
関所については、信長は不要な関所を撤廃して、流通と都市の振興を図ったとされる。他の戦国大名に例のない施策といわれる。道路の整備も進め、1574年(天正2年)末から坂井利貞ら4人の奉行が担当し、翌年も続けられた。
貨幣では撰銭令を出し、良貨と悪貨の価値の比率を定めた。すべての銭に比率を決めた点が特徴で、金銀についての規定は江戸時代の三貨制度につながると評価される。一方で米での取引が増えてしまい、期待した効果は出なかったとされる。
鉄砲の集中運用と長篠の戦い
信長は鉄砲を多く使い、諸将から鉄砲を出させて旗本衆の鉄砲部隊を強化した。1か所に集中して運用できたことが特徴とされる。
長篠の戦いは1575年(天正3年)5月21日、三河の設楽原で起きた。織田・徳川連合軍が武田軍に勝利している。『信長公記』によると、織田軍は各部将から鉄砲を集め、約1,000人の鉄砲隊を臨時に編成した。「3,000挺」という数は江戸時代の『甫庵信長記』に由来するもので、多すぎるとみられている。
有名な「三段撃ち」についても、『信長公記』に具体的な戦法の記述はない。江戸時代の通俗小説から広まり、明治期の教科書を通じて定着したとされ、実在を疑う見方が強い。長篠で確かなのは、小川や連吾川を堀に見立て、斜面を削り、三重の土塁に馬防柵を設けて鉄砲隊を守る陣地をつくったことである。当時の日本の野戦としては異例の築城だった。
兵力は史料によって大きく違う。通説では織田・徳川連合軍が3万8,000人、武田軍が1万5,000人だが、『信長公記』は武田軍を1万1,000人としており、数字は定まらない。武田側は内藤昌秀、山県昌景、馬場信春ら重臣を含む多くの将を失った。
安土城:権威を見せる城
安土城は、近江国の安土山(現在の滋賀県近江八幡市)に築かれた。1576年(天正4年)1月に築城を決めて着工し、丹羽長秀が全体を指揮した。天守は1579年(天正7年)5月に完成し、信長が移り住んだ。五重六階地下一階で高さ約32メートル、石垣の上に建つ天守としては最初の城とされる。
防御の仕掛けは少なく、戦うためよりも政治のための城だったと考えられている。城内には総見寺という寺もあった。1582年(天正10年)正月には、城内を見学させて1人100文の礼銭を取ったという話もある。
本能寺の変のあと、天守と本丸は焼失した。原因は分かっておらず、明智軍の退却兵、織田信雄の軍勢、城下の火事の延焼、略奪者、落雷など複数の説がある。安土城跡は1952年(昭和27年)に特別史跡に指定されている。
石山合戦・比叡山焼き討ち・本能寺の変:信長の戦いと最期
石山合戦と比叡山焼き討ち
1570年(元亀元年)、石山本願寺が挙兵し、信長との長い戦いが始まった。1576年(天正4年)5月7日には天王寺砦の戦いがあり、1580年(天正8年)閏3月7日に勅命による講和が成立した。本願寺の教如は同年8月に大坂を退去した。
1571年(元亀2年)9月には、敵対していた比叡山延暦寺を焼き討ちにした。ただし、信長が仏教そのものを否定していたわけではない。信長を「無神論者」とみる見方について、神田千里は、寺社への戦勝祈願を多数行っていたことから、その信憑性は乏しいとしている。
家臣のあつかいと人材登用
信長は身分を問わず人を取り立てたといわれるが、実態は単純ではない。光秀や細川藤孝などの例外を除くと、尾張出身の譜代の家臣を重く用いた。1578年(天正6年)8月には、相撲大会で成績のよかった14名を100石で召し抱えている。
一方、1580年(天正8年)には重臣の佐久間信盛・信栄の父子を追放した。一般には無能な家臣の切り捨てと説明されるが、神田千里は、名誉回復の機会があったことなどから、冷酷とは言えないとしている。松永久秀(1577年に謀反)、荒木村重(1578年に離反)、明智光秀など、外様の家臣は後に信長にそむいた。安土城を築いてからは、重臣と正月の儀礼を行った回数が少なく、合議の機関もなかったため、家臣団を安定させる手立ては十分でなかったと指摘されている。
本能寺の変:1582年6月2日
1582年(天正10年)5月、備中高松城を囲む羽柴秀吉から、毛利軍が近づいたという知らせと援軍の要請があった。信長は5月29日に安土から上洛して本能寺に泊まり、6月1日には公卿・僧侶ら約40名を招いて本能寺で茶会を開いた。
6月2日の未明、明智光秀の軍が本能寺を襲った。光秀軍は約13,000人というのが主な説で、信長の側は小姓や近習など、20〜30人から150〜160人まで史料によって幅がある。信長は肘に傷を負って奥へ退き、燃える建物の中で自害したとされる。嫡男の信忠も二条御新造に移って戦ったが、火を放たれ、自害した。
信長の遺体は発見されなかった。光秀が謀反に及んだ理由についても、確定した説はない。恨みによるとする説、権力への野心とする説、朝廷が関わったとする説、秀吉との対抗関係とする説などがあるが、こうした説の元になった逸話の多くは、江戸時代以降の軍記物などに基づくもので、信憑性に問題があるとされる。
6月13日、山崎の戦いで秀吉が光秀を破り、光秀は命を落とした。この後、秀吉が台頭していく。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 本能寺:最期の地。信長の墓所・供養塔のあるところの一つ
- 大徳寺総見院:1582年10月15日、秀吉の主導で信長の葬儀が大徳寺で行われた。総見院は信長の墓所の一つ
- 阿弥陀寺、妙心寺玉鳳院:信長の墓所・供養塔がある寺
- 安土城跡(滋賀県近江八幡市):特別史跡。石垣などの一部の遺構のほか、仁王門と三重塔が摠見寺の境内に残る
- 建勲神社:明治時代に神号「建勲」を与えられて建てられた、信長を祀る神社
遺体が見つからなかったため、信長の衣冠墓や供養塔は21か所に作られた。
関連する人物
- 織田信秀:父。1552年に死去した
- 今川義元:桶狭間の戦いで討たれた駿河の大名
- 足利義昭:信長に奉じられて将軍になった
- 徳川家康:桶狭間のあとに同盟を結んだ
- 武田勝頼:長篠の戦いの相手
- 明智光秀:本能寺の変を起こした家臣
- 羽柴(豊臣)秀吉:山崎の戦いで光秀を破った家臣
よくある質問
織田信長がしたことを一言でいうと?
尾張を統一し、桶狭間や長篠などの戦いに勝って畿内を支配し、安土城を築いて天下統一の目前まで進んだ武将である。本能寺の変で、1582年に49歳で亡くなった。
楽市楽座は信長が始めたのですか?
いいえ。「楽市」の語が史料に最初に見えるのは、1549年に近江の六角氏が出した楽市令である。今川氏や徳川氏、後北条氏も楽市令を出している。信長は1567年から美濃の加納などに制札を出した。
長篠の戦いの「三段撃ち」は本当にあったのですか?
『信長公記』に具体的な戦法の記述はなく、江戸時代の通俗小説から広まった話とされる。実在を疑う見方が強い。確かなのは、織田軍が約1,000人の鉄砲隊を編成し、馬防柵と土塁で陣地をつくったことである。
信長の遺体はどこにあるのですか?
遺体は発見されていない。そのため、本能寺、阿弥陀寺、大徳寺総見院など、21か所に衣冠墓や供養塔がつくられた。
本能寺の変の原因は分かっているのですか?
光秀の動機を明確に示す史料は残っておらず、確定した説はない。恨み、野心、朝廷の関与、秀吉との対抗関係などの説があるが、元になった逸話の多くは後の時代の史料に出てくる。






