結論:豊臣秀吉の血液型はわかっていない
豊臣秀吉の血液型を記した史料は、確かめられた範囲では見つかっていません。秀吉が亡くなったのは慶長3年(1598年)で、ABO式血液型が見つかったのは1900年です。秀吉本人も周囲の人も、血液型という考え方を知りようがありませんでした。
ネットで見かける「O型説」「B型説」は、史料や検査の結果ではなく、人柄のイメージから当てはめたものです。血液型と性格に関係があるとは、科学的には考えられていません。この記事では、血液型の発見の経緯、秀吉の遺体をめぐる記録、そして「人たらし」と評される人柄の伝わり方を順に見ていきます。
基本情報
- 生没年:天文6年(1537年)説が有力。慶長3年8月18日(1598年9月18日)没、享年62(満61歳)
- 時代:安土桃山時代
- 立場:織田信長に仕えたのち天下人となる。関白、のちに太閤
- 出自:百姓の出とする通俗的な見方があるが、歴史学では確定的に示せていない
- 血液型:不明(記した史料は確認できない)
- 没後:朝廷から「豊国大明神」の神号を贈られ、神として祀られた
豊臣秀吉の血液型は何型?史料と科学から確かめる
血液型の発見は1900年、秀吉の没後300年以上あと
ABO式血液型を見つけたのは、ウィーン大学の病理学者カール・ラントシュタイナーです。1900年に、健康な22人(本人を含む)の血液を使って、ある人の血清が別の人の赤血球を凝集させる場合とさせない場合があることを調べました。論文は1901年11月に発表され、人の血液をA・B・C(のちのO型)の3群に分けています。4つ目のAB型は、翌1902年にデカステロとシュトゥルリが報告しました。ラントシュタイナーは1930年にノーベル生理学・医学賞を受けています。
つまり、豊臣秀吉が生きた時代はもちろん、江戸時代の人々にとっても、血液型は存在しない概念でした。書状、記録、後世の伝記のどこを探しても、秀吉の血液型が出てこないのは当然です。
「秀吉はO型」「B型」はどこから来たのか
では、なぜ型を名指しする話が出回るのでしょうか。理由は、確かめられる証拠ではなく、人物像からの連想にあります。社交的で行動力がある、という秀吉のイメージを、世間でいわれる「B型らしさ」「O型らしさ」に重ねているだけです。同じ理屈なら、どの武将にも好きな型を割り当てられます。検証できない以上、これは遊びの話であって、史実ではありません。
血液型を調べるには何が必要か
血液型は、血清を使う検査のほか、遺伝子から判定する方法もあります。ABO式を決める遺伝子は第9染色体にあり、A型・B型の遺伝子と、途中で働きが止まるO型の遺伝子の違いで型が決まります。ただ、確かめたページには、秀吉の遺体や遺骨をこうした方法で調べたという記録は見当たりませんでした。調べるには、まず「本人のものだ」と確かめられる試料が前提になります。
秀吉の遺体はどうなったのか:豊国廟と「血液型を調べられない」理由
死去から埋葬、神になるまで
秀吉は慶長3年4月末ごろから病に倒れ、8月18日に伏見城で亡くなりました。死因は脳梅毒、大腸癌、痢病、尿毒症、脚気など諸説あり、定かではありません。遺体はしばらく伏見城に置かれ、のちに阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られました。朝廷から「豊国大明神」の神号が与えられました。神として祀られたため、葬儀は行われませんでした。
墓の修理で見つかった遺体の記録
豊国廟(京都市東山区)の記述によると、墓の修理の際に、直径約1mの素焼きの壺の中から、座った姿勢で手足を組んだミイラ状の遺体が見つかったとされます。ただし、運び出すときに傷み、すでに風化が進んでいたため崩れてしまい、拾い集めた遺骸は絹に包んで桐の箱に納め、再び埋葬されました。それ以前に墓が盗掘されていた可能性も指摘されています。
この記録からわかるのは、「遺骨の記録がまったくない」わけではないものの、崩れた破片が埋め戻されているということです。血液型の判定に使える形で試料が残っているのかは、確かめたページからは判断できません。
墓所は一つではない
秀吉の墓所とされる場所は、豊国神社(京都市東山区)のほか、不動院(広島市東区)、高野山奥の院(和歌山県)、国泰寺(広島市西区)などが挙げられています。場所が複数あることは、それぞれに由来があるということで、どれかが本人の遺体の埋葬地だと並べて示せる話ではありません。
血液型で秀吉を語る前に:人物像と「血液型と性格」説の歴史
「人たらし」と評された人柄
秀吉は人の心をつかむのがうまく、「人たらし」と称されます。島津義久に自分の刀を与えた話など、度量の大きさを示す逸話が伝わります。一方で、世間の評判を気にし、狭量で冷酷な面もあったとされます。ひとつの型に収まる単純な人物ではなく、血液型の「らしさ」で説明するには材料が偏ります。
トリビア:猿顔と六本指の記録
「猿」と呼ばれたことは広く知られますが、猿顔だったと確認できる史料はなく、猿顔のイメージは死後に形づくられた可能性が高いとされています。また、『国祖遺言』、姜沆の『看羊録』、フロイスの記録などに、右手の指が6本あったという記述があります。血液型は記録がないのに、身体の特徴は同時代の記録に残っているのです。もっとも、どこまでが事実かは史料ごとに見る必要があります。
血液型と性格の説は、いつ日本に広まったか
日本で血液型と性格を本格的に論じた人物として知られるのは古川竹二で、1927年に論文「血液型による気質の研究」を発表しました。しかし1933年に法医学会が、血液型と気質の一致は心理学的な錯覚だとして強い疑問を示し、医学界では古川の学説は否定されました。
それでも、1970年代から2000年代初めにかけて、科学的な根拠のない血液型の性格分類がテレビや書籍で広まりました。この考え方が広まったのは主に日本、韓国、台湾です。性格による血液型の決めつけが「ブラハラ」として社会問題になり、採用の応募書類から血液型の欄を外すよう指導された企業もありました。2014年に日米の1万人近くを調べた研究では、有意な関係は見つかっていません。
つまり「秀吉はB型っぽい」という楽しみ方は、現代の私たちの文化の話であり、秀吉の実像を知る手がかりにはなりません。
ゆかりの地と関連する人物
- 豊国廟(京都市東山区・阿弥陀ヶ峰山頂):秀吉の墓所。工事報告では563段とされる石段を上った先にあり、1897〜98年に山頂へ大きな五輪塔が建てられた
- 豊国神社(京都市東山区):明治に別格官幣社となり、1880年に方広寺大仏殿の跡地に社殿が完成した神社
- 不動院(広島市東区)、高野山奥の院(和歌山県)、国泰寺(広島市西区):墓所として挙げられている場所
- ラントシュタイナー:ABO式血液型を見つけたオーストリアの病理学者
- 島津義久:秀吉が佩刀を与えた逸話で知られる大名
よくある質問
Q1. 豊臣秀吉の血液型は何型ですか?
わかっていません。血液型が発見されたのは1900年で、秀吉の血液型を記した史料や、遺体を調べた結果は、確かめた範囲では見当たりません。
Q2. 秀吉の遺骨は残っているのですか?
豊国廟の記述では、墓の修理の際にミイラ状の遺体が見つかりましたが、風化のため崩れ、拾い集めた遺骸は桐の箱に納めて再び埋葬されたとされます。墓所とされる場所は他にもあります。
Q3. 「秀吉はO型・B型」という情報は誤りですか?
断定する根拠がないので、事実としては扱えません。人柄から連想した話と考えるのが妥当です。
Q4. 血液型で性格は決まりますか?
科学的には、血液型と性格の関連は認められていません。2014年に日米の1万人近くを調べた研究でも、有意な関係は見つかりませんでした。






