徳川家康とお市の方の結婚は確認できず。お市の夫は浅井長政と柴田勝家

結論:家康とお市の方が結婚した記録は確かめられない

徳川家康とお市の方が夫婦になったという事実は、確かめられなかった。お市の方の日本語版Wikipediaには、家康との縁組を述べた記述がない。お市が嫁いだと書かれているのは、浅井長政と柴田勝家の二人である。

家康の側の記録でも、正室は築山殿、継室は豊臣秀吉の妹の朝日姫と整理されていて、お市の名は見当たらなかった。この縁組は、史料に基づく話ではなく、「もしも」の想像として語られてきたものと考えるのが妥当である。

題名にある安部龍太郎の小説については、この縁組を描いた作品かどうかを、確かめられる資料で見つけられなかった。そのため本記事は、小説の中身には立ち入らず、二人の実際の婚姻の記録を並べて「幻」の中身を確かめる。

基本情報

  • お市の方:織田信長の妹とされる(従姉妹とする説もある)。生年は1547年(天文16年)とされるが、37歳で亡くなったことからの逆算で、別の説もある
  • お市の最初の結婚:浅井長政との結婚。時期は1567〜1568年ごろとされる
  • お市の再婚:1582年、柴田勝家と結婚。翌1583年(天正11年)、北ノ庄城で亡くなった
  • 徳川家康:1542年(天文11年)に三河で生まれた。正室は築山殿、継室は朝日姫
  • 時代:戦国時代〜安土桃山時代
  • 型の要点:家康とお市の結婚を示す記述は、確かめた資料にない

家康とお市の方の結婚は史実か?二人の婚姻の記録

お市の方が嫁いだのは浅井長政と柴田勝家

お市の方の最初の夫は、北近江の浅井長政である。織田家と浅井家を結ぶ政略結婚だったが、夫婦仲は良かったようだとWikipediaは述べる。二人の間には、のちに茶々(淀殿)、初、江(ごう)となる三人の娘が生まれた。

1573年、信長の攻撃で小谷城が落ち、長政は父の久政とともに自害した。お市と娘たちは救い出され、織田家に引き取られた。

信長の死後の1582年、お市は柴田勝家と再婚した。勝家の側のWikipediaは、この結婚が清洲会議の場で、他の諸将の了承のもとに決まったと記す。仲介は織田信孝とされてきたが、勝家が堀秀政に宛てた同年10月6日付の書状から、羽柴秀吉が勝家と連携して動いていたとする見方も示されている。

ここに家康の名は出てこない。お市の再婚相手の決まり方を追うかぎり、家康が候補だったことを示す記述はない。

家康の結婚は築山殿と朝日姫

家康の正室は築山殿で、1556年か1557年に結婚したとされる。築山殿は、のちに嫡男の松平信康をめぐる事件に関わり、命を落としたと伝えられる。ただしこの経緯には疑問も出されていて、別の説もある。

築山殿の後、家康の継室になったのが朝日姫である。秀吉の妹で、秀吉が縁組を申し出たのは1586年4月23日、家康が受け入れたのは同年5月14日と記されている。この結婚で、家康と秀吉は義理の兄弟になった。朝日姫は1590年(天正18年)1月14日に聚楽第で病死したと記されている。

家康の側室は、同じ項目に20人の名が挙げられている。そこにも、お市の名は確かめられなかった。

家康と信長の関係は婚姻ではなく同盟

家康と信長は、1562年(永禄5年)に会見して同盟を確かめた(清洲同盟)。Wikipediaの概要欄はこの年を同盟の年とするが、本文は今川家との手切れと信長との同盟を1561年(永禄4年)に置いていて、記事の中で年に揺れがある。この点は資料がはっきり決めていない。

いずれにせよ、この同盟を支えたのは、確かめた範囲では家康自身の決断と信長との会見であり、お市の婚姻とは書かれていない。

「幻の縁組」はなぜ語られるのか──小説と諸説の扱い

安部龍太郎と小説について確かめられたこと

安部龍太郎は1955年生まれの作家で、2013年に『等伯』で直木三十五賞を受けた。Wikipediaは、主な作品として「家康」シリーズ、『信長燃ゆ』、『おんなの城』などを挙げる。

ただし、このページには、家康とお市の結婚を描いた作品という説明は確認できなかった。作品の内容を知りたい人は、出版社の紹介や本文に当たってほしい。

お市の方が物語になりやすい理由

お市の方は、小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲームなど多くの作品に描かれてきた人物である。信長の妹で、浅井長政の妻となり、小谷城の落城を生き延びて勝家に嫁ぎ、最後は北ノ庄城で夫とともに亡くなった。この経歴は劇的で、「別の人に嫁いでいたら」という想像を誘いやすい。

一方でWikipediaは、金ヶ崎の撤退の際に小豆の袋で信長に危機を知らせたという有名な逸話は、後世の創作と考えられていると記す。お市にまつわる話には、創作が混ざりやすいことが分かる。

縁組が成り立たない時間の流れ

時間の流れを並べると、家康との縁組が入る余地は小さい。以下は、確かめた資料の年に基づく整理である。

  • 1567〜1568年ごろ:お市が浅井長政に嫁ぐ
  • 1573年:小谷城が落ち、お市は織田家に引き取られる
  • 1582年:信長の死後、お市が柴田勝家と再婚する
  • 1583年:賤ヶ岳の戦いの後、お市が勝家とともに北ノ庄城で亡くなる
  • 1586年:家康が秀吉の妹・朝日姫を継室に迎える

お市が織田家に戻った1573年から再婚する1582年までの間に、縁談があったかどうかを述べる資料は、確かめた範囲になかった。「なかった」と断言することもできないが、「あった」と書ける根拠もない。私は、記録のない縁談を事実として語るのは避けるべきだと考える。

ゆかりの地と関連する人物

  • 西光寺(福井市):お市の方の墓所があると、お市の方のWikipediaは記す。柴田勝家の墓所の一つにも西光寺と柴田神社(福井市)が挙げられている
  • 北ノ庄城跡:1583年、勝家とお市が最期を迎えた城
  • 小谷城:1573年に落城した浅井氏の城
  • 浅井長政:お市の最初の夫。三人の娘をもうけた
  • 柴田勝家:お市の再婚相手。清洲会議の場で結婚が決まった
  • 朝日姫:1586年に家康の継室となった、秀吉の妹
  • 茶々・初・江:お市と長政の三人の娘

よくある質問

徳川家康とお市の方は結婚したのですか?

結婚したと確かめられる資料はありません。お市の方が嫁いだのは浅井長政と柴田勝家で、家康の正室は築山殿、継室は朝日姫と記されています。

お市の方の再婚相手は、どのように決まりましたか?

信長の死後の1582年、清洲会議の場で柴田勝家との結婚が決まったとされます。仲介は織田信孝とされてきましたが、秀吉が勝家と連携して動いたことをうかがわせる書状もあります。

家康が最後に迎えた継室は誰ですか?

豊臣秀吉の妹の朝日姫です。1586年に秀吉が申し出て、家康が受け入れました。朝日姫は1590年に亡くなっています。

安部龍太郎の小説にこの縁組は出てきますか?

確かめられた資料からは、出てくる作品を特定できませんでした。作品の内容は、出版社の紹介や本文でご確認ください。

お市の方の最期は?

1583年の賤ヶ岳の戦いの後、北ノ庄城が秀吉軍に囲まれ、お市は勝家とともに亡くなりました。三人の娘は秀吉の保護に託されたとされます。