田沼意次

結論:意次本人が暗殺された記録は確認できない。死は処分を受けた後の江戸での最期だった

田沼意次は天明8年7月24日(1788年8月25日)、江戸で亡くなりました。享年は70とされています。老中を辞めさせられ、加増分の没収、蟄居、さらなる減封と、処分が続いたあとの死です。

日本語版Wikipediaの田沼意次の項目には、病名の記載も、意次自身が暗殺された、あるいは毒殺されたという記述もありません。つまり、死因は「確かめられた資料からは分からない」というのが正確な答えです。

「暗殺」という言葉がこの人物につきまとうのには理由があります。暗殺されたのは、息子の田沼意知です。さらに、将軍・徳川家治の死をめぐっては、意次が毒を盛ったという噂が当時広まりました。この記事では、この二つの「暗殺」と、意次本人の最期を切り分けて見ていきます。

基本情報

  • 生没年:享保4年7月27日(1719年9月11日)〜天明8年7月24日(1788年8月25日)、享年70
  • 時代:江戸時代中期
  • 立場:老中。遠江国の相良藩主(英語版Wikipediaでは1767年から1786年まで)
  • 死去した場所:江戸
  • 死因:確かめられた資料に記載なし。意次本人の暗殺・毒殺を示す記述も確認できない
  • 墓所:東京都豊島区駒込の万年山勝林寺
  • 戒名:隆興院殿耆山良英大居士

田沼意次の死因は暗殺?最期の経緯を時系列で確かめる

最期までの流れ:息子の死、将軍の死、老中罷免

意次の権勢が揺らぎ始めたのは、天明4年(1784年)3月24日です。若年寄だった長男の田沼意知が、江戸城内で新番士の佐野政言に斬りつけられました。傷は肩と股が深く、治療のかなわないまま、意知は4月2日未明に亡くなっています。この事件を境に意次の権勢は衰え始めたとされ、意知の死から2年半後に意次は失脚します。

次の転機は天明6年(1786年)です。将軍・徳川家治が亡くなりました。家治の死は公表までに日数がかかり、その間の8月27日に、意次は老中を罷免されて雁間詰に降格されています。反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされています。

処分の連続:加増分の没収から蟄居へ

処分はこれで終わりませんでした。閏10月5日には、加増分の2万石の没収、大坂蔵屋敷の財産の没収、江戸屋敷の明け渡し、謹慎が命じられます。12月27日に謹慎は解かれましたが、翌天明7年(1787年)5月に天明の打ちこわしが起こると、これを機に旧田沼派の重臣が幕閣から一掃されました。意次は蟄居を命じられ、再び減封を受けています。

居城だった相良城は打ち壊され、城内の備蓄金のうち1万3千両と、塩・味噌が没収されました。意次が亡くなったのは、この蟄居などの処分を受けた後です。

亡くなったときの記録:分かっていること、分かっていないこと

分かっているのは、没年月日、場所(江戸)、享年、戒名、墓所です。一方で、病名、最期の数日の様子、葬儀の様子は、私が確かめたWikipediaの田沼意次の項目には書かれていません。英語版Wikipediaにも死因の記載はありません。

ここから先を「脚気だった」「毒を盛られた」などと言い切ることは、確かめられた資料の範囲を超えます。この記事では、書かれていないことは書かないことにします。

暗殺説はどこから来たのか:意知の殺害と家治の死をめぐる噂

暗殺されたのは息子の意知

意知が襲われたのは、天明4年3月24日の正午頃でした。江戸城内の若年寄部屋から中之間へ向かう途中、桔梗の間に控えていた佐野政言に声をかけられ、斬りつけられたと記されています。英語版Wikipediaは、この事件を意次の目の前で起きたものとして伝え、幕府の要人の関与が疑われたものの、罰せられたのは実行した本人だけだったとしています。

意知の項目によれば、世間は佐野を賞賛し、意知には冷たい態度を示しました。葬儀では町火消の人足が石や馬沓を投げたとされ、意知を嘲る落書も広まったといいます。田沼政治への批判が高まる中で、松平定信ら反田沼派が台頭しました。「田沼の暗殺」という印象は、この事件が元になっていると考えられます。

家治の死と「意次が毒を盛った」という噂

もう一つは、将軍・家治の死をめぐる噂です。徳川家治の項目によると、天明6年8月15日に主治医が河野仙寿院から大八木伝庵に代わり、8月16日には意次が推薦した若林敬順と日向陶庵の治療を、家治が受け入れました。二人は8月19日に奥医師に昇格しましたが、同じ日に病状が悪化し、8月20日には再び大八木が調薬しています。

この経過から、意次が毒を盛ったという噂が広まりました。『翁草』は、大奥の女中が意次を激しく非難したと記しています。『天明巷説』は、家治の死後に痙攣や吐血があったと書いています。ただし、家治の死因は脚気衝心と推定されていて、『徳川実紀』には「水腫」と「感冒」とあります。竹内誠は、心臓または腎臓が衰弱し、風邪でこじれたと推定しています。家治の項目は、暗殺の可能性は否定できないとも書いていますが、これは家治に関する話で、意次の死因ではありません。

家治の死の日付と意次の辞任の関係

家治の死去日は、本文では天明6年8月25日(1786年9月17日)とされていますが、『徳川実紀』の忌日は9月8日で、『翁草』は8月20日と記すなど、史料によって異なります。意次は8月22日に病気を理由に屋敷に籠り、26日に老中辞任を願い出て、27日に罷免されました。竹内誠は、家治が存命なら信任する意次の辞任を認めなかったはずだとして、この時点で家治はすでに亡くなっていたのではないかと推測しています。

意次の最期のあと:田沼家と相良に残ったもの

家督を継いだ孫の意明

長男の意知はすでに殺害され、ほかの息子たちは養子に出されていました。そのため、孫の龍助(田沼意明)が陸奥下村1万石に減転封されたうえで、かろうじて家督を継ぐことを許されました。

相良領のその後と田沼家の復帰

相良領は幕府領になりました。系譜の記載では、意次の四男である田沼意正が1823年に相良藩主に再び就き、1836年までつとめています。意正は水野忠友の養子になっていましたが、1786年に義絶されて田沼家に戻された人物です。その後は田沼意留(1836〜1840年)、田沼意尊と続き、上総国小久保藩への転封を経て廃藩になったと記されています。

失脚前後の評判

失脚前から悪評があり、賄賂政治を皮肉る狂歌が詠まれたとされています。一方で、寛政の改革の後には、田沼時代を懐かしむ落首が流行したと紹介されています。英語版Wikipediaは、意次を天明期の経済政策で知られる一方、腐敗の面でも知られる人物とし、1783年から1787年の凶作に伴う飢饉と打ちこわしの後、改革や鎖国の緩和は阻まれたと説明しています。

幕臣の川路聖謨は、意次が登用した石谷清昌を評価し、意次にも「正直な豪傑の心」があったのだろうと述べたと伝えられています。評価は一方向に定まらない人物です。

ゆかりの地と関連する人物

勝林寺(東京都豊島区駒込)

意次の墓所は、豊島区駒込の万年山勝林寺です。戒名は隆興院殿耆山良英大居士とされています。

相良城跡と牧之原市

相良城は、明和5年頃に築城が始まり、安永9年(1780年)に完成しました。完成までに約11年かかっています。縄張りは北条流軍学者の須藤治郎兵衛が担い、三重櫓の天守が築かれ、普請は家老の井上伊織に任されました。藩政では、街道や相良港の整備、瓦葺の奨励、養蚕や製塩の振興を行ったとされます。現在の牧之原市では郷土の偉人として扱われ、相良中学校の校章は田沼家の七曜紋をモチーフにしているとされています。

関連する人物

  • 田沼意知:意次の長男。若年寄。天明4年に江戸城内で佐野政言に斬られ、4月2日に死去、享年36
  • 佐野政言:意知を斬った新番士
  • 徳川家治:意次を取り立てた将軍。天明6年に死去
  • 松平定信:意知の死後に台頭した反田沼派の一人
  • 田沼意明:孫。下村1万石で家督を継いだ
  • 田沼意正:四男。1823年に相良藩主となった

よくある質問

田沼意次は暗殺されたのですか?

確かめた資料には、意次本人が暗殺されたという記述はありません。暗殺されたのは長男の意知で、天明4年に江戸城内で佐野政言に斬られ、4月2日に亡くなりました。

田沼意次の死因は何ですか?

日本語版・英語版のWikipediaには病名の記載がなく、確かめられた資料からは分かりません。天明8年7月24日(1788年8月25日)に江戸で、享年70で亡くなったことまでが確認できます。

意次が将軍家治に毒を盛ったというのは本当ですか?

当時そうした噂が広まったことは、『翁草』などを引く家治の項目に書かれています。しかし家治の死因は脚気衝心と推定され、『徳川実紀』には「水腫」と「感冒」とあります。毒を盛ったと確定できる記述は、確かめた資料にはありません。

失脚した後の意次はどうなりましたか?

天明6年に老中を罷免され、加増分2万石の没収や謹慎を受けました。天明7年には蟄居と再度の減封を命じられています。孫の意明が下村1万石で家督を継ぎ、のちに四男の意正が1823年に相良藩主に就きました。

墓はどこにありますか?

東京都豊島区駒込の万年山勝林寺です。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。