坂本龍馬

結論:光秀は「信長を討った武将」、龍馬は「薩長同盟を斡旋した志士」――ただし通説には見直しも多い

明智光秀は天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で主君の織田信長を襲い、その11日後の6月13日、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて小栗栖で落ち武者狩りに遭ったとされる武将だ。坂本龍馬は土佐の郷士の家に生まれ、慶応2年(1866年)の薩長同盟の斡旋に関わり、慶応3年(1867年)11月15日に京都の近江屋で殺害された。

光秀の没年(1582年)と龍馬の生年(1836年)の間には約250年の隔たりがあり、直接の接点はない。共通するのは、一つの出来事で名前が残ったことと、その最期や動機に今も諸説があることだ。一方で、光秀の生年や出自は同時代の史料では確定せず、龍馬の有名な逸話にも、研究者から疑問が出ているものがある。この記事では、確かめられる事実と諸説を分けて整理する。

基本情報

  • 明智光秀:生年は同時代史料では不明で、享禄元年(1528年)説、永正13年(1516年)説などがある。没年は天正10年(1582年)。戦国時代から安土桃山時代の武将で、織田信長の家臣
  • 光秀の主な出来事:足利義昭の上洛への参加、坂本城の築城、丹波平定、本能寺の変
  • 坂本龍馬:天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町(現在の高知市上町)生まれ。慶応3年11月15日(1867年12月10日)没。数え年33(満31歳)
  • 龍馬の立場:土佐藩郷士(下級武士)の坂本家の出身。商家「才谷屋」の分家にあたる
  • 龍馬の主な出来事:脱藩、亀山社中・海援隊、薩長同盟の斡旋、大政奉還をめぐる動き

明智光秀と坂本龍馬とは何者か――ふたりの生涯と功績

明智光秀の出自と、朝倉家から信長のもとへ

光秀の出身地は、美濃国可児郡の明智城とする説が通説的で、近江国犬上郡多賀町佐目とする説など、ほかにも候補がある。土岐氏の支流の出とされるが、父とされる明智光綱は一次史料で確認できず、江戸時代の創作の可能性が指摘されている。生年も複数の説があり、『明智軍記』は享禄元年(1528年)、『当代記』は永正13年(1516年)とする。

若い頃は越前の朝倉義景に約10年仕えたとされる。永禄10年(1567年)11月に足利義昭が越前の一乗谷の安養寺に移ると、光秀は義昭に近づいたとみられている。永禄11年(1568年)9月26日の義昭の上洛に加わり、翌年1月の本圀寺の変では義昭方として戦った。なお、光秀が信長を義昭に推挙したと『細川家記』にあるが、この記述は疑わしいとされる。

坂本城と丹波平定――信長の重臣へ

元亀2年(1571年)9月12日、光秀は比叡山の焼き討ちに参加し、近江国滋賀郡5万石を与えられて坂本城を築いた。この城は延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われ、湖水に接した水城で、宣教師フロイスは安土城と並び称される名城と記した。

天正3年(1575年)には、信長から丹波・丹後の平定を命じられる。天正7年(1579年)8月9日に黒井城を落として丹波を平定し、細川藤孝と協力して丹後も平定した。天正8年(1580年)には丹波一国を加増され、近畿の寄騎を含む「畿内方面軍」が成立した。高柳光寿はこれを「近畿管領」と呼んでいる。信長の家臣の中でも、きわめて重い役目を担っていたことが分かる。

本能寺の変と山崎の戦い

天正10年(1582年)5月、光秀は安土城での徳川家康の饗応役を務めたあと、秀吉への援軍を命じられた。6月2日、亀山城から出陣して本能寺を襲った。兵力は光秀軍が約13,000、信長側は約100人とされる。信長は自害したとされるが、遺体は確認されていない。嫡男の信忠も二条新御所で討たれた。

だが、光秀の天下は短かった。6月13日、中国大返しで戻った秀吉の軍と山崎で戦って敗れ、同日深夜、小栗栖で落ち武者狩りに遭って死んだとされる。殺害者や死因には複数の説があり、江戸時代の随筆に刺した百姓として中村長兵衛の名が見えるが、信憑性はないとされる。首は発見され、本能寺でさらされたあと、粟田口で斎藤利三の首と並べて首塚が築かれたとされる。坂本城では、明智秀満が光秀の妻子を殺害したのち自害した。

坂本龍馬――脱藩から薩長同盟、大政奉還まで

龍馬は文久2年(1862年)3月24日、沢村惣之丞とともに土佐藩を脱藩した。同年12月に勝海舟を訪ねて門人となり、のちに慶応元年(1865年)5月頃、薩摩藩の援助を受けて長崎で亀山社中を結成する。慶応3年(1867年)4月上旬には、土佐藩の外郭組織として海援隊と改称した。

慶応2年(1866年)1月22日、龍馬の斡旋により京都で薩長同盟が成立したとされる。翌23日には、伏見の寺田屋で幕府方に襲われて負傷し、薩摩藩に救出された。慶応3年(1867年)には後藤象二郎との関係を通じて土佐藩と動き、10月14日に大政奉還が上奏され、翌15日に勅許が下りた。同年11月上旬には「新政府綱領八策」を起草しており、自筆本が現存する。

近江屋事件――龍馬の最期

慶応3年11月15日、京都河原町蛸薬師の近江屋の二階で龍馬は襲撃された。午後8時頃、十津川郷士を名乗る数人が訪ねてきて、二階に上がって従僕の藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入ったという。龍馬は額を深く斬られ、ほぼ即死の状態だった。同席していた中岡慎太郎も殺害された。この日は龍馬の誕生日にあたる。

犯人については、今井信郎の供述に基づく見廻組説(佐々木只三郎らが実行)が定説とされる。ほかに薩摩藩黒幕説、後藤象二郎が関与したとする説などがあり、事件直後は新選組の関与が強く疑われた。新選組の大石鍬次郎は一度自白したが、のちに撤回している。

共通点と相違点、そして見直されている通説

ふたりの共通点と、後世の評価の違い

光秀は主君を討ち、龍馬は藩を捨てて脱藩した。どちらも既存の秩序から踏み出し、その行動が時代の転換点に結びついた点で語られる。ただし結末は対照的だ。光秀は本能寺の変から11日で敗れ、龍馬は大政奉還の直後に斃れた。

後世の評価も分かれてきた。光秀は主君殺しの印象が強く、龍馬は維新の志士として親しまれてきた。本能寺の変の動機についても、怨恨説、野望説、恐怖心説、理想相違説、将軍指令説(室町幕府再興説)、朝廷説、四国説、イエズス会説など、多くの説が並ぶ。特定の一説に決着がついているわけではない。

変の直前、5月28日の愛宕百韻で光秀が詠んだ発句「時は今 雨が下しる 五月哉」についても、謀反の意志を読み取る説と、そうでないとする説の両方がある。

「光秀は天海だった」という説

光秀は山崎の戦いで死なず、のちの天海になったという俗説がある。天海の項目を見ると、出自が不明なことから、姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まである、という程度の紹介にとどまり、研究上の根拠は示されていない。天海の没年は寛永20年(1643年)で、享年は108歳とされ、生年は天文5年(1536年)と推定されるが確定はしていない。光秀の死は、首が見つかり本能寺でさらされたとされる経緯とあわせて、通説では小栗栖での最期とされている。

龍馬の逸話の見直し

龍馬が勝海舟を斬りに行ったが、説得されて弟子になったという逸話は有名だ。しかし近年は、海舟の誇張や記憶違いとする見方が強いとされる。

薩長同盟でも、龍馬の役割については研究者の間で評価が分かれている。「船中八策」は、慶応3年6月9日に後藤象二郎に示したとされる政治綱領だが、龍馬の原本は見つかっておらず、近年は創作とする研究者もいる。一方、同年11月上旬の「新政府綱領八策」には自筆本が残る。有名な逸話ほど、史料の裏づけを確かめる価値がある。

ゆかりの地と関連する人物

明智光秀ゆかりの地

  • 福知山城(京都府福知山市):丹波を平定した光秀が縄張りを行い、女婿の明智秀満を城主とした。現在の天守は昭和60〜61年(1985〜1986年)に復元された鉄筋コンクリート造で、大天守は福知山市郷土資料館として公開されている。開館は午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)、火曜日と年末年始が休館(祝日の場合は翌日)
  • 坂本城跡(滋賀県大津市):光秀が元亀2年(1571年)に築いた湖畔の城。遺構はほとんど残らず、国道161号沿いの公園に光秀像があるが、公園の石材は当時のものではなく、実際の城は公園の北側にあった
  • 墓所と伝わる場所:谷性寺(京都府亀岡市)は、溝尾茂朝が首を埋めたとする伝承がある。西教寺(滋賀県大津市)、高野山奥の院(和歌山県)、山県市中洞(岐阜県)も墓所に挙げられる

坂本龍馬ゆかりの地

  • 桂浜(高知市):龍馬像は昭和3年(1928年)5月に完成した。高知県の青年有志の募金で建てられ、制作は本山白雲、像の高さは5.3m、台座を含む総高は13.48m
  • 寺田屋(京都市伏見区):慶応2年に龍馬が襲われた旅館。現在の建物は鳥羽・伏見の戦いで損傷したのち再建されたもので、京都市は平成20年(2008年)に、当時の建物は焼失し、現在の建物はその西隣に建つと結論づけた。当時の跡地は市有地で、碑が立つ
  • 近江屋跡(京都市):「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」の石碑がある
  • 京都霊山護国神社(京都市):霊山墓地の中腹に龍馬の墓がある。墓碑の揮毫は桂小五郎
  • 亀山社中跡(長崎市):現在は亀山社中記念館になっている

関連する人物

  • 織田信長:光秀の主君。本能寺で自害したとされる
  • 羽柴秀吉:山崎の戦いで光秀を破った
  • 細川ガラシャ(玉):光秀の娘で、細川忠興の正室。結婚は信長の命によるとされ、本能寺の変後は幽閉された
  • 勝海舟:龍馬が門人となった人物
  • 中岡慎太郎:近江屋で龍馬とともに殺害された
  • 後藤象二郎:龍馬が船中八策を示したとされる土佐藩士

よくある質問

光秀はなぜ信長を討ったのですか。

確定した答えはない。怨恨説、野望説、朝廷説、四国説など多くの説が並び、どれも決着していない。

坂本龍馬を殺したのは誰ですか。

今井信郎の供述に基づく見廻組説が定説とされ、佐々木只三郎らが実行したとされる。薩摩藩黒幕説など異説もある。

光秀の墓はどこにありますか。

谷性寺(亀岡市)、西教寺(大津市)、高野山奥の院、山県市中洞などが墓所とされる。どれが本物かは伝承の域を出ない。

龍馬が勝海舟を斬りに行った話は本当ですか。

文久2年12月に龍馬が海舟を訪ねて門人となったのは事実とされる。ただ、斬りに行って説得されたという話は、海舟の誇張や記憶違いとする見方が近年強い。

龍馬は何歳で亡くなりましたか。

数え年で33、満年齢では31歳。慶応3年11月15日、この日は誕生日にあたる。