結論:「低かった」と記す同時代の記録はあるが、センチ単位の数字は確かめられない
豊臣秀吉の身長が低かったことは、複数の記録から裏づけられる。宣教師ルイス・フロイスは秀吉を「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主」と記し、朝鮮の儒者・姜沆(カンハン)の『看羊録』も「身体も短小」と書いている。どちらも外国人の目による記述である。
一方で、「150cm」「155cm」といった具体的な数字は、日本語版Wikipediaをはじめ今回確かめた資料には見当たらなかった。本記事では、数字は書かず、記録に何が書かれているかを整理する。
もう一つ、「猿のような顔」というイメージは別の問題である。Wikipediaによれば、猿顔と認識されていた根拠は諸史料にはなく、歴史学者の柴裕之は、そのイメージは秀吉の死後に形成された可能性が高いとしている。
基本情報
- 生没年:天文6年2月6日(1537年3月17日)〜慶長3年8月18日(1598年9月18日)、享年62。天文5年説など生年には異説がある
- 時代:安土桃山時代
- 立場:織田信長に仕えたのち天下人となった武将
- 身長について:同時代の外国人の記録に「低い」「短小」とあるが、具体的な数値の記録は確かめられなかった
- 呼び名:「猿」「禿げ鼠」など
- 神号:豊国大明神
豊臣秀吉の身長を伝える史料:低身長説の根拠
フロイスは「身長が低い」と書いた
ルイス・フロイスは1532年生まれのポルトガル出身の宣教師で、1563年に来日した。1569年には二条御所の建築現場で織田信長と初めて対面し、1590年にはヴァリニャーノに同行して聚楽第で秀吉と会っている。日本でのイエズス会の活動を記録する役目を負い、その記録が後に『日本史』と呼ばれた。
そのフロイスが秀吉について書いたのが、「身長が低く、また醜悪な容貌」という記述である。あわせて、片手に6本の指があること、目が飛び出ていること、ヒゲが少ないことも記している。実際に会った人物の観察である点で、低身長説の重要な根拠になる。
ただし、フロイスの人物評は容貌に厳しい。秀吉を「極度に淫蕩で、抜け目なき策略家」とも書いており、好意的な筆致ではない。「低い」という事実と、「醜悪」という評価は分けて読む必要がある。
朝鮮の『看羊録』も「短小」と記す
『看羊録』の著者・姜沆は、李氏朝鮮の儒者である。慶長の役で日本軍の捕虜となって日本に連行され、1598年から1600年まで伏見に幽閉された。その間に見聞したことを秘密裏に本国へ報告している。
この書は秀吉を「醜く、身体も短小で、様子が猿のよう」と記す。ただし姜沆は捕虜の立場にあり、秀吉の没年に伏見にいた人物である。生前の秀吉を日常的に見ていたと確かめられるわけではなく、評価も敵対国の立場からのものであることは頭に置いておきたい。
朝鮮の『懲毖録』が伝える肌と眼
同じく朝鮮の『懲毖録』は、秀吉の肌は色黒で、眼光は人を射るようだったと記している。こちらは身長ではなく雰囲気の描写だが、外国人の記録が見た目の印象を伝えている例である。
「猿顔」「小柄」のイメージはどこから来たのか
「猿」は幼名とも、信長の評ともされる
秀吉が「猿」と呼ばれたという話は広く知られている。ただしWikipediaによれば、諸史料に猿顔と認識されていた根拠はない。『太閤素生記』は、猿を秀吉の幼名として書いている。また『太閤記』には、信長が初対面で「猿に似ている」と評したという話が載る。
つまり「猿」の由来には、幼名とする記述と、容貌を信長が評したとする記述とがある。どちらが事実かは、ここで確かめられた範囲では決められない。
柴裕之は「死後に形成された可能性が高い」とする
猿顔のイメージについて、柴裕之は秀吉の死後に形成された可能性が高いとしている。肖像画についても、猿顔と結びつくと確定できるものはないと指摘する。三上参次も、肖像画を見比べても著しく猿に似ているとは思えないと評した。
「猿のような小男」という姿は、同時代の記録というより、のちの物語や絵によって固まった部分が大きいと考えられる。低身長を伝える記録があることと、猿顔が史実として裏づけられることは別の話である。
「禿げ鼠」と信長の書状
信長が秀吉の妻・ねね(寧々)に宛てた書状には、秀吉を「禿げ鼠」(原文は「はげねすミ」)と呼んだ言葉がある。この書状は現在、個人の所蔵とされる。呼び名として「猿」とあわせて知られるが、この言葉が身長を指すのかどうかは、書状の言葉だけからは分からない。
身体のもう一つの特徴:六本指の話
『国祖遺言』と『看羊録』の記述
容姿の記録でよく話題になるのが、指の数である。前田利家の言行録『国祖遺言』は、秀吉の右手の親指が1本多かったと記す。信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。フロイスも、片手に6本の指があったと書いている。
『看羊録』は、秀吉が成人後に六本目の指を切り落としたと記す。日本側と外国側、それぞれの記録に同じ特徴が出てくる。三上参次は『国祖遺言』にある六本指の説に触れ、幸田成友は、この説がフランスの歴史家シャルルヴォアの著作に由来すると指摘した。
肖像画で親指を隠したという説
Wikipediaには、秀吉が天下人になったあと、この事実を記録から消し、肖像画では右手の親指を隠す姿で描かせたとされる、という説明もある。これは「とされる」という伝えであり、身長の話と同じく、公式の肖像画が実際の姿をそのまま写したとは限らないことを示す例になる。肖像画から身長を割り出すのは難しい。
秀吉自身は自分の容姿をどう語ったか
フロイスの記録には、秀吉自身が「自分は醜い顔をしている」と語ったとも記されている。
一方、人物像としては、人と同じに振る舞うことを嫌う傾奇者で、仮装茶会を催すなど人目を引く行動をしたという。人たらしと称され、度量の大きさを示す逸話が多いが、狭量で冷酷な面もあり、世評を強く気にしたとされる。外見の評価と、人を引きつける力は、別の物差しで見るべきだろう。
ゆかりの地と関連する人物
豊国神社(京都市東山区)
秀吉は1598年に亡くなり、遺骸は阿弥陀ヶ峰に埋葬された。翌1599年に麓で廟所が建てられ、これが豊国社の始まりである。主祭神は豊国大明神、つまり秀吉で、所在地は京都市東山区大和大路正面茶屋町530。京阪本線の七条駅から徒歩約11分とされる。
1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川家康の命で祭祀は廃絶された。明治維新後に再興され、現在の社殿は1880年に完成した。唐門は国宝で、もとは南禅寺塔頭の金地院にあり、再建時に移築されたものである。
境内の宝物館は1925年の開館で、秀吉の歯とされるものや、重要文化財の「豊国祭礼図屏風」などを収蔵している。
関連する人物
- 織田信長:秀吉の主君。「猿に似ている」と評したとする『太閤記』の話や、ねね宛ての書状の「禿げ鼠」で知られる
- ねね:秀吉の妻。信長の書状の宛先
- ルイス・フロイス:秀吉と会見した宣教師。容姿を記録した
- 姜沆:朝鮮の儒者。『看羊録』の著者
- 前田利家:言行録『国祖遺言』に、六本指の話が載る
よくある質問
豊臣秀吉の身長は何センチだったのですか?
確かめられた資料には、具体的な数字は見当たりませんでした。フロイスが「身長が低い」、『看羊録』が「短小」と記しているため、低かったことは複数の記録から言えますが、センチ単位の数値は分かりません。
秀吉が「猿」と呼ばれたのは身長のせいですか?
身長が理由だと確かめられる史料は、今回の範囲では見つかりませんでした。『太閤素生記』は猿を幼名とし、『太閤記』は信長が「猿に似ている」と評したとします。どちらの由来が正しいかは決められません。
猿顔だったというのは事実ですか?
諸史料に猿顔と認識されていた根拠はないとされます。柴裕之は、そのイメージは死後に形成された可能性が高いとしています。一方、『看羊録』には「様子が猿のよう」という記述があります。
秀吉の指が6本だったというのは本当ですか?
『国祖遺言』は右手の親指が1本多かったと記し、フロイスも片手に6本の指があったと書いています。『看羊録』は、成人後に六本目を切り落としたと記します。複数の記録に出てきますが、肖像画などから直接確かめることはできません。
秀吉をまつる神社はどこですか?
京都市東山区の豊国神社が代表的です。主祭神は豊国大明神で、国宝の唐門や宝物館があります。





