結論:秀吉の家紋は桐紋。総称して「太閤桐」と呼ぶ
豊臣秀吉の家紋は桐紋です。秀吉が使った五七桐・五三桐などの桐紋は、総称して「太閤桐」と呼ばれています。豊臣氏の項目でも、秀吉の定紋は太閤桐(五七桐)とされています。
桐紋は、足利義昭から織田信長が与えられ、信長から秀吉へ渡ったものと説明されています。天下人になった秀吉は、1591年(天正19年)に桐紋の無断使用を禁じました。
有名な「千成瓢箪」は家紋ではありません。馬印(戦場で大将の居場所を示す標識)の話で、しかも千成瓢箪は馬印として使われていないと Wikipedia の馬印の項目は書いています。この記事では、桐紋の由来と秀吉の使い方、瓢箪の馬印との違いを順に整理します。
基本情報
- 人物:豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
- 生没年:天文6年(1537年)生まれ、慶長3年8月18日(1598年9月18日)没。生年を天文5年とする説もある
- 時代:安土桃山時代
- 立場:天下人。天正13年(1585年)7月に関白宣下を受け、天正14年(1586年)に正親町天皇から豊臣の姓を賜った
- 家紋:桐紋(総称して太閤桐。五七桐・五三桐などを使用)
- 馬印:小馬印は金の逆さ瓢箪、大馬印は金の軍配
豊臣秀吉の家紋は桐紋:五七桐・五三桐・太閤桐の違い
桐紋は信長から受け継いだ
桐紋の下賜をたどると、皇室から足利氏、足利義昭、織田信長、秀吉という流れになります。永禄11年(1568年)に義昭が信長へ桐紋を与え、信長が秀吉へ分け与えたと説明されています。
桐紋の側から見ると、足利家がいつ使い始めたかは諸説あります。鎌倉幕府を倒す時期に後醍醐天皇から下賜されたとみられており、足利家への下賜以降、桐紋は皇室に認められた為政者へ与えられる紋という意味を持つようになりました。つまり秀吉の桐紋は、将軍家と天皇に連なる権威の系譜を背負った紋だったことになります。
五三桐と五七桐は花の数で分かれる
桐紋の基本の図案は、3本の花序と3枚の葉でできています。花序の花の数が3・5・3のものを五三桐、5・7・5のものを五七桐と呼びます。桐紋には、このほかにも140種以上の図案があります。
明治5年(1872年)の太政官布告では、勅任官の大礼服の上着に五七桐、奏任官には五三桐を使うと定められました。この規定からも、五七桐のほうが上位に置かれていたことが分かります。
「太閤桐」は一つの形ではない
「太閤桐」は、秀吉が使った桐紋の総称です。いくつかのデザインが確認されていて、単一の図案を指す名前ではありません。「秀吉が晩年に独自の桐紋を考案した」という話をよく見かけますが、今回確かめた資料の範囲では、考案の時期や経緯を裏づける記述は見つかりませんでした。そのため、この記事では書きません。
秀吉と桐紋のトリビア:禁令・馬印・菊との関係
1591年、桐紋の無断使用を禁止
天正19年(1591年)、秀吉は桐紋の無断使用を禁じる法令を出し、違反者を取り締まりました。桐紋を保護するためのものでした。
一方で、秀吉は桐紋を他の人にも与えています。土佐の山内一豊の「土佐桐」は、秀吉から与えられた紋を元にしたものです。大坂の商人など町人には五三桐の使用が認められていました。許可した相手にだけ使わせる形で、桐紋の価値を管理していたことがうかがえます。
桐紋は、下賜を受けた者が家臣にさらに与える形でも広がりました。「配りすぎて価値が下がった」という俗説もありますが、資料から確かめられたのは、許可と取り締まりを組み合わせていたという点までです。
千成瓢箪は家紋ではなく馬印、しかも使われていない?
馬印とは、戦国時代の武将が自分の居場所を示すために、馬のそばや本陣で長い柄の先に付けた印のことです。家紋とは別のものです。
馬印の項目によると、秀吉の馬印は次のとおりです。
- 小馬印:金の逆さ瓢箪に、金の切裂(きりさき)を付けたもの
- 大馬印:金の軍配に、朱色の吹き流しを付けたもの
千成瓢箪については、馬印としては使われなかったと書かれています。船印として使われたという説があるだけです。千成瓢箪は秀吉の代名詞のように語られますが、戦場の標識としての実態は、金瓢箪や金の軍配のほうでした。
菊紋・桐紋と日本政府
桐紋は菊花紋章と並んで、皇室の家紋としても知られています。ただし扱いには差があります。菊紋は1869年(明治2年)の太政官布告で使用の規定が定められました。桐紋は1884年(明治17年)の官報で特に定めないと公示され、民間でも自由に使えるようになりました。これが今も桐紋が家紋として広く使われている理由の一つです。
明治以降は、五七桐が慣例的に内閣の紋章として使われ、現在に至ります。菊紋とともに賞杯に使われたり、貨幣や旅券関連の書類にあしらわれたりしています。
家康は桐紋を断った
慶長16年(1611年)、徳川家康に桐紋の下賜の打診があったものの、家康は辞退したとされています。理由は、家康の家が新田氏の血筋であり、桐紋を使うと足利家に劣ることになるから、というものです。徳川幕府は桐紋を避け、葵紋を使いました。
家康の遺品の中には、菊と桐を組み合わせた意匠のものもあります。ただ、朝廷への献金の見返りとして下賜されたか、あるいは豊臣家から下賜された可能性がある、とされています。
桐が神聖視された理由
中国では、桐は瑞木(めでたい木)とされ、優れた皇帝が現れるときに出る鳳凰が止まる木として神聖視されました。日本でも桐は高貴な文様となり、桐・竹・鳳凰を配した天皇の袍の文様が生まれました。
注意したいのは、中国の伝承で鳳凰が棲むとされるのは梧桐(アオギリ)で、桐紋の図案は別の種類のキリ(白桐)を元にしているという点です。
ゆかりの地と関連する人物
豊臣秀吉ゆかりの場所
- 大坂城:天正11年(1583年)8月、石山本願寺の跡地に築くよう命じられた。黒田孝高が総奉行を務めた
- 聚楽第:天正15年(1587年)9月、平安京大内裏跡に構えた邸宅。翌年4月に後陽成天皇を迎えた
- 伏見城:文禄2年(1593年)に秀頼が生まれた後、母子が新築の伏見城に移り住んだ
- 豊国神社(京都市東山区):没後、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を贈られて祀られた。江戸時代には幕府により祭祀が禁じられ、明治維新後に再興された
桐紋でつながる人物
- 織田信長:永禄11年(1568年)に足利義昭から桐紋を与えられ、のちに秀吉へ渡った
- 足利尊氏・足利義昭:足利家への下賜から、桐紋は為政者に与えられる紋という意味を持つようになった
- 山内一豊:秀吉から与えられた紋が、土佐桐の元になった
- 徳川家康:1611年の桐紋の下賜を辞退したとされる
よくある質問
豊臣秀吉の家紋は何ですか?
桐紋です。秀吉が使った五七桐・五三桐などを総称して太閤桐と呼びます。豊臣氏の定紋は、太閤桐(五七桐)とされています。
五七桐と五三桐の違いは何ですか?
花序の花の数が違います。3・5・3が五三桐、5・7・5が五七桐です。明治5年の規定では、勅任官が五七桐、奏任官が五三桐とされ、五七桐が上位でした。
千成瓢箪は秀吉の家紋ですか?
家紋ではありません。馬印の話で、Wikipedia の馬印の項目では、千成瓢箪は馬印としては使われなかったとされています。秀吉の馬印として挙がっているのは、金の逆さ瓢箪(小馬印)と、金の軍配(大馬印)です。
現在の日本政府も桐紋を使っていますか?
五七桐が、明治以降、慣例的に内閣の紋章として使われ、現在に至っています。貨幣や旅券関連の書類にもあしらわれています。
豊臣家が滅びたあと、桐紋は使われなくなりましたか?
桐紋は使われ続けました。徳川幕府は葵紋を使い桐紋を避けましたが、桐紋は大名などの間で広く使われました。明治17年には、民間での使用を特に定めないと公示されています。






