豊臣秀吉 日本史トリビア

結論:朝鮮出兵は1592年に始まり、1598年の秀吉の死で講和のないまま終わった

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、日本では文禄の役(1592年〜1593年)と慶長の役(1597年〜1598年)の2度に分けて呼ばれる。1592年4月に日本軍が釜山へ上陸して始まり、いったん休戦したあと、講和交渉の決裂で再開した。1598年の秀吉の死去を受けて日本軍は全軍撤退し、講和のないまま終わった。そのため、日本側にも朝鮮・明側にも「勝利した」という主張が残った。

出兵の動機は、一つに決まっていない。弟の秀長と息子の鶴松が相次いで亡くなったことが引き金とする説、功名心とする説、領土拡張説、国内統一策の延長とみる説など、学説が分かれている。「武士に与える土地の不足」「西欧勢力への備え」といった分かりやすい説明は、そのままでは断定できない。

結果として、日本では豊臣政権の基盤が弱まり、徳川家康が力を伸ばした。明は巨額の戦費で国力を消耗し、朝鮮は国土が荒れた。この記事では、背景、経過、結末、影響を、史料にもとづく範囲で順に整理する。

基本情報

  • 呼び名:日本では「文禄・慶長の役」。「唐入り」「朝鮮征伐」とも呼ばれた。朝鮮では文禄の役を「壬辰倭乱」、慶長の役を「丁酉倭乱」と呼ぶ。中国では「萬曆朝鮮之役」
  • 時代:安土桃山時代
  • 中心人物:豊臣秀吉(出兵を命じた最高権力者)、小西行長、加藤清正(日本側の将)、李舜臣(朝鮮水軍の将)、沈惟敬(明側の交渉役)
  • 文禄の役:1592年4月(天正20年)に開戦、1593年8月(文禄2年7月)に終結
  • 慶長の役:1597年3月(慶長2年)〜1598年12月(慶長3年11月)
  • 日本軍の兵力:158,700人とする毛利家文書にもとづく数字が通説とされる(文禄の役)
  • 終結の理由:1598年8月18日の秀吉の死去

豊臣秀吉の朝鮮出兵の背景と動機は何か

外交交渉の経緯:服属を求めた朝鮮と、通信使の来日

出兵の直接のきっかけは、外交交渉のこじれにある。1587年、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に服属して入朝するよう求めたが、朝鮮は応じなかった。1589年に宗義智らが朝鮮へ渡って通信使の派遣を取りつけ、1590年に黄允吉・金誠一らの通信使が聚楽第で秀吉に会った。

ここに大きな行き違いがあった。朝鮮の通信使は、秀吉の側からは服属を表す使節と受け取られ、秀吉は朝鮮が帰服したと思い込んだとされる。1591年、秀吉が明へ向かう道を借りたいと求めた(仮途入明)のに対し、朝鮮はこれを拒否した。宗氏と朝鮮の交渉は決裂し、開戦へ向かう。

動機をめぐる諸説

では、なぜ秀吉は明の征服まで考えたのか。研究者の間でも見解は一致しておらず、主な説は次のとおりである。

  • 鶴松死去説(鬱憤説):1591年に弟の秀長と鶴松が相次いで亡くなったことが契機とする。ただし、征明の計画はそれ以前から進んでいたため、否定的な研究者もいる
  • 功名心説:秀吉の国書にある「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」という一節を根拠にする
  • 動乱外転説、領土拡張説、国内集権化説、国内統一策の延長説、勘合貿易説、東アジア新秩序説など

一方、否定されている説もある。元寇への復讐とする説は辻善之助らが否定した。キリシタンを排斥するための出兵とする説は宣教師の記録に見えるが、キリシタン大名が排斥されたわけではなく、事実とはされない。

海外構想はいつからあったか

秀吉の海外への構想は、史料の上では1585年9月の一柳市介の書状に「唐国まで」とあるのが初期のものとされる。つまり、鶴松の死より6年ほど前から、大陸への関心は文書に現れていた。

名護屋城と出兵の準備

1591年1月20日、秀吉は大船の建造などの遠征準備を命じ、同年8月23日ごろに遠征の決意を諸大名に発表した。拠点となる名護屋城は、黒田孝高が縄張りをし、浅野長政が総奉行を務めた。1592年1月18日には、小西行長と宗義智に最後の交渉を許可している。

秀吉自身は3月26日に京都を出発し、4月25日に名護屋に着いた。日本軍の陣立ては21の軍(隊)、約30万人の編成とされる。一番隊は宗義智・小西行長らの計18,700人、二番隊は加藤清正・鍋島直茂らだった。

文禄の役から慶長の役まで:戦況の推移と転換点

文禄の役:漢城まで約21日

1592年4月、日本軍は釜山に上陸した。5月2日、開戦から約21日で首都・漢城(現在のソウル)が陥落する。小西行長と加藤清正の軍が、別々の門から入城した。

続く平壌をめぐる戦いでは、1592年7月16日に祖承訓の率いる明軍5,000が小西行長らに敗れ、7月29日には金命元の朝鮮軍約1万も敗れた。ここまでは日本軍の優勢が続く。

李舜臣と朝鮮水軍の海戦、亀甲船は実在したか

流れを変えたのが海戦である。1592年5月7日の玉浦の戦いでは、朝鮮水軍91隻が日本の輸送船団を攻撃して15隻を撃破した。翌8日の赤珍浦でも日本船13隻のうち11隻を撃破し、7月7日の閑山島海戦では日本水軍が敗れた。海上の輸送路が脅かされたことは、陸上で進んだ日本軍に不利に働いた。

この李舜臣といえば亀甲船が有名だが、ここに「謎」がある。亀甲船の構造を記した『李舜臣行録』や『李忠武公全書』は、どちらも後年の編纂物で、戦乱当時の記録にも日本側の資料にも亀甲船は登場しない。板屋船を改造したものといわれるが、実体は不明とされる。鉄板で覆われた船とする説は後世の記述にあるものの、『李忠武公全書』には鉄板の記載がない。文禄・慶長の役で5隻が運用されたとされ、近海の警備に使われていたらしい。

よく知られる「鉄の装甲船が日本水軍を圧倒した」というイメージは、少なくとも当時の史料では確かめられない。確かなのは、玉浦や閑山島といった海戦で朝鮮水軍が日本側に勝ったという戦果のほうである。

明軍の参戦から碧蹄館の戦い、休戦へ

1592年12月23日、李如松が鴨緑江を渡って朝鮮に入り、明の本格的な介入が始まった。1593年1月6日の第三次平壌城の戦いでは、明・朝鮮の連合軍約51,000人が平壌を攻め、小西軍は1月7日夜に撤退する。日本側の戦死者は約1,560人とされるが、明側の記録は数字が大きく異なる。

ただし、明軍が一方的に押したわけではない。1593年1月26日の碧蹄館の戦いでは、宇喜多秀家の指揮する約2万の日本軍が勝ち、李如松は平壌へ退いた。双方が決め手を欠くなかで、小西行長と沈惟敬の協議で休戦が成立する。1593年4月18日に日本軍は漢城から釜山へ後退し、南岸に築いた倭城に駐留した。5月15日には明の勅使が名護屋で秀吉と会見している。

講和の決裂と慶長の役

1596年9月、明の使節との会見で秀吉の要求は通らなかった。秀吉は激怒し、再出兵を決める。沈惟敬は後に、明政府に処刑された。

1597年7月16日の漆川梁海戦では、朝鮮水軍が大敗し、元均らが戦死した。8月には南原城と全州が陥落し、明・朝鮮軍の全羅道での防衛が崩れる。それでも9月17日の鳴梁海戦では李舜臣が日本水軍に打撃を与えた。このとき李舜臣が率いたのは13隻で、亀甲船は含まれていなかったとされる。

1597年12月22日から1598年1月4日の蔚山城の戦いでは、1月3日に毛利秀元の援軍が到着し、翌4日に連合軍を撃退した。1598年9月末〜10月の泗川の戦い(10月1日に総攻撃)では島津軍が連合軍を破り、順天城の戦い(9月19日〜10月7日)でも連合軍は撤退した。日本側が個々の戦いで勝っても、戦争全体を終わらせる展望はなかった。

秀吉の死と撤退、その後の日本・明・朝鮮への影響

秀吉の死と露梁海戦

1598年8月18日、秀吉が死去した。10月15日に五大老が帰国命令を出し、日本軍は引き揚げに向かう。11月18日の露梁海戦では、李舜臣を含む朝鮮・明軍の将官が戦死した。日本の諸将は11月23日から25日にかけて帰還し、25日の小西行長らの帰国で遠征は終わった。

豊臣政権の弱体化と徳川家康

留守にした大名領では太閤検地が行われた一方、過大な兵役を課された西国の大名は疲弊し、家臣団の分裂や内乱を招いた。九州への出陣にとどまり朝鮮に出兵しなかった徳川家康は、隠然たる力を持つようになり、1600年の関ヶ原の戦い、1603年の征夷大将軍就任を経て、江戸幕府の支配が確立していった。

なお、この流れを「秀吉が家康の力を削ぐために出兵した」と説明する例があるが、資料で確かめられるのは、結果として家康が損耗を免れたという点までである。

明と朝鮮の被害

明は、この戦役を寧夏の哱拝の乱、播州の楊応龍の乱と並べて「万暦の三大征」と呼んだ。『明史』の記録では朝鮮への出兵費用は約780万両とされる。膨大な軍事費や戦死者、万暦帝の奢侈によって国力が消耗し、17世紀前半の女真の台頭に対抗できなくなったと考えられている。

朝鮮では、食料不足や治安の悪化で農民が流民化し、漢城では王宮や官庁が民衆に放火されたと記される。明軍の兵糧を朝鮮が負担したため、日本軍が侵攻していない平安道も荒廃し、人口が激減したとされる。戦後、貿易に訪れた日本人は釜山の倭館に行動を制限された。1627年の丁卯胡乱、1636年の丙子の乱を経て、朝鮮は清の属国となった。

文化の面:陶工と唐辛子

日本に連れてこられた朝鮮人の陶工が、大陸式の磁器の製法や瓦の装飾を伝えたとされる。また、唐辛子が日本軍によって朝鮮半島にもたらされ、キムチなどの料理の基礎になったとされる。

国交回復の動きと柳川一件

戦後の国交回復では、対馬藩が偽の使節を用いて独断で進めようとした。この事実は、のちに柳川一件として露見した。また、朝鮮通信使を江戸幕府への「朝貢使」と位置づけ、出兵をその前提とみる解釈が一部にあった。本居宣長の『馭戒慨言』はこの流れに立ち、出兵が失敗した原因を秀吉の敬神の欠如などに求めたとされる。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 名護屋城(佐賀県):出兵の拠点。黒田孝高が縄張りをし、浅野長政が総奉行を務めた。秀吉は1592年4月25日にここへ着陣した
  • 釜山(韓国):1592年4月に日本軍が上陸した地。1598年11月、撤退の出発点にもなった
  • 漢城(現在のソウル):1592年5月2日に陥落した首都
  • 平壌:祖承訓の明軍が敗れ、のち1593年1月に明・朝鮮の連合軍が奪還した地
  • 蔚山・泗川・順天:慶長の役の戦いの舞台

関連する人物

  • 小西行長:一番隊を率い、沈惟敬と休戦を協議した
  • 加藤清正:二番隊を率い、小西行長とともに漢城に入った
  • 宗義智:対馬の宗氏。朝鮮との交渉役を務め、一番隊にも加わった
  • 李舜臣:朝鮮水軍の将。玉浦・閑山島・鳴梁で戦い、露梁海戦で戦死した
  • 李如松:明軍の将。1592年12月に鴨緑江を渡り、碧蹄館で敗れた
  • 沈惟敬:明側の交渉役。後に明政府に処刑された
  • 宇喜多秀家・毛利秀元・島津氏:碧蹄館、蔚山、泗川でそれぞれ戦った
  • 徳川家康:出兵に加わらず、のち江戸幕府を開いた

よくある質問

文禄の役と慶長の役は、どう違うのですか

文禄の役は1592年4月の開戦から1593年の休戦までで、漢城の陥落や明軍の参戦がありました。慶長の役は1597年に講和交渉の決裂で再開し、1598年の秀吉の死去による撤退で終わりました。

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのですか

一つの理由には決まっていません。鶴松の死説、功名心説、領土拡張説、国内統一策の延長説など、学説が分かれています。元寇への復讐説やキリシタン排斥説は、否定されています。

亀甲船は本当に鉄の船だったのですか

確かではありません。構造を記した史料は後年の編纂物で、戦乱当時の記録には登場せず、『李忠武公全書』にも鉄板の記載がありません。実体は不明とされています。

朝鮮出兵はどちらが勝ったのですか

講和がないまま秀吉の死で終わったため、双方が勝利を主張しました。日本は撤退し、明と朝鮮は大きな被害を受けたため、どの国にも大きな損失が残る戦いでした。

朝鮮出兵は豊臣政権の滅亡に関係しますか

関係があるとされています。過大な兵役を課された西国大名は疲弊し、家臣団の分裂や内乱を招きました。朝鮮に出兵しなかった徳川家康が力を伸ばし、1600年の関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が確立しました。