結論:二人の親交は確かだが、関ヶ原の「挙兵密約」は裏付けがない
石田三成(1560〜1600年)と直江兼続(1560年頃〜1620年)は、豊臣政権の官僚と、上杉景勝の家老という立場で結びついた間柄である。確かな記録として残るのは、慶長3年(1598年)の上杉家の会津移封で二人が連署した掟書と、慶長4年(1599年)に三成の次女が兼続に託されて岡重政に嫁いだことだ。主君の異なる二人が連署するのは極めて珍しいとされる。
一方、有名な「三成と兼続が示し合わせて、東西から家康を挟み撃ちにした」という話は、江戸時代に成立した逸話集などに基づくもので、一次史料による裏付けはないとされる。関ヶ原の年、三成は敗れて11月に京都で斬首され、兼続は上杉家を米沢に残して元和5年(1620年)に江戸で病没した。二人は同じ永禄3年生まれとされ(兼続の生年は伝承による)、まったく違う結末を迎えた。
基本情報
石田三成
- 生没年:永禄3年(1560年)〜慶長5年10月1日(1600年11月6日)、享年41
- 時代:安土桃山時代
- 出身:近江国坂田郡石田村(現在の長浜市石田町)。父は石田正継、幼名は佐吉
- 立場:豊臣秀吉の家臣。天正13年(1585年)に従五位下・治部少輔に叙任
- 主な仕事:堺奉行、博多奉行、朝鮮出兵(文禄の役)での船奉行・軍奉行、京都奉行、検地の奉行
- 最期:関ヶ原の戦いに敗れ、京都の六条河原で斬首。遺骸は大徳寺三玄院に葬られた
直江兼続
- 生没年:永禄3年(1560年)頃〜元和5年12月19日(1620年1月23日)、享年60。生年は伝承による
- 時代:安土桃山時代から江戸時代初期
- 出身:越後。上杉家臣・樋口兼豊の長男と伝わる
- 立場:上杉景勝の家老。のちに米沢藩の政務を担った
- 主な仕事:上杉家の領国運営、会津・米沢での領内整備、長谷堂の戦い
- 最期:江戸の鱗屋敷で病死
石田三成と直江兼続の関係とは?連署した掟書と娘の縁組
豊臣政権の官僚と上杉家の家老
三成は天正14年(1586年)に堺奉行、天正15年(1587年)に博多奉行となり、検地の奉行も務めた。近江蒲生郡の太閤検地(天正12年)に始まり、美濃国(天正17年)、島津氏・佐竹氏の領国(文禄3年)でも検地を担当している。朝鮮出兵の文禄の役では船奉行として大規模な輸送計画に携わり、のちに軍奉行として朝鮮に渡った。戦場で槍を振るうより、物資と段取りで政権を動かす役回りだった。
兼続は、上杉景勝の領国を同僚の狩野秀治と共同で運営し、秀治の死後は単独で担った。信濃川の治水工事に関わって新潟平野の形成に影響を与えたとされ、佐渡攻め、小田原、朝鮮への出兵にも加わっている。上杉家を代表して豊臣政権と向き合う立場であり、政権の一員というより、他家の代表として官僚と接する側だった。
記録に残る接点:1598年の連署と娘の縁組
石田三成のページには、天正11年(1583年)に三成が秀吉の命で兼続らに書状を送り、提携を求めたことが書かれている。さらに慶長3年(1598年)、上杉家が会津へ移った際には、三成と兼続が連署した掟書が残る。主君の異なる二人の連署は極めて珍しいとされ、両者が上杉家の移封実務で直接やり取りしていたことを示している。
慶長4年(1599年)には、三成の次女・小石殿が、上杉家へ帰る兼続に託され、上杉家臣の岡重政に嫁いだ。この時期の三成には、上杉家や娘を守る思いもあったと考えられている。なお、天正14年(1586年)に上杉景勝・兼続が上洛した際に三成が出迎えたことが初対面とされ。ただし、いつ「友情」と呼べる間柄になったかを日付で示せる史料は、確かめた範囲にはない。
「友情」をどこまで言えるか
二人の間に私的な手紙が豊富に残り、互いの健康や家族を気遣っていた、という話はよく語られる。しかし、確かめられたのは上記の連署掟書と縁組の2点までで、書簡の文面を引いて友情を論じる材料は確認できなかった。史料の上で言えるのは、政権の実務の場で信頼関係があり、それが縁組にまで及んだ、というところまでである。感情の深さは、記録の外の話になる。
関ヶ原の「密約説」は本当か?二人の人物像と最期から検証する
密約説の根拠と、疑わしい点
「三成が会津の兼続と打ち合わせ、家康が会津へ向かった隙に大坂で挙兵した」という筋書きは、人気が高い。だが石田三成のページは、この説は江戸時代成立の逸話集などに基づくもので、一次史料による裏付けはないとする。さらに、慶長5年7月晦日付の真田昌幸宛ての書状からは、西軍決起の時点で三成が上杉側と確かな連絡経路を持っていなかったことがうかがえる、との考察も紹介されている。
西軍結成における三成の具体的な役割自体も、研究者によって評価が分かれる。したがって「二人が組んで家康を挟撃した」とは書けない。書けるのは、会津征伐に対抗して西軍が組織されたこと、兼続のもとには三成から、堀秀治が西軍側についたという知らせが届いたことが記されている、という範囲である。
直江状と長谷堂の戦い
家康を激怒させたとされる「直江状」は、会津征伐のきっかけとして有名である。ただし、文面は偽書、または後世に大幅に改竄された可能性があると指摘されている。一方で、家康の上杉征伐を諫めた奉行衆の書状があり、兼続の書状が存在したこと自体は事実のようだとされる。つまり「あの挑発的な文面の通りだった」とは言えないが、何らかの返書が出たことは確からしい。
関ヶ原と同じ時期、上杉軍は最上領へ攻め込んだ。長谷堂城には上杉軍本隊1万8000名が力攻めを行ったが、志村光安・鮭延秀綱ら1000名の守備兵が頑強に抵抗した。9月29日に関ヶ原の敗報が届くまで約2週間足止めされ、城は落ちなかった。撤退戦の見事さは語り草となり、最上義光らにも称賛されたと記されている。
三成の最期と、兼続のその後
関ヶ原で三成は笹尾山に布陣した。小早川秀秋らの裏切りで西軍が崩れると伊吹山方面へ逃れたが、のちに捕らえられ、慶長5年10月1日(1600年11月6日)に六条河原で斬首された。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。遺骸は大徳寺三玄院に葬られた。
慶長6年(1601年)、景勝は上洛して家康に謝罪し、上杉家は会津から米沢へ減らされて移った。兼続は米沢の6万石(寄騎を含めると30万石)を治め、「家臣と家族3万人」を養おうとしたと記されている。最上川上流の堤防「直江石堤」(約3キロメートル)の築造、新田開発、青苧の増産、商業の振興、鉱山開発に取り組んだ。慶長13年(1608年)には名を重光と改めている。
掘り下げ:「三杯の茶」と「愛の兜」の逸話は史実か
三成の「三杯の茶」は後世の創作とする説もある
三成が寺の小姓だったころ、鷹狩り帰りの秀吉に、温度を変えた三杯の茶を出して気に入られた――この逸話の最古級の史料は、江戸時代の『武将感状記』(1716年成立)である。三成の息子が記した『霊牌日鑑』では、三成は18歳のとき姫路で秀吉に仕えたとされ、食い違いがある。このため後世の創作とする説がある。舞台の候補として、伊吹山の観音寺(米原市)説と、古橋村の法華寺三珠院または飯福寺説がある。
実際の仕官については、元亀2年(1571年)頃に父と次兄の正澄が秀吉に臣従したとみられ、三成も続いて仕えたと考えられているが、一次史料で動向を追うことはできない、とされる。
兼続の「愛」の字は、兼続が作らせた兜ではない?
「愛」の字を前立にした兜は、上杉神社の稽照殿に伝わる。「愛」の由来としては、上杉謙信が愛宕神社に戦勝祈願した文書から、愛宕の「愛」とする説が有力とされる。さらに、この兜と前立は兼続が作らせたものではなく、謙信か景勝が拵えたものを下賜されたと考察されている。「愛」を慈愛の思想の表れとして語る話は多いが、少なくとも由来の有力な説は、そうではない。
評価の変遷:逆賊から再評価へ
三成は、家康に敵対したことから江戸時代には奸臣のように描かれることが多かった。一方で、水戸藩主・徳川光圀は『桃源遺事』で、主君のために心を尽くした人物として三成を憎むべきではないと記している。近現代では、実証史学の進展により評価の見直しが進められているとされる。
三成は禅に深く帰依し、大徳寺の円鑑国師に参禅した。母や父の菩提を弔うために寺院を建立・寄進し、高野山には一切経を納めた経蔵を寄進した。茶の湯や和歌、儒学者・藤原惺窩への敬意など、教養の深さも伝えられている。兼続も教養人で、書物の収集家として知られる。米沢藩の学問所「禅林文庫」は、のちの興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)につながるもので、兼続が創立したと記されている。
ゆかりの地と関連する人物
石田三成のゆかりの地
- 石田町(滋賀県長浜市):生誕地とされ、出生地碑がある
- 佐和山城跡(彦根市):三成の居城。佐和山遊園内に墓所がある
- 龍潭寺(彦根市):佐和山城の古材を用いた茶室「果然室」が残る
- 関ヶ原・笹尾山:三成が布陣した陣跡
- 大徳寺三玄院(京都市):遺骸が葬られた寺。1907年に渡辺世祐が墓を発掘し、遺骨はのちに三玄院に戻された
- 高野山奥の院、妙心寺壽聖院:供養の場として挙がる
- 湖東地域(長浜市・米原市・彦根市):三成の知行地で、顕彰活動が行われている。2019年にはゆかりの地7か所に「三成マンホール」が設置された
直江兼続のゆかりの地
- 米沢市:上杉神社の稽照殿に「愛」の前立の兜が伝わる。松岬神社には、1938年に兼続が祀られた
- 林泉寺(米沢市):墓所のひとつ。墓は徳昌寺から東源寺を経て、藩庁の裁定で林泉寺に合祀された
- 妙心寺(京都市右京区)、高野山清浄心院:墓所または分骨の地として挙がる
- 長岡市与板町の徳昌寺:遺臣が移したとされる位牌がある
- 与板(越後):直江家の城のあった地。坂戸城下は生誕地の一説
関連する人物
- 上杉景勝:兼続の主君。慶長6年に上洛して謝罪し、米沢へ移った
- 島左近:三成の家臣。仕えた時期は1590年説(近年有力)と1595年説がある。関ヶ原前、早期の決起を見直すよう進言したが、三成は聞き入れなかったとされる
- 最上義光:長谷堂で上杉軍と戦い、兼続の撤退を称賛した側の人物
よくある質問
石田三成と直江兼続は本当に親友だったのですか?
親密な関係を示す記録はあります。1598年の会津移封で連署した掟書と、1599年に三成の次女が兼続に託されて嫁いだ件です。ただし、私的な書簡の文面を引いて「親友」と断定できる材料は確かめられませんでした。
二人は関ヶ原で示し合わせて挙兵したのですか?
示し合わせたとする説は、江戸時代成立の逸話集などに基づくもので、一次史料による裏付けはないとされます。西軍決起の時点で、三成が上杉側と確かな連絡経路を持っていなかったことがうかがえるとの考察もあります。
直江兼続の「愛」の兜は兼続が作ったのですか?
兼続が作らせたものではなく、謙信か景勝が拵えたものを下賜されたと考察されています。「愛」は愛宕神社の「愛」とする説が有力とされます。
直江兼続と石田三成の墓はどこにありますか?
三成は京都の大徳寺三玄院に葬られました。兼続の墓所は米沢市の林泉寺や松岬神社、京都市の妙心寺などが挙がり、分骨は高野山清浄心院に納められたとされます。




