平賀源内

結論:源内の代表作は「修復・復元」したエレキテル。発明の多くは模倣と改良だった

平賀源内(1728年〜1780年)の発明品として確かな記録があるのは、エレキテル、寒熱昇降器(温度計)、量程器(距離計)、磁針器、火浣布、金唐革紙(擬革紙)などである。いずれも、外国の品や知識をもとに日本で作り直したものが中心で、ゼロから生み出した発明とは性格が違う。

いちばん有名なエレキテルも、長崎で手に入れた壊れた静電気発生装置を修復し、模造に成功したものだ。一方、「土用の丑の日」のうなぎや竹とんぼのように、源内の発明とされながら裏づけが乏しい話もある。この記事では、記録のあるものと俗説を分けて紹介する。

基本情報

  • 生没年:享保13年(1728年)〜安永8年12月18日(1780年1月24日)。没年齢は史料により48歳・51歳・52歳と食い違う
  • 出身:讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)。高松藩の蔵番を務める家の三男
  • 時代:江戸時代中期
  • 身分:本草学者、鉱山開発者、戯作者など。高松藩に仕えたが、のちに辞職した
  • 主な業績:エレキテルの復元、寒熱昇降器、量程器、火浣布、金唐革紙、『物類品隲』の刊行、物産会の開催
  • 墓所:東京都台東区橋場(国の史跡)、香川県さぬき市志度の自性院にも墓がある

平賀源内の発明品一覧:記録で確かめられるもの

エレキテル:壊れた輸入品を直して模造した

エレキテルは、ハンドルを回してガラスを摩擦し、静電気を起こして銅線から放電させる装置である。内部には電気をためる蓄電瓶(ライデン瓶)を備える。日本には、1765年に後藤梨春の『紅毛談』で紹介されていた。

源内は明和7年(1770年)、長崎に滞在した際に、破損したエレキテルを手に入れたとされる。入手先は古道具屋とも、オランダ通詞の西善三郎ともいわれ、はっきりしない。安永5年(1776年)、江戸の深川で、工人の弥七らとともに模造に成功した。

源内は電気が起きる理由を、陰陽論や仏教の考え方で説明したとされる。原理を十分に理解しないまま修復した、という説もある。装置は見世物や医療器具として使われ、収入の手段にもなった。ただし、人々の関心は主に珍しさに向いていた。

平賀家に伝わったエレキテルは、1997年に重要文化財(歴史資料)に指定され、東京都墨田区の郵政博物館に収蔵されている。香川県さぬき市の平賀源内先生遺品館にも、蓄電瓶のない1台が残る。

寒熱昇降器:日本で早い温度計の試み

明和2年(1765年)に作られた温度計が寒熱昇降器である。実物は現存しない。残された記述から、アルコール温度計で、目盛りは華氏だったと推定されている。実物がないため、精度や使われ方は確かめられない。

量程器と磁針器:20代の最初期の作

宝暦5年(1755年)、源内は量程器(距離計)と磁針器(方位磁針)を作った。磁針器はオランダ製の品を模したものである。源内が長崎に遊学したのは1752年頃で、その直後にあたる。この時期の源内は、藩の蔵番を辞めて家督を妹の婿養子に譲ったばかりだった。

火浣布:石綿で織る燃えない布

鉱山開発の中で源内は、石綿(アスベスト)を見つけ、これを使った燃えない布「火浣布」を作ろうとした。『火浣布略説』という著作がある。石綿は、秩父の中津川での鉱山開発(1766年〜)で見つかったものの一つである。

金唐革紙(擬革紙):和紙で作る革の代用品

金唐革は、革に模様を押して金銀で飾った輸入の工芸品である。源内は和紙を使ってこれを模した金唐革紙を作った。金銀銅の国外流出を防ぐ狙いがあったとされる。

これらの試みは、実用化や事業化に結びつかないものが多く、評価は分かれている。

発明家というより「プロデューサー」:本草学・鉱山・出版の仕事

日本初の物産会と『物類品隲』

源内は宝暦7年(1757年)に、日本で最初とされる物産会を発案した。宝暦12年(1762年)には、江戸の湯島で「東都薬品会」を開いている。身分を問わず参加できた点が特徴で、博覧会の先駆けと見る向きがある。

翌年の宝暦13年(1763年)に刊行した『物類品隲』は全6巻で、黒砂糖から白砂糖を作る方法も載せている。宝暦11年(1761年)には、伊豆で芒硝(硫酸ナトリウム)を発見したとされる。

鉱山開発の成功と失敗

源内は鉱山開発にも関わった。明和3年(1766年)から、川越藩主の秋元凉朝の依頼で秩父の中津川に入った。一方、安永元年(1772年)から始めた鉄山の事業は、精錬の技術が未熟で、源内自身も「吹方熟し申さず」と認めている。安永3年(1774年)に休山となり、地元の記録には「目論見人平賀源内大しくじり」とある。

発明の多くが実を結ばなかったという評価は、こうした失敗とも重なる。

秋田での蘭画の伝授

安永2年(1773年)、源内は秋田藩主の佐竹義敦に招かれ、阿仁鉱山を訪れた。角館では、小田野直武に西洋画の技法を伝えたとされる。源内自身も、「西洋婦人図」(神戸市立博物館蔵)などの西洋画を描いている。

俗説の見分け方:源内が発明したとされる話の真偽

土用の丑の日とうなぎ

「土用の丑の日にうなぎを食べる風習は源内が広めた」という説は有名である。しかし、源内とこの風習を結びつける一次資料はなく、根拠ははっきりしない。

確かなのは、源内が広告文を書いた記録がある点だ。歯磨き粉「漱石膏」(1769年)の宣伝文や、清水餅の広告(1775年)を手がけており、「コピーライターのはしり」と評される。うなぎの話は、この印象から広がった可能性もあるが、それを裏づける史料は確認できなかった。

竹とんぼは源内の発明か

竹とんぼを源内の発明とする説もある。しかし、竹とんぼは源内よりも前から存在したとする見方が有力で、発明者とは言えない。

秋田の紙風船と熱気球の話

秋田の上桧木内では、源内が熱気球の原理を使った遊びを教え、それが紙風船上げの起源になったという伝承がある。ただし、伝承の域を出ない。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 平賀源内墓(東京都台東区橋場):旧総泉寺にあった墓で、杉田玄白が私財を投じて建てたとされる。昭和18年(1943年)5月1日に国の史跡に指定された
  • 自性院(香川県さぬき市志度):義弟の平賀権太夫が建てたと伝わる墓があり、毎年12月に法要が行われる
  • 郵政博物館(東京都墨田区):重要文化財のエレキテル(平賀家伝来)を収蔵する
  • 平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市):蓄電瓶のないエレキテルが1台残る

関連する人物

  • 杉田玄白:源内の墓を建てたとされる人物
  • 小田野直武:秋田で源内から蘭画の技法を学んだとされる
  • 後藤梨春:『紅毛談』でエレキテルを紹介した人物
  • 田村元雄(藍水):源内が江戸で本草学を学んだ師
  • 鈴木春信:源内とともに絵暦交換会を開き、浮世絵の隆盛に寄与したとされる

よくある質問

平賀源内の発明で最も有名なものは何ですか。

エレキテルである。ただし発明ではなく、長崎で入手した壊れた装置を修復し、安永5年(1776年)に江戸の深川で模造に成功したものである。

平賀源内は温度計を作りましたか。

明和2年(1765年)に寒熱昇降器を作った。実物は残っておらず、アルコール温度計で、目盛りは華氏だったと推定されている。

土用の丑の日は源内の発明ですか。

源内が広めたという説は有名だが、結びつける一次資料はなく、根拠ははっきりしない。源内が歯磨き粉などの広告文を書いたことは記録にある。

平賀源内はどのように亡くなりましたか。

安永8年(1779年)11月20日に人を殺傷する事件を起こして投獄され、12月18日に破傷風で獄死したとされる。事件の経緯は、史料によって説明が分かれている。