蔦屋重三郎の子孫と家系図|実子は不明、屋号は番頭が継いだ

結論:蔦屋重三郎の実子は確認できず、屋号は番頭の勇助が二代目として継いだ

初代・蔦屋重三郎に子がいたのかどうか、はっきりしたことは分かっていません。妻子の詳細は伝わらず、実子についての記録も見当たらないからです。血のつながりで家系図を描くことはできませんが、「蔦屋」という店は途切れませんでした。初代の没後は、番頭で婿養子の勇助が二代目を継ぎ、書物問屋・地本問屋として文久元年(1861年)の四代目まで続いたとされます。

つまり蔦屋の「家」は、血筋ではなく店と屋号の相続でつながっています。この記事では、重三郎の出自、家族について分かっていること、二代目以降の蔦屋、墓所の順に整理します。なお、現代に生きる子孫の話は扱いません。

基本情報

  • 生没年:寛延3年1月7日(1750年2月13日)〜寛政9年5月6日(1797年5月31日)。没年齢は47歳とされることが多いが、曲亭(滝沢)馬琴の記録では48歳
  • 時代:江戸時代中期〜後期
  • 立場:版元(書肆「耕書堂」の主人)。本名は喜多川柯理(からまる)
  • 生まれ:新吉原(現在の台東区千束)。生まれたときの姓は丸山
  • 家の要点:実子は確認できず、番頭の勇助が婿養子として二代目を継いだ。蔦屋は四代目(文久元年)まで続き、五代目は明治初めまで小売のみを続けたとされる
  • 墓所:台東区の正法寺

蔦屋重三郎の家系図|生い立ちから家族まで

実の父母と、喜多川氏への養子入り

重三郎は新吉原で生まれました。石川雅望が書いた『喜多川柯理墓碣銘』と、大田南畝の顕彰碑文によると、父は尾張の丸山重助、母は江戸の広瀬津与です。生まれたときの姓は丸山でした。

7歳ごろに父母と別れ、商家の喜多川氏の養子になります。「蔦屋」は、この喜多川氏の店の屋号でした。養父の商売が何だったかは分かっておらず、吉原の茶屋に関係した人物とする説もありますが、確証はありません。重三郎の家系をさかのぼれるのは、このあたりまでです。

妻と子について分かっていること

妻子の詳細は分かっていません。過去帳に、文政8年10月11日の日付で「錬心妙貞日義信女」という戒名が残っており、これが妻にあたると見られています。ただし、実子がいたことを示す記述は見当たりません。

母の津与は寛政4年10月に亡くなりました。重三郎の没年の5年前にあたります。重三郎に実子がいたとしても、その名や事績は、少なくとも今に伝わっていません。

家系を簡単にまとめると

  • 実父:丸山重助(尾張の人)、実母:広瀬津与(江戸の人)
  • 養家:喜多川氏(屋号は蔦屋)。重三郎は本名を喜多川柯理と名乗った
  • 妻:過去帳の「錬心妙貞日義信女」にあたると見られている
  • 子:実子は確認できない
  • 後継:番頭で婿養子の勇助(二代目蔦屋重三郎)

蔦屋はどう続いたか|二代目以降・墓所・よくある誤解

二代目・勇助は番頭から婿養子へ

重三郎の死後に店を継いだのは勇助です。馬琴の記録によると、勇助は日本橋周辺の版元・伊賀屋勘右衛門の妻の従弟で、初代の番頭をしていた人物で、婿養子として家に入りました。番頭が、そのまま家と屋号の継ぎ手になったわけです。

二代目は、書物問屋の家業を中心に据え、北斎の作品の刊行を始めました。

店は四代目まで続き、五代目は小売のみに|店の場所の移り変わり

蔦屋は、書物問屋・地本問屋として四代目の文久元年(1861年)まで続きました。初代が亡くなった寛政9年(1797年)から数えると64年後です。そのあとの五代目重三郎は、明治の初めまで小売だけを続けたとされます。三代目の人物や事績については、確かめられる記述が見当たりませんでした。

初代の店は、安永2年(1773年)に吉原五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書肆「耕書堂」を始めたのが出発です。天明3年(1783年)9月には、日本橋通油町の丸屋小兵衛の店を買い上げて進出し、ここを耕書堂の本店にしました。吉原の店は手代の徳二郎に任せています。

その後、店は通油町から横山町一丁目、小伝馬町二丁目、浅草並木町の雷門内、浅草寺中の梅園院の地借り(市右衛門)へと移りました。吉原の間借りから始まった店が、日本橋に本店を構え、のちに浅草へ移っていきました。

墓所と顕彰碑|正法寺に眠り、碑文は写しで残る

重三郎は台東区の正法寺に葬られました。法名は「幽玄院義山日盛信士」です。正法寺には、重三郎の生涯を記した「喜多川柯理墓碣銘」と、「通油町 蔦屋」と刻まれた墓碑があります。

石川雅望が撰した「喜多川柯理墓碣銘」と、大田南畝が浅草の正法寺に建てた実母の顕彰碑文は、どちらも震災や戦災で実物が失われました。今は、原念斎の『史氏備考』に転写された文が手がかりです。重三郎の生い立ちや両親の名が分かるのは、この写しのおかげです。

よくある誤解:「蔦屋の子孫」が分かるわけではない

「蔦屋重三郎の子孫」と聞くと、血筋の続く家系図を思い浮かべがちです。しかし確かめられるのは、先に述べた屋号の相続までで、重三郎の血を引く人物の名は史料から追えません。蔦屋の「家」は、勇助以降の番頭・婿養子の系統として続いたと整理するのが、確かな事実に沿った見方です。

ゆかりの地と関連する人物

  • 新吉原(台東区千束):重三郎の生まれた土地で、吉原五十間道には最初の店「耕書堂」があった
  • 日本橋通油町:天明3年(1783年)に店を買い上げて本店とした場所
  • 正法寺(台東区):墓所。「通油町 蔦屋」の墓碑がある
  • 石川雅望・大田南畝:重三郎の墓碣銘と顕彰碑文に関わった人物
  • 曲亭(滝沢)馬琴:二代目の素性を記録した人物
  • 勇助:初代の番頭で、婿養子として二代目を継いだ

重三郎の最期や没後の蔦屋は、蔦屋重三郎の死因は脚気?47歳の最期と没後の蔦屋で詳しく書いています。重三郎と写楽をめぐる謎は、蔦屋重三郎と写楽の正体は?斎藤十郎兵衛説と別人説を検証を、版元としての出発点は平賀源内と蔦屋重三郎──江戸の天才と仕掛人が交差した“吉原細見”の真実をどうぞ。血筋が娘を通じて残った別の例として、豊臣秀次の子孫と家系図とも読み比べられます。

よくある質問

蔦屋重三郎に子どもはいましたか?

実子がいたという記述は見当たりません。妻子の詳細は分かっておらず、妻にあたると見られる人物が過去帳に戒名で残っているだけです。

蔦屋重三郎の後を継いだのは誰ですか?

初代の番頭で、婿養子となった勇助です。馬琴の記録によると、日本橋周辺の版元・伊賀屋勘右衛門の妻の従弟にあたります。

蔦屋はいつまで続きましたか?

書物問屋・地本問屋として、文久元年(1861年)の四代目まで続きました。五代目の重三郎は、明治の初めまで小売のみを続けたとされます。

蔦屋重三郎の墓はどこにありますか?

台東区の正法寺です。法名は「幽玄院義山日盛信士」で、寺には「喜多川柯理墓碣銘」と「通油町 蔦屋」の墓碑があります。

蔦屋重三郎の家系図は残っていますか?

系図の形では確かめられません。実父母の名、養家の喜多川氏、二代目の勇助までは分かりますが、実子の系統は史料から追えません。

ほかの人物の家の続き方は、歴史上の人物の子孫と家系図まとめ|家はどう続いたかにまとめています。