シーボルト事件をわかりやすく解説! 決闘、そしてミミズが語る真実

結論:シーボルト事件は「国禁の日本地図の入手」が原因。座礁船で発覚したという通説は後世の創作とされる

シーボルト事件は、1828年(文政11年)に発覚した、国外持ち出しが禁じられていた日本地図をめぐる事件です。ドイツ人医師シーボルトは1829年(文政12年)10月に国外追放と再渡航禁止の処分を受け、地図を渡した幕府の天文方・高橋景保は獄中で亡くなったあと、死罪の判決を受けました。

よく知られた「帰国する船が嵐で座礁し、荷物から地図が見つかった」という話は、長く通説でした。ところが1996年に梶輝行がこの逸話を後世の創作だと指摘し、現在は江戸で露見したとする説が有力です。この記事では、その検証と、シーボルトが学生時代に33回の決闘をしたという話、そして「シーボルトミミズ」の名前の由来を、確かめられる範囲で整理します。

基本情報

  • 人物:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年生、1866年10月18日没。70歳)
  • 時代:江戸時代後期(文政年間)
  • 立場:ドイツ出身の医師。長崎の出島のオランダ商館医として1823年(文政6年)8月に来日
  • 主な活動:1824年に鳴滝塾を開き、西洋医学を教えた。1825年に出島に植物園を作った
  • 事件の結果:1829年10月に国外追放と再渡航禁止。1859年(安政6年)に再来日
  • 没した地:ドイツのミュンヘン。風邪をこじらせ、敗血症を併発したとされる

シーボルト事件とは? 地図の交換から処分までの流れ

高橋景保との地図交換

幕府は国防上の必要から、伊能忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」を作らせ、1821年(文政4年)に完成しました。忠敬の死後、仕上げを監督したのが天文方の高橋景保です。

シーボルトは1826年(文政9年)4月の江戸参府の際に景保と交流しました。そこで、景保が求めていた『世界周航記』と、日本地図の写しを交換する話がまとまります。学者同士の知識の交換という面と、国の機密に当たる地図が外国人の手に渡るという面が、重なっていたわけです。

発覚のきっかけは一通の手紙

江戸参府のあと、シーボルトは蝦夷地で採集された押し葉標本を求めて、間宮林蔵に書簡と布地を送りました。間宮はこれを開封せずに上司へ提出し、これが事件の発端になったとされています。

長く「間宮が告発した」と語られてきましたが、現在は検証が進んでいます。2019年には中野用助の報告書の写しが見つかり、江戸で露見したとする説を裏付けたとされています。

関係者への処分

景保は江戸で逮捕され、1829年3月に獄死しました。その後に死罪の判決が下り、遺体が斬首されています。子どもたちは遠島になりました。

シーボルトは出島で軟禁され、尋問と家宅捜索を受けました。地図は押収されましたが、事前に複製を持ち出していたと伝えられています。1829年10月、国外追放と再渡航禁止が決まりました。

処分は日本人にも及びました。眼科奥医師の土生玄碩は改易のうえ終身禁固となり(のちに赦免)、門人や通詞、絵師の川原慶賀ら50数人が処罰されています。この事件は、蘭学者への弾圧である蛮社の獄に先立つ出来事と位置づけられています。

座礁船で発覚した説は本当か? 通説の検証

従来の通説

従来の通説は次のような筋書きでした。1828年9月の台風(シーボルト台風)でオランダ船が座礁し、積み荷から禁制品の地図が見つかって事件が表に出た、というものです。

1996年の指摘と現在の見方

1996年に梶輝行が、この座礁船のくだりを後世の創作だと指摘しました。以後は、前の節の手紙をきっかけに江戸で露見したとする説が有力になり、2019年の史料発見がそれを支えています。

事件後のシーボルトと地図

1840年(天保11年)には、オランダで伊能図に基づく日本地図が刊行されました。シーボルトは地図を押収されましたが、事前に複製を持ち出していたとされます。この刊行との関係を直接示す記述は確認できなかったため、ここでは刊行の事実だけを挙げておきます。

シーボルトは1858年の日蘭修好通商条約で再渡航禁止が解かれたのち、1859年に長男アレクサンダーとともに再来日し、1861年には幕府の対外交渉のための顧問となりました。1862年5月に長崎から帰国しています。

33回の決闘は本当か? 来日までの意外な素顔

「学生時代に33回」という話

シーボルトは大学在学中に決闘を33回行い、顔に傷も負ったとされています。当時は決闘が一般的だったとも書かれています。研究者のイメージとは違う荒々しい一面ですが、「33回」の数字は伝えられている話であり、一回ごとの記録まで確かめられたものではありません。勝敗の内訳も、確かな資料では確認できませんでした。

来日までの歩み

1822年7月に「オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐」となり、9月にロッテルダムから出航しました。1823年3月にバタヴィア近郊の砲兵連隊付きの軍医となり、東インド自然科学調査官も兼ねています。6月末にバタヴィアを出て、8月に長崎の出島に着き、オランダ商館医になりました。

「山オランダ人」のエピソード

来日の際、ドイツ人であるシーボルトは、オランダ語の発音を通辞に怪しまれたものの、「山オランダ人」と偽って疑いを切り抜けたとされています。なお、よく見かける「ヤマホランダ」という呼び方は、確認できた資料には出てきませんでした。

シーボルトミミズの名前の由来と、日本の生物学への足跡

命名の経緯

シーボルトミミズ(学名 Pheretima sieboldi)は、シーボルトが持ち帰った標本にちなむ大型のミミズです。命名者のHorstがシーボルトに献名しました。日本産のミミズで、初めて学名が与えられた種とされています。ただし、正確な採集地は記載されていません。

どんなミミズか

体長は247〜280mm、体幅は14〜15mmで、体節は135〜152あります。原記載では27cmとされ、最大で40cmに達するという記述もあります。生きているときは濃紺色で、ホルマリンで固定すると鮮灰色になります。

日本固有種で、中部地方以西の太平洋側に分布します。紀伊半島、四国、九州南部では比較的普通に見られますが、屋久島と沖縄にはいません。寿命は卵の時期を含めて約3年で、同じ地域の個体は同じ世代に属し、産卵は毎年ではなく、成体が現れるのは数年おきとされています。冬は谷底に集まり、春と秋に斜面との間を移動します。

シーボルトの博物学の仕事

シーボルトは出島に植物園を作り、1400種以上を栽培しました。帰国後の1832年にはライデンで家を借り、集めた品々を展示する「日本博物館」を開きました。研究の集大成として全7巻の『日本』を刊行し、ツッカリーニとの共著で『日本植物誌』も出しています。『日本動物誌』はライデンの動物学者らによる研究として刊行されました。

ゆかりの地と関連する人物

長崎:鳴滝塾跡とシーボルト記念館

長崎市鳴滝には、国指定史跡のシーボルト宅跡(鳴滝塾跡)があります。その隣に、市立のシーボルト記念館が1989年(平成元年)10月1日に開館しました。所在地は長崎市鳴滝2丁目7番40号です。

ミュンヘン:墓所

シーボルトの墓は、石造りの仏塔の形をしており、旧ミュンヘン南墓地にあるとされています。生まれたのはヴュルツブルクです。

関係の深い人物

  • 高橋景保:天文方。地図の交換の相手で、獄死後に死罪の判決を受けた
  • 間宮林蔵:シーボルトの書簡を開封せず上司に提出した人物
  • 鳴滝塾の塾生:高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら
  • 楠本滝と楠本イネ:滝はシーボルトと一緒になった日本女性で、1827年に娘のイネが生まれた
  • 川原慶賀:事件で処罰された絵師

よくある質問

シーボルト事件はいつ、何が原因で起きたのですか?

1828年に発覚したとされ、原因は国外持ち出しが禁じられていた日本地図を、天文方の高橋景保がシーボルトに渡したことです。1826年の江戸参府で『世界周航記』と地図の写しを交換する話がまとまりました。

船の座礁で見つかったというのは事実ですか?

長く通説でしたが、1996年に後世の創作だと指摘されました。今は、シーボルトが間宮林蔵へ送った書簡が上司に提出されたことをきっかけに、江戸で露見したとする説が有力です。

シーボルトはその後日本に戻れましたか?

戻れました。1858年の日蘭修好通商条約で再渡航禁止が解かれ、1859年に長男アレクサンダーと再来日しています。1861年に幕府の顧問となり、1862年5月に長崎から帰国しました。

シーボルトミミズはなぜその名前なのですか?

シーボルトが持ち帰った標本をもとに、Horstが彼に献名したためです。日本産のミミズで初めて学名が与えられた種とされています。