結論:生きていても「すぐ天下統一」とは言い切れないが、織田政権は続いた可能性が高い
織田信長は天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)、京の本能寺で明智光秀の謀反に遭い、自害したとされる(焼死とする記録もある)。享年49。遺体は見つからなかったとされる。もしこの夜を生き延びていたら、という問いに答える史料は当然ない。ただ、事件の直前に信長が何を進めていたかは史料で追える。
この記事は、その史実を材料にした考察である。確かめられるのは「1582年の時点で何が動いていたか」までで、その先は私の推測になる。推測の部分はそのつど「考える」と書き分ける。結論を先に言えば、東国の大名を従え、中国・四国・北陸・関東に大軍を展開していた織田家は、信長が生き延びれば遠征を続けた可能性が高い。しかし、天下統一の時期や統治の形までは、史料からは決められない。
基本情報
- 人物:織田信長(戦国時代から安土桃山時代の武将)
- 没年:天正10年(1582年)、享年49
- 最期:6月2日未明、本能寺で明智光秀の襲撃を受け、自害したとされる
- 官位:天正5年(1577年)に従二位・右大臣、翌年1月に正二位。天正6年(1578年)4月に右大臣と右近衛大将を辞した
- 居城:安土城(天正4年に築城を決め、同年4月に着工。天正7年5月に天守が完成)
- この記事のテーマ:本能寺の変で死ななかった場合に何が起こり得たか(仮定の考察)
本能寺の変前夜に、信長は何を進めていたのか
本能寺にいた信長は、ほぼ無防備だった
本能寺の変の前日、6月1日に信長は本能寺に公卿・僧侶ら約40名を招いて茶会を開いた。6月4日には堺から淡路へ向かう予定だったとされるが、実現しなかった。信長に付き従っていたのは小姓衆のみで、供廻りは連れていなかった。人数は諸説あり、20〜30人とする説から150〜160人とする説まである。茶道具の名器38点を携えて上洛していたという。
一方の光秀は、1万3,000人の手勢を率い、6月1日に丹波亀山城を出た。信長の側にこの動きを止める力はほとんどなかった。「もう少し兵を連れていれば」という仮定が成り立つとしても、13,000に対する差は大きい。生き延びる道があったとすれば、襲撃を事前に知るか、別の場所にいるかのどちらかだったと考える。
家臣団は各地に散っていた
事件の時点で、織田家の主力は列島のあちこちに出払っていた。
- 柴田勝家:越中・能登。上杉景勝らと交戦中で、魚津城を包囲していた(兵力は約48,000のうち魚津城の囲みに15,000)
- 滝川一益:上野国の厩橋城。関東の警固役に任じられ、越後への進出を予定していた
- 羽柴秀吉:備中で高松城を包囲し、毛利勢と対陣していた
- 神戸信孝・丹羽長秀:和泉・摂津に約14,000。信孝は5月11日に住吉へ出陣し、四国渡海の準備中だった
- 徳川家康:5月中旬に安土を訪れ、その後は堺や京を見物していた
信長はすでに甲州征伐で武田勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅ぼしていた。長宗我部元親の討伐を決めて三男の信孝に出兵の準備をさせ、毛利氏攻めの準備も進めていた。つまり1582年の信長は、東・北・西・南の四方面で同時に戦う態勢だった。この態勢が崩れなければ、各戦線は続いたはずだ。
四国をめぐる問題
光秀の動機は、いまも一つに定まっていない。Wikipediaは、光秀の単独行動とする説(怨恨・野望・正義感)、背後に黒幕がいたとする説などに分けて紹介している。光秀自身の記録が少ないことも、決着がつかない理由の一つである。
信長が光秀を辱めたという有名な逸話(家康の接待役を外した話など)は、後世の成立で信頼できない、あるいは作り話の可能性が高いとされる。一方、長宗我部氏に対する信長の方針転換で光秀の立場が傷ついた、という見方は紹介されている。生きていた信長が光秀の反逆を前もって知ったとしても、動機が確定しないかぎり、光秀の処分を断言することはできない。
もし信長が生きていたら――天下統一と政権の姿を考える
天下統一の時期はいつか
史実では、本能寺の変の後に羽柴秀吉が6月13日の山崎の戦いで光秀を破り、のちに豊臣政権を築いた。秀吉は、信長の後継をめぐる6月27日の清洲会議にも加わっている。史実の秀吉がたどった道は、信長の時代に先に進んでいた各戦線の延長にあったとも言える。
では信長が生きていたら、統一はいつか。私は、西は毛利・長宗我部、東は関東、北は上杉という残る戦線を、信長が同じ顔ぶれの大軍で攻め続けると考える。ただし年号を特定する材料はなく、「1585年ごろ」といった年を挙げる根拠は私にはない。分かるのは、勢力としては天下統一に最も近い位置にいたことだけである。
朝廷との関係と官位
信長の官位への態度は、仮定を考える手がかりになる。天正6年4月に右大臣と右近衛大将を辞した際、信長は顕職を嫡男の信忠に譲りたいと望んだ。ただし信忠への譲与は実現しなかった。
天正9年2月28日と3月5日には、京都で馬揃えを行った。3月7日に朝廷は信長を左大臣に推任したが、信長は、誠仁親王の即位のときに受けたいと返答したとされる。さらに、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じるという三職推任の話も持ち上がっていた。信長は官職をすぐには受けず、自分の都合のよい時に決めようとしていたようにも見える。生きていれば、この三職のどれを選ぶかが、統一後の政権の形を決める最初の節目になったと考える。
後継者の問題
史実の織田家は、本能寺の変で信長と嫡男の信忠を同時に失った。信忠は妙覚寺から二条御新造に移り、明智軍と戦って自害した。手勢は数百人で、馬廻衆が合流して1,000〜1,500人ほどになったとされる。
清洲会議では、信長の嫡孫である三法師(当時3歳)が家督を継ぎ、叔父の信雄と信孝が後見人になった。秀吉は播磨・但馬に加えて河内・山城の増領を得た。つまり、信長と信忠が揃って生き残れば、この家督争いは起こらない。変の後に起きた織田家内部の主導権争いは、信長の生存でほぼ消えるはずだ。この点は、仮定の中でも確度が高い部分だと考える。
信長の政策と「その先」を読む
楽市楽座は本当に信長の発明か
信長が統一後に進めたであろう経済政策を考えるとき、必ず挙がるのが楽市・楽座である。信長が出した楽市令には、次の例がある。
- 永禄10年(1567年)10月:美濃・加納の「楽市場」宛の制札(「楽座」の文言はない)
- 永禄11年(1568年)9月:美濃・加納で、初めて「楽市楽座」の文言を使った制札
- 元亀3年(1572年)9月:近江・金森の「楽市楽座」の制札
- 天正5年(1577年)6月:近江・安土山下町中の定め(「楽座」の文言はない)
ただし、信長が最初に行ったとは限らない。確認できる楽市の最初の例は、近江の六角氏による1549年の石寺新市とされる。また、「楽座」を座の否定とする通説に対し、座商人に課された座役銭を免除する意味だと論じる研究もある。評価は分かれており、「信長が自由経済をつくった」と単純には言えない。
関所廃止・道路・貨幣・枡
流通の面では、不要な関所の撤廃が信長の特徴として挙げられ、他の大名に例がない政策と考えられている。天正2年(1574年)末からは奉行4人に命じて道路の整備を行わせ、翌年も続けて領国に広く実施した。
貨幣では、良質な銭と悪質な銭の価値の比率を定める撰銭令を出した。他の撰銭令と違い、すべての銭に比率を定めたことが特徴だが、効果は限定的だったとされる。また、京枡が織田領国で統一的に採用され、のちの豊臣・徳川政権に受け継がれたとされる。これらを見ると、信長が統一後に広い領域で度量衡や流通を揃える方向へ進んだ可能性は高いが、実現の度合いまでは分からない。
宣教師・海外との関係
信長は宣教師とも交流があった。『フロイス日本史』には信長の人物像が詳しく書かれており、同時代人による的確な人物評とする研究者もいる。一方で、日本側の史料で確かめられない部分が多く、そのまま信じるべきではないとする研究者もいる。信長が自らを神格化しようとしたという記述も、評価が分かれる。
ヴァリニャーノには、狩野永徳が描いた安土城の屏風絵が贈られた。この屏風は信長の死後、天正13年(1585年)にローマ教皇へ献上されている。また、ヴァリニャーノの使用人だったアフリカ出身の人物(弥助)を譲り受けて側近にしたとされる。こうした事実から、信長が海外の文物や人に強い関心を持っていたことは確かだ。ただし、統一後に貿易や外交をどうしたかは、史料の裏づけがない。
茶の湯を政治に使った
永禄12年(1569年)以降、信長は名物の茶道具を集める「名物狩り」を行った。茶道具は家臣への恩賞や政治の道具にもなり、「御茶湯御政道」と呼ばれる。滝川一益が珠光小茄子を望んだが、代わりに関東管領の称号と上野一国の加増を与えられた、という逸話もある。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 本能寺(京都):信長が最期を迎えた寺。変のときは京の本能寺に滞在していた
- 二条御新造(京都):嫡男の信忠が自害した場所
- 安土城(近江):天正4年に着工、天正7年に天守が完成した信長の居城。天守は地上6階・地下1階
- 清洲城(尾張):変の後の天正10年6月27日に、清洲会議が開かれた
関連する人物
- 明智光秀:本能寺を襲撃した。6月13日の山崎の戦いで秀吉に敗れ、命を落とした
- 織田信忠:信長の嫡男。二条御新造で自害した
- 羽柴秀吉:変の時点では備中で高松城を包囲していた。6月13日の山崎の戦いで光秀を破った
- 徳川家康:変の直前に安土を訪れ、堺や京を見物していた
- 柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、神戸信孝:変の時点で各方面を担当していた重臣と三男
- 森蘭丸:本能寺で戦死したと明記されている
よくある質問
本能寺の変で信長が助かる可能性はあったのですか。
信長の供は小姓衆のみで、人数は20〜30人から150〜160人まで諸説ある。光秀は約13,000の兵で襲ったため、その場で撃退できた可能性は低いと考える。助かるとすれば、襲撃を事前に知るか、別の場所にいた場合である。
信長が生きていたら、豊臣政権や江戸幕府はなかったのですか。
断言はできない。ただ、豊臣政権の始まりは、変の後に秀吉が山崎の戦いで光秀を破り、清洲会議で勢力を広げたことにある。信長が生きていれば、この流れは同じ形では起こらない。それでも、後世に別の政権が生まれたかどうかは史料では決められない。
信長は天下統一を目前にしていたのですか。
1582年の時点で武田氏は滅びており、東国の多くの大名が従っていた。北陸・関東・中国・四国で織田軍が展開していたのも事実である。ただし、完成までの時期は史料からは分からない。
楽市楽座は信長が始めた政策ですか。
最初とは限らない。確認できる楽市の最初の例は、近江の六角氏による1549年の石寺新市とされる。信長の楽市令は美濃の加納などで確認でき、評価は分かれている。
光秀が謀反を起こした理由は分かっているのですか。
定説はない。単独の怨恨・野望・正義感とする説や、背後に黒幕がいたとする説に分かれる。光秀自身の記録が少ないことも理由の一つである。






