結論:お市の方は信長の妹として二度嫁ぎ、天正11年に北ノ庄城で自害した女性
お市の方は、織田信長の妹として知られる戦国時代の女性です。最初に北近江の浅井長政へ嫁ぎ、浅井氏の滅亡後に柴田勝家と再婚しました。天正11年(1583年)4月24日、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家とともに、越前の北ノ庄城で自害します。享年は37とされています。
「戦国一の美人」という評判は有名ですが、生涯の記録は少なく、生年も、生母も、結婚の時期も、はっきりしない点が多く残ります。有名な「小豆袋の逸話」は、後世の創作とみられています。この記事では、確かめられる事実と諸説を分けて、お市の方の生涯をたどります。
基本情報
- 生没年:天文16年(1547年)ごろ〜天正11年4月24日(1583年)。生年は没年の享年37から逆算したもので、異説がある
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 立場・身分:織田信秀の娘とされる。信長の妹とする通説のほか、従妹とする説もある
- 夫:浅井長政、柴田勝家
- 子:茶々(淀殿)、初(常高院)、江(崇源院)の三人の娘
- 最期:北ノ庄城で、夫の勝家とともに自害
- 墓所:福井市の西光寺
お市の方とは?織田家に生まれ、二度嫁いだ生涯
信長の妹というのは通説、生母にも諸説がある
お市の方は、通説では天文16年(1547年)に尾張の那古野城で生まれたとされます。ただ、この生年は没年の享年37から逆算した数字で、確かな記録があるわけではありません。
織田信秀の娘とされますが、生母ははっきりしません。土田御前を生母とする説をとると、信長や信行らと同じ母から生まれたきょうだいになります。一方で、信長の妹ではなく従妹だったと伝える史料もあり、織田信光らの娘とする説が挙がっています。「信長の妹」は広く知られた通説であり、動かせない定説とまでは言えない、というのが実情です。
浅井長政との結婚:同盟のための婚姻
お市の方は、北近江の戦国大名・浅井長政に嫁ぎました。この婚姻によって、織田氏と浅井氏は同盟を結びます。結婚の時期には諸説あります。永禄7年(1564年)とする説は古くからありましたが、その縁談の仲介は一度行き詰まったとされます。そのあとの有力な候補は、永禄10年(1567年)9月ごろか、永禄11年の初めごろとする説です。
長政には、もともと六角家臣の娘との婚約があったものの、それは破談になったと伝わります。織田と浅井の同盟は、お市の方の結婚を軸にして成り立っていたことになります。
夫婦の間には、茶々、初、江の三人の娘が生まれたとされます。ただし、茶々は長政の子ではなく連れ子だったとする説もあります。また、旧来は長政の息子二人もお市の方の子とされがちでしたが、市の子ではないと考えられています。
「小豆袋」の逸話は後世の創作とみられている
お市の方の名前とともによく語られるのが「小豆袋」の話です。金ヶ崎の戦いで、織田軍が浅井・朝倉の挟み撃ちにあいそうになったとき、お市の方が両端を縛った小豆の袋を信長に送って危機を知らせた、というものです。
この話は『朝倉家記』に出てきますが、後世の創作とみられています。ただ、政略結婚で嫁いだ女性が実家と婚家をつなぐ役割を担っていた、という点は指摘されています。物語は作り話でも、「嫁ぎ先と実家の間に立つ」という立場の重みは、当時の実情に沿っていたと言えます。
小谷城の落城と、三人の娘との脱出
天正元年(1573年)、信長は小谷城を攻め落とし、浅井長政とその父・久政は自害して、浅井氏は滅亡しました。小谷城は、浅井氏が三代にわたって本拠にした山城で、いまは国の史跡です。1937年に史跡に指定され、曲輪、堀切、土塁、石垣などが残っています。
お市の方は三人の娘とともに、藤掛永勝に救い出されたとされます。そのあとの身の寄せ先は、従来は伊賀の織田信包のもととされてきましたが、叔父の織田信次に預けられたとする説もあります。信次の死後は岐阜城へ移りました。
お市の方の最期:勝家との再婚と北ノ庄城の落城
柴田勝家との再婚は本能寺の変の4か月後
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長が亡くなります。その約4か月後、お市の方は岐阜城で柴田勝家と婚儀を挙げたとされます。清洲会議のあとに結ばれた縁組でした。
この再婚を誰が仲介したのかにも諸説があります。従来は神戸信孝の仲介と伝えられてきましたが、勝家の書状から、羽柴秀吉が動いたとする説も出されています。勝家は、信長のもとで重い役目を担った家臣でした。お市の方は三人の娘を連れて、勝家の城・北ノ庄城(現在の福井市)に入ります。
賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れる
天正11年(1583年)3月、勝家は北近江へ出陣して、秀吉と向き合いました。4月には信孝が岐阜で挙兵し、秀吉はそちらへ向かいます。しかし、秀吉は急いで引き返し、勝家は大岩山の砦を攻めたものの、敗れました。勝家は北ノ庄城に退きます。
城外への退去を断り、勝家とともに自害
天正11年4月24日、秀吉の軍勢が北ノ庄城に攻め入りました。勝家は、秀吉の書状(毛利家文書)によると、200人あまりとともに天守に立て籠もり、切腹したとされます。お市の方もこの日、勝家とともに自害しました。人数については、約80名余とする記述もあります。享年37です。
お市の方は、城の外へ出るよう勧められても退去を断ったと伝わります。娘たちは、富永新六郎という人物に託されて、秀吉のもとへ届けられました。
辞世の句として、次の歌が伝わります。
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」
夏の夜の夢路にほととぎすが誘う、という趣の歌で、お市の方の辞世として伝わるものです。
美人の評判と、三人の娘のその後
「戦国一の美人」の評判はどこから来たのか
お市の方の美貌の評判は、江戸時代に書かれた『祖父物語』や『賤嶽合戦記』に「天下一の美人」「天下第一番の御生付」といった記述があることが根拠になっています。つまり、同時代の人物評ではなく、後の時代の軍記物にある記述です。
一方、『溪心院文』には、37歳の時点で22〜23歳に見えるほど若々しかった、という記述があります。この点は、美貌の話としてよく引かれます。
以上のように、お市の方の容姿は、本人の肖像や同時代の評判から確かめられるというより、後世の書物によって形づくられた面が大きい、と考えられます。
三姉妹の嫁ぎ先
三人の娘は、いずれも歴史の表舞台に出ていきます。
- 茶々(淀殿):羽柴(豊臣)秀吉の側室となった
- 初(常高院):京極高次の正室となった
- 江(崇源院):徳川秀忠の継室となった
お市の方の孫には、豊臣秀頼、千姫、徳川家光などがいます。浅井、織田、豊臣、徳川の各家に縁が広がった形で、これが「三姉妹」が注目される理由です。
よくある誤解:美人伝説と小豆袋は、そのまま事実とは言えない
お市の方の話は、物語として語られる部分が多いため、事実と後世の脚色が混ざりやすい人物です。
- 「小豆袋」は、後世の創作とみられている
- 「信長の妹」は通説だが、従妹とする説もある
- 「長政の息子二人はお市の子」は、現在は市の子ではないと考えられている
- 「茶々は長政の子」も、連れ子とする説がある
確かなのは、浅井長政と柴田勝家という二人の夫を、それぞれ戦で失ったこと、そして天正11年4月24日に北ノ庄城で亡くなったことです。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 小谷城跡(滋賀県長浜市):浅井氏の本拠。国の史跡で、曲輪・堀切・土塁・石垣が残る。お市の方と浅井長政の悲劇の舞台として語られる城
- 北ノ庄城跡(福井県福井市):柴田勝家の居城で、お市の方が最期を迎えた場所
- 西光寺(福井市):お市の方の墓所。柴田勝家の菩提を弔う寺としても知られ、勝家の墓所は柴田神社(福井市)などにもある
関連する人物
- 織田信長:兄とされる人物。お市の方を浅井長政に嫁がせた
- 浅井長政:最初の夫。天正元年(1573年)に小谷城で自害
- 柴田勝家:二番目の夫。天正11年(1583年)に北ノ庄城で自害
- 羽柴(豊臣)秀吉:賤ヶ岳の戦いで勝家を破り、お市の方の娘たちを引き取った人物
- 茶々・初・江:お市の方の三人の娘
よくある質問
お市の方は何歳で、どこで亡くなりましたか?
享年37とされ、天正11年(1583年)4月24日、越前の北ノ庄城(福井市)で夫の柴田勝家とともに自害しました。ただし、生年が没年から逆算された数字のため、年齢には幅があります。
お市の方は本当に織田信長の妹ですか?
通説では信長の妹とされます。ただし、織田信光らの娘で、信長の従妹だったとする説を伝える史料もあります。
「小豆袋」の逸話は事実ですか?
『朝倉家記』に出てくる話ですが、後世の創作とみられています。事実として確かめられた出来事ではありません。
お市の方の子は誰ですか?
浅井長政との間に、茶々(淀殿)、初(常高院)、江(崇源院)の三人の娘がいたとされます。茶々は連れ子とする説もあります。
お市の方の墓はどこにありますか?
墓所は福井市の西光寺です。





