ルイス・フロイス

結論:『日本史』は、イエズス会士フロイスが1583年から書き継いだ、日本布教の記録

ルイス・フロイスは1532年にリスボンで生まれ、1563年に来日したイエズス会の司祭である。1597年7月8日(慶長2年5月24日)、長崎のコレジオで65歳で亡くなるまで、日本で活動した。

『日本史』は、1583年に会の上長から日本での活動を記録するよう命じられたことに始まる。フロイスは10年以上書き続け、織田信長や豊臣秀吉の動きから庶民の暮らしまでを書き残した。戦国時代研究の重要な史料とされる一方、キリスト教の宣教師が書いたものなので、その立場を踏まえて読む必要がある。

基本情報

  • 名前:ルイス・フロイス(ポルトガル語の綴りは Luís Fróis)
  • 生没年:1532年生まれ、1597年(慶長2年)没。享年65歳
  • 出身:ポルトガル王国のリスボン
  • 時代:安土桃山時代
  • 立場:イエズス会の司祭(宣教師)
  • 主な著作:『日本史』、『日欧文化比較』(ヨーロッパと日本の文化を比べた書)
  • 没した場所:大村領の長崎のコレジオ

ルイス・フロイスの経歴と『日本史』の成立

リスボンからゴアへ:来日までの歩み

フロイスは1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕えた。1548年、16歳でイエズス会に入り、同じ年の10月にインドのゴアへ赴いた。ゴアでは、日本での布教に向かう前のフランシスコ・ザビエルと、日本人の協力者ヤジロウに出会ったとされる。この出会いが、のちの人生を方向づけたと説明されている。1561年にゴアで司祭に叙階された。

来日から京都、信長との対面まで

1563年(永禄6年)、フロイスは肥前国の横瀬浦に上陸し、大村純忠のもとで布教を始めた。その後は度島で日本語と日本の風習を学んでいる。1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都へ入った。足利義輝の死後は京都を離れて堺に避難したが、1569年(永禄12年)には二条御所の建築現場で織田信長と初めて対面し、畿内での布教を許された。

1580年(天正8年)には、巡察師ヴァリニャーノの来日に通訳として同行し、安土城で信長に拝謁している。

1583年の指令:記録に専念する

1579年11月6日、イエズス会士のマフェイが総長に書状を送った。フロイスを布教の第一線から退かせ、後の人々の資料となる日本布教史を書かせてほしいという内容である。1583年、フロイスは総長の命令を受けて第一線を離れ、同年秋に肥前国の口之津で指令を受け取った。ここから『日本史』の執筆が始まる。

1587年(天正15年)の伴天連追放令を受けて、フロイスは畿内を去り、加津佐を経て長崎に落ち着いた。1590年にはヴァリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉と会見している。1592年にマカオへ渡り、1595年(文禄4年)に長崎へ戻った。

『日本史』の構成・内容と、史料としての読み方

構成:全体は三つの部分に分かれる

『日本史』が扱う期間は、1549年のザビエル来日から1593年までである。構成は次のとおりに整理されている。

  • 第1巻:序文、日本六十六国誌、日本総論
  • 第2巻(第一部):1549年(天文18年)から1578年(天正6年)まで
  • 第3巻(第二部):1578年から1589年(天正17年)まで
  • 第3巻(第三部):1590年(天正18年)から1593年(文禄2年)まで

第3巻は実際には1594年まで書き継がれていて、1589年以降の部分は加筆と考えられている。

内容:布教史にとどまらない記述

『日本史』は、キリスト教の布教史であると同時に、信長や秀吉の動向、庶民の生活、災害や事件まで詳しく記している。日本人の名前や地名がローマ字で書かれているため、当時の発音を知る手がかりにもなり、日本語研究の史料としても価値が高い。文禄・慶長の役で連行された朝鮮人捕虜からの情報をもとに、朝鮮の国内事情にも触れている。

信長については、終始好意的に描かれているとされる。

読み方:書き手の立場を踏まえる

『日本史』は西洋のキリスト教徒の視点で書かれた歴史記述である。日本人への誤解やキリスト教的な偏見も含まれるとされる一方、観察の鋭さと情報収集の確実性は高く評価されている。

つまり、書かれたことをそのまま事実とするのではなく、日本側の史料と突き合わせながら使うのが基本である。

写本の運命と翻訳の歴史

ヴァリニャーノの短縮命令と、フロイスの要望

1594年に第三部が完成すると、ヴァリニャーノは分量が多いことを理由に短縮を命じた。フロイスはこれに応じず、原型のままローマへ送るよう、総長アクアヴィーヴァに書簡で求めた。1597年にフロイスが亡くなったあと、原稿はマカオに留め置かれ、忘れられた。

1742年の写本と、1835年の焼失

1742年、ポルトガルの学士院が写本を作らせて本国へ送った。1835年にはマカオの司教座聖堂が焼け、原本は失われたと考えられている。写本は各地に散らばったが、のちに集められ、第1巻を除く部分が20世紀以降に順次刊行された。現存する写本は、リスボンのポルトガル国立図書館やアジュダ文書館などにある。第1巻は、目次を除いて現存が確かめられていない。

日本語訳と『日欧文化比較』

日本語訳には、高橋慶雄訳(1932年、前篇のみ)、柳谷武夫訳(東洋文庫、1963年から1970年)、松田毅一・川崎桃太訳(中央公論社、1977年から1980年)がある。このうち松田・川崎訳は現存する全文を訳してテーマごとに再構成したもので、文庫化されて『完訳 フロイス日本史』(中公文庫、2000年、全12巻)になった。

『日欧文化比較』は、ヨーロッパと日本の習慣を比べた別の著作で、1585年に書かれた。岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫)などで読める。

ゆかりの地と関連する人物

  • 長崎:フロイスが晩年を過ごし、1597年にコレジオで没した地。最後の著作として『二十六聖人の殉教記録』を残した
  • 横瀬浦(肥前国):1563年の上陸地。大村純忠のもとで布教を始めた
  • 安土城:1580年にヴァリニャーノの通訳として信長に拝謁した場所
  • 織田信長:1569年に二条御所の建築現場で初対面。好意的に描かれた
  • 豊臣秀吉:1590年に聚楽第でフロイスとヴァリニャーノが会見した
  • フランシスコ・ザビエル:ゴアでの出会いがフロイスの進路に影響した
  • ヴァリニャーノ:巡察師。来日に同行し、『日本史』の短縮を命じた

よくある質問

『日本史』は誰が書いたのですか?

ポルトガル生まれのイエズス会士、ルイス・フロイスです。1583年から10年以上書き続け、1593年までの出来事を記しました。

『日本史』の原本は残っていますか?

原本は1835年のマカオの司教座聖堂の焼失で失われたと考えられています。1742年に作られた写本が基になり、第1巻を除く部分が刊行されました。

『日本史』は日本語で読めますか?

読めます。松田毅一・川崎桃太訳が『完訳 フロイス日本史』として中公文庫から全12巻で出ています。

『日本史』に書かれたことは、すべて事実ですか?

観察の鋭さは評価される一方、書き手の立場による偏見も含まれるとされます。日本側の史料と照らして読むのが基本です。