結論:銀閣寺は義政の山荘で、銀は貼られていない
銀閣寺(正式には慈照寺)は、室町幕府8代将軍・足利義政が1482年に造営を始めた東山山荘が、死後に禅寺となったものです。「銀閣」と呼ばれる観音殿には、創建のときから銀箔が貼られていません。2007年の科学調査でもそれが裏づけられたとされ、「銀閣」という呼び名が広まったのは江戸時代以降です。
義政は応仁の乱を招いた将軍として政治面では厳しく見られがちです。一方で、山荘に集めた画家・能役者・禅僧たちとともに築いた文化は東山文化と呼ばれ、銀閣と東求堂がその代表として今に伝わります。
基本情報
- 生没年:永享8年(1436年)〜延徳2年(1490年)、享年55
- 時代:室町時代
- 立場:室町幕府第8代将軍(1449年に将軍宣下)。1473年に子の義尚へ将軍職を譲る
- 正室:日野富子(1455年に御台所となる)
- 主な業績:東山山荘(のちの慈照寺)の造営。東山文化の中心人物とされる
- 墓所:京都市上京区の相国寺
- 慈照寺の指定:銀閣(観音殿)と東求堂は国宝。庭園は特別史跡・特別名勝(1952年)。1994年に「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録
足利義政と銀閣寺(東山山荘)の歴史と銀閣の特徴
義政はどんな将軍だったのか
義政は1443年、兄・義勝の死去により8歳で後継者となり、1449年に将軍宣下を受けました。1455年には日野富子が御台所となっています。
将軍の座を巡る問題が表に出たのは1464年です。義政は実弟で僧となっていた義尋を還俗させ、足利義視と名乗らせて養子とし、次期将軍に決めました。ところが翌1465年に富子が男児(のちの義尚)を産みます。後継者が二人になったことが、将軍家の継承を巡る対立の一因になりました。
応仁の乱は1467年に始まり、1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなった後も戦いが続きました。終わったのは1477年で、大名の兵が京都を離れたことによります。義政は乱の途中の1473年12月19日に、義尚へ将軍職を譲っています。
東山山荘の造営と、造営の背景
将軍職を譲った後の1482年、義政は東山の月待山の麓で山荘の造営を始めました。場所は、応仁の乱で焼けた浄土寺の跡地です。もともと義政には、義視に将軍職を譲った後は、祖父・義満の北山山荘に倣った山荘を造り、そこから義視を後見する構想があったとされます。
費用は守護大名への負担命令、寺社からの庭石・庭木の供出、御料所の一部などで賄われましたが十分ではなく、庶民にも段銭や夫役が課されました。乱の後の京都で大工事を進めたことは、負担を強いるものでもあったわけです。
建物は順に整いました。1483年に常御所が完成して義政が移り住み、1485年には西指庵ができて義政は出家し、喜山道慶と称します。1486年に持仏堂として東求堂が建ち、1487年に会所と弄清亭、1489年に観音殿(銀閣)の上棟となりました。
銀閣はなぜ銀色ではないのか
銀閣は木造2階建てで、初層は住宅風の「心空殿」、上層は禅宗様の仏堂風の「潮音閣」で、観音菩薩坐像を安置しています。鹿苑寺金閣を踏まえて建てられ、西芳寺瑠璃殿の形式も受け継いでいるとされます。
「財政難で銀箔が貼れなかった」「義政の死で未完成のまま終わった」という説明を聞くことがありますが、銀箔は創建時から貼られておらず、2007年の科学調査でも裏づけられたとされています。銀閣の名が広まったのは江戸時代以降で、義政の時代の呼び名ではありません。
観音殿の上棟は1489年で、その年の8月に義政は中風で倒れ、10月に再び病床に伏しています。完成を見ないまま亡くなった点は確かです。ただ、銀箔の有無と未完成かどうかは別の話として切り分ける必要があります。
東山文化とは?同仁斎・書院造と義政の晩年
東求堂と同仁斎(書院造と茶室のはじまり)
東求堂は1486年に建てられた義政の持仏堂で、国宝です。内部にある四畳半の同仁斎は、茶室の始まりとする説があります。
東山文化の建築の特徴として書院造が挙げられ、銀閣の初層も書院造です。同仁斎は初期の書院造の例として知られます。
義政が召し抱えた人々と、残された和歌・茶器
義政のもとには、庭の善阿弥、絵の狩野正信・土佐光信・宗湛、能の音阿弥、禅僧の横川景三らが召し抱えられました。東山文化では、狩野正信が水墨画と大和絵を融合させ、土佐光信が大和絵を発展させたと説明されます。茶の湯、花、香、能、連歌も、この時代の文化の広がりとして挙げられています。
義政自身も和歌を詠み、約1500首が伝わります。自選の『慈照院自歌合』も編まれました。有職故実にも関心が深く、清原業忠・宗賢の親子を側近として研究させています。茶器では「初花」「九十九髪茄子」などが伝わっています。
晩年と、慈照寺への改まり
1489年、義尚が六角氏の討伐に出た陣中で亡くなります。同じ年に義政も病に倒れ、翌1490年1月7日(西暦1490年1月27日)に亡くなりました。
義政の遺言により、東山殿は禅寺となり、夢窓疎石を勧請開山とする相国寺の末寺になりました。寺号は初め「慈照院」とされ、翌年に「慈照寺」へ改められています。
よくある誤解と、その後の銀閣寺
「銀閣は未完成だった」「銀を貼る金がなかった」は正しい?
前の節のとおり、銀箔は最初から貼られていなかったとされています。義政が完成を見ずに亡くなったことと、銀を貼る計画があったかどうかは、分けて考えるべきです。
私の考えでは、「金閣を意識しながら、同じ作りにはしなかった」という見方のほうが、史料と建物の実際に沿っています。ただし義政が意図してそうしたのかは、資料からは断定できません。
戦火と再興
1550年の中尾城を巡る戦いで、慈照寺は銀閣と東求堂を残して全焼しました。戦国末期には近衛前久の別荘となり、庭園にあった名石・九山八海石は二条城に移されています。
1615年には宮城豊盛により大改修が行われました。義政の時代の建物で現存するのは、銀閣と東求堂の二つだけです。
東山文化は京都だけのものではなかった
東山文化は応仁の乱のさなかにも栄え、京都から地方へ下った学者や芸術家を通じて、地方の大名の館にも広まったと説明されています。名称は茶に関わる人々の間で使われた言葉で、昭和の初めに歴史学者が採用しました。現在は北山文化と合わせて「室町文化」と括られることも多くなっています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 慈照寺(銀閣寺):京都市左京区。相国寺派の禅寺。銀閣と東求堂が国宝で、1994年に世界遺産に登録
- 相国寺:京都市上京区。義政の墓所。大徳院に影像と遺骨が安置され、1491年に大徳院は「慈照院」と改められた
- 鹿苑寺(金閣寺):祖父・義満ゆかりの寺。銀閣はこれを踏まえて建てられたとされる
関連する人物
- 日野富子:正室。義尚の母。1476年に兄・日野勝光が亡くなった後、政務への関わりを広げた
- 足利義視:義政の実弟。1464年に養子として次期将軍に決まった
- 足利義尚:義政と富子の子。1473年に将軍職を譲られ、1489年に陣中で死去
- 足利義満:祖父。義政は義満の北山山荘に倣った山荘を構想したとされる
よくある質問
銀閣寺は昔は銀色だったのですか?
いいえ。銀箔は創建時から貼られておらず、2007年の科学調査でも裏づけられたとされています。
銀閣寺の正式名称は何ですか?
慈照寺です。義政の死後、遺言で東山殿が禅寺になり、初めは「慈照院」、翌年に「慈照寺」へ改められました。
義政は銀閣の完成を見ましたか?
見ていません。観音殿の上棟は1489年で、その年の8月に義政は中風で倒れ、翌1490年に享年55で亡くなりました。
同仁斎とは何ですか?
東求堂の中にある四畳半の部屋です。茶室の始まりとする説があり、書院造の流れの中で語られます。
義政の墓はどこにありますか?
京都市上京区の相国寺です。





