結論:足利義政は室町幕府の第8代将軍。政治では衰退を止められず、文化では東山文化の中心になった
足利義政は、室町幕府の第8代将軍です。兄の第7代将軍・義勝が早世したため、嘉吉3年(1443年)に8歳で後継者に選ばれ、文安6年(1449年)4月29日に征夷大将軍宣下を受けて将軍になりました。
在職は1449年から1474年まで(譲位は文明5年12月)。後継者をめぐる対立が応仁の乱につながり、幕府の力は弱まりました。一方で、隠居後に営んだ東山山荘は、のちに慈照寺(銀閣寺)となり、東山文化の中心として知られます。
基本情報
- 生没年:永享8年1月2日(1436年1月20日)〜延徳2年1月7日(1490年1月27日)。享年55(満54歳)
- 時代:室町時代
- 立場:室町幕府第8代将軍(在職1449年〜1474年)
- 父:第6代将軍・足利義教、母:日野重子
- 正室:日野富子、実子に足利義尚
- 主な業績:東山山荘(のちの慈照寺)の造営と、東山文化の中心となったこと
- 墓所:京都市上京区の相国寺
足利義政は何代目の将軍?就任の経緯と幼少期
第8代将軍になるまで
義政は、父・義教、兄・義勝に続く室町幕府の第8代将軍です。父の義教は第6代、兄の義勝は第7代にあたります。
嘉吉元年(1441年)6月24日、父・義教は嘉吉の乱で赤松満祐に殺害されました。跡を継いだ兄・義勝も、嘉吉3年(1443年)7月21日に早世します。そこで、管領・畠山持国らの後見を得て、8歳の義政が後継者に選ばれました。
将軍になったのは、後継者に選ばれてから数年後です。文安6年(1449年)4月16日に14歳で元服し、加冠役は細川勝元、理髪役は細川持常が務めました。その13日後の4月29日に征夷大将軍宣下を受けています。
母と側近の影響、前半の政治
若い将軍の周囲では、母の日野重子が人事に口を出しました。乳母の今参局、烏丸資任、有馬元家の3人は、落書で「三魔」と呼ばれています。形式上の乳父は伊勢貞親ですが、実際に役目を担ったのは烏丸資任だったとされます。
将軍になってすぐ、細川勝元が管領の辞意を示しました。このとき義政は畠山持国を管領に復帰させています。享徳元年(1452年)には、最初の御判御教書を出しています。
義政の政治は、失敗ばかりだったわけではありません。宝徳3年に勘合貿易を復活させ、康正元年(1455年)には分一銭徳政の改正など税制の政策で幕府の財政が回復に向かいました。前半は財政が安定していたとされます。康正2年には内裏を再建し、右近衛大将拝賀式を盛大に行いました。
長禄2年(1458年)には、父・義教の儀礼を復活させると宣言し、季瓊真蘂を起用しています。寺社や本所の領地を返す問題は、終生の課題になりました。
寛正の飢饉と花の御所
寛正2年(1461年)、大飢饉で流民が京都に流れ込み、一説には2か月で8万2千人の餓死者が出たとされます。このとき後花園天皇は漢詩を送って義政を戒めたと伝わり、詩の中には「満城紅緑為誰肥」という句があります。尋尊はこの件を含め、当時の政治を批判しました。
一方、花の御所(室町殿)の再建は長禄2年12月に決まり、長禄3年(1459年)2月22日に上棟の儀、同年11月16日に義政が移っています。義教が夢枕に現れ、民を救うことが供養になると諭したという話も伝わり、義政が救済に積極的になったとされます。
後継者問題から応仁の乱へ
寛正5年(1464年)12月、義政は実弟の義尋を還俗させて義視と名乗らせ、養子にして次の将軍に定めました。ところが寛正6年(1465年)11月、正室の富子が男児(のちの義尚)を産みます。義政が義視の立場を変えなかったとされる一方で、伊勢貞親らは義政の将軍継続を望み、義視を支持する側との対立が深まりました。9月6日には文正の政変が起きています。
文正2年(1467年)正月の御霊合戦では畠山義就が政長に勝ち、5月には上京の戦いが始まります。東軍は細川勝元、西軍は山名宗全が率いました。『応仁記』では、富子が宗全に協力を求め、義視は勝元と結んだとされます。応仁2年11月13日には、義視が西軍に移りました。乱は文明9年(1477年)に大名の兵が京都を離れて終わったとされます。この間に土一揆の激化で土倉役という主要な収入源も失われ、幕府の財政は弱まりました。
文明5年12月19日(1474年1月7日)、義政は将軍職を義尚に譲って隠居しました。
足利義政と東山文化・銀閣寺:政治の人から文化の人へ
東山山荘と銀閣・東求堂
文明14年(1482年)から東山での造営が本格化しました。費用は山城国の公家領や寺社領などから賄っています。文明15年(1483年)6月に義政は移り住み、「東山殿」と呼ばれました。庭師の善阿弥、絵師の狩野正信や土佐光信、宗湛、能役者の音阿弥、禅僧の横川景三らが召し抱えられています。
銀閣(観音殿)は、長享3年(1489年)3月に立柱上棟が行われました。義政は翌延徳2年(1490年)に亡くなっています。一層は書院造の住宅風、二層は禅宗様の仏殿という構成です。名前に反して、銀箔は貼られていません。「銀箔を貼る予定だった」という説は史実に基づかない俗説とされ、2007年の科学調査でも創建時の銀箔は検出されませんでした。
東求堂は文明18年(1486年)に建てられた義政の持仏堂で、現在も残っています。その東北にある四畳半の書斎が同仁斎で、違い棚と付書院は現存最古の座敷飾りとされ、書院造の源流といえるものとされます。茶室の始まりとする説もあります。銀閣と東求堂はどちらも国宝です。
東山文化の特徴
東山文化は、義政の東山山荘を中心に、武家・公家・禅僧の文化が融合して生まれたとされます。貴族的で華麗な北山文化に比べ、「幽玄」「わび・さび」に通じる美意識に支えられていると評されます。応仁の乱以降の戦乱の時代に、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌などが発展しました。同朋衆の志野宗信は、志野流香道の祖とされます。
晩年と評価
文明11年(1479年)以降、富子と義尚の関係が悪化していき、義政は文明13年(1481年)に富子から逃れるように長谷の山荘へ移りました。文明17年(1485年)6月15日、臨川寺で月翁周鏡を戒師として出家し、法諱を道慶、道号を喜山としました。延徳元年(1489年)8月に中風で倒れ、10月に再び病床に伏し、延徳2年1月7日に亡くなります。戒名は慈照院喜山道慶です。東山山荘への埋葬は延暦寺の反対で断念され、墓所は相国寺になりました。
作家の永井路子は、義政が「死なぬように、生きぬように」お飾りとして育てられたため、人格と治世がそれに歪められたと評しました。赤松俊秀は、無能と断じるのは気の毒で、立派に行動しようとした結果が幕府の衰退だったと述べています。相馬和将は、猶子関係の分析から、義政期を「将軍家権威の絶頂期」とみています。評価は一様ではありません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 慈照寺(銀閣寺):京都府京都市左京区銀閣寺町。義政の死後、遺言で東山殿が禅寺となり、翌年に寺号が慈照寺に改まりました。庭園は国の特別史跡・特別名勝で、1994年12月17日に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。
- 相国寺:京都市上京区。義政の墓所です。
関連する人物
- 足利義教:父。第6代将軍で、嘉吉の乱で殺害されました。
- 足利義勝:兄。第7代将軍で早世しました。
- 日野富子:正室。
- 足利義尚:子。文明5年に将軍職を譲られました。
- 足利義視:弟。義政の養子となり、次期将軍に定められました。
- 細川勝元・山名宗全:応仁の乱の東軍と西軍を率いた人物です。
よくある質問
足利義政は何代目の将軍ですか
室町幕府の第8代将軍です。1449年に将軍宣下を受け、1474年(文明5年12月)に義尚へ譲りました。
将軍になったのは何歳のときですか
後継者に選ばれたのは8歳のとき(1443年)です。14歳で元服し、同じ文安6年(1449年)に征夷大将軍宣下を受けました。
銀閣寺は銀色に光っていたのですか
銀箔は貼られていません。2007年の科学調査でも創建時の銀箔は検出されませんでした。
応仁の乱は義政のせいで起きたのですか
後継をめぐる対立が発端の一つになりましたが、畠山氏の家督争いなど複数の要因があります。義政の責任をどう評価するかは、研究者によっても意見が分かれます。






