結論:足利義政は、応仁の乱の最中に幕府を率いた将軍で、東山山荘(銀閣寺)を営んだ人
足利義政(1436〜1490年)は室町幕府の第8代将軍です。1449年に将軍となり、1473年に子の義尚へ将軍職を譲るまでの約25年間、幕府の頂点にいました。在任中に起きた応仁の乱(1467〜1477年)は、後継者をめぐる混乱が大きな要因のひとつで、義政は乱の当事者として評価されています。
一方で、隠居後に京都の東山で山荘の造営を進め、これが現在の慈照寺(銀閣寺)になりました。山荘に残る東求堂と観音殿(銀閣)は、どちらも国宝です。義政の時代を中心に花開いた文化は「東山文化」と呼ばれます。政治では混乱を収められず、文化では名を残した。この二つの顔が、義政を語るときの出発点になります。
基本情報
- 生没年:永享8年1月2日(1436年1月20日)〜延徳2年1月7日(1490年1月27日)。享年は数え年で55
- 時代:室町時代
- 立場:室町幕府第8代征夷大将軍(1449年に就任、1473年に子の義尚へ譲って隠居)
- 家族:父は第6代将軍足利義教、母は日野重子。兄は第7代将軍義勝、正室は日野富子、子に第9代将軍となる義尚
- 主な出来事:寛正の大飢饉(1461年前後)、応仁の乱(1467〜1477年)、東山山荘の造営(1482年〜)
- 主な業績:東山山荘の造営、東山文化の庇護、日明貿易(勘合貿易)の再開
- 墓所:京都市上京区の相国寺
足利義政は何をした人か:政治の混乱と応仁の乱
8歳で後継に選ばれた将軍
義政は第6代将軍義教の五男として生まれました。幼いころは烏丸資任の屋敷で育てられ、出家して僧になる予定だったとされます。ところが1441年の嘉吉の乱で父の義教が殺害され、兄の義勝が将軍になります。その義勝も1443年に早世し、義政が8歳で後継に選ばれました。
幼い将軍を支えたのは、管領の畠山持国らです。1446年に後花園天皇から「義成」の名を授かり、1449年に元服して征夷大将軍になりました。のちに「義政」と名乗ります。若いころの幕政には、乳母の今参局、烏丸資任、有馬元家が強く関わり、この三人は「三魔」と呼ばれました。将軍が若いうちは、側近の影響が大きかったことがうかがえます。
寛正の大飢饉と、義政への批判
義政の治世には、大きな災害もありました。1459年から1461年にかけて、旱魃、水害、台風、虫害、疫病が重なり、全国で飢饉が広がります。京都では1459年の台風で賀茂川があふれ、1461年には流民が市中に流れ込みました。同年の最初の2か月で8万2千人の餓死者が出たとされています。
時宗の僧・願阿弥は、義政の許可を得て六角堂の南で粥の施行を行い、1日8千人規模だったと伝えられます。それでも餓死者は減らず、施行は打ち切られ、遺体は鴨川の河原に埋められて塚が築かれました。
このとき義政は花の御所の改築に関心を寄せ、世の中の事態への対応が不十分だったとされます。『新撰長禄寛正記』には、後花園天皇が諫める詩を贈ると、義政が恥じて新殿の造営をいったん止めたという話が載ります。また『経覚私要鈔』には、夢に父の義教が現れ、民を救うことが供養になると諭されて救済に乗り出したという話があります。いずれも当時の記録にある伝承で、義政の姿勢が批判された背景をよく表しています。なお、花の御所の改築は、義政が世事に強い関心を持っていたからだとする見方もあります。
後継者問題と日野富子
応仁の乱の火種になったのが、将軍家の後継者です。義政には長く男子がなく、1464年12月に実弟の義尋を還俗させて義視と名乗らせ、養子として次の将軍に定めました。ところが翌1465年11月、正室の日野富子が男子の義尚を産みます。それでも義政は義視の立場を変えませんでした。義政が大御所として実権を握り続けるため、義尚が成長するまでの中継ぎとして義視を置いたとする説もあります。
富子は義尚の将軍継承を望み、政治にも関わって義視との対立を深めました。1466年には伊勢貞親らが義視を排除しようとする文正の政変が起こります。義政はいったん義視の切腹を命じましたが、細川勝元らが制止しました。こうして将軍家の内部の溝は深くなっていきます。
応仁の乱での動き
1467年、畠山家の家督争いをきっかけに御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まります。義政は当初中立の立場をとりましたが、6月には細川勝元に将軍の御旗を与え、山名宗全の追討を命じました。戦乱の中で、後花園上皇と後土御門天皇が花の御所に避難し、天皇と将軍が同じ場所に住む事態にもなっています。
その後の義政の動きは一貫していません。中立を装いながら、戦況に応じて東軍と西軍のどちらにも傾いたとされます。1468年に義視が伊勢へ出奔して西軍に移ると、義政は義視の討伐を求める治罰院宣を得ました。1471年には西軍の朝倉孝景に寝返りの工作もしています。
1473年、山名宗全と細川勝元が相次いで世を去り、義政は12月19日に義尚へ将軍職を譲って隠居しました。応仁の乱が終わったのは1477年です。隠居後も、対外関係と禅院に関わる事務(公帖や所領)は手放さず、政務への関与を続けました。
足利義政は何をした人か:東山文化と銀閣寺(慈照寺)
東山山荘の造営
義政は1482年から、京都の東山で山荘(東山殿)の造営を本格的に始めます。翌1483年に主な住まいに移り、1485年には出家しました。法名は道慶、道号は喜山とされています。
造営の費用は、すぐには集まりませんでした。諸大名からは石の献上がありましたが、費用の徴収は思うように進まず、山城国の公家領・寺社領からも徴収する形になり、造営は幕府の公式事業とされました。費用の督促には伊勢貞陸や浦上則宗があたり、土岐成頼、赤松政則、山名政豊、朝倉氏景らが負担に応じています。興福寺は庭木や人夫の提供に難渋し、庭石調査のために派遣された河原者を学侶が襲撃する騒ぎも起きました。戦乱の直後に大規模な造営を進めたため、周囲に負担を強いた事業でもあったわけです。
国宝の東求堂と観音殿(銀閣)
山荘の建物のうち、義政の時代から残るのが、1486年の東求堂と、1489年の観音殿(銀閣)です。どちらも国宝に指定されています。東求堂の中にある同仁斎は四畳半の書斎で、解体修理の際に部材から「いろりの間」の墨書が見つかり、当初は茶を点てていたとみられています。茶道史では、同仁斎を四畳半茶室の始まりとする伝承があります。
「銀閣」という通称にも、よくある誤解があります。観音殿に銀箔が貼られたことはなく、この呼び名は江戸時代に使われるようになったと考えられています。金箔を貼った金閣寺(鹿苑寺)になぞらえた呼び方とみられています。
義政は山荘の完成を見ずに亡くなりました。没後、山荘は禅寺に改められ、延徳3年(1491年)に慈照寺と改称されます。寺は相国寺の塔頭にあたります。16世紀の戦乱で多くの建物を失い、東求堂と観音殿だけが残りましたが、江戸時代に復興されました。庭園は国の特別史跡・特別名勝で、慈照寺は世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産に含まれています。
義政が庇護した文化人と、東山文化
義政は有職故実に関心が深く、清原業忠・宗賢の父子を側近にしました。和歌も多く詠み、自選の歌合『慈照院自歌合』が知られています。
召し抱えた人々も多彩です。庭づくりの善阿弥、絵師の狩野正信と土佐光信、能の音阿弥などが挙げられます。東山山荘の庭園は、夢窓疎石ゆかりの西芳寺(苔寺)を参考にしたとされます。初花や九十九髪茄子といった、現在も伝わる名物の茶器もこの時代のものです。こうした文化の流れが「東山文化」と呼ばれます。
Wikipediaの義政の項では、銀閣に代表される「わび・さび」に重きをおいた文化を東山文化と呼ぶと説明されています。同仁斎を四畳半茶室の始まりとする伝承もあります。
足利義政の人物像と晩年:隠居、改元、最期
日野富子との関係
義政は1456年(康正2年)に富子を御台所として迎えました。義尚の将軍継承を望む富子は政治に関わり、1476年に兄の日野勝光が亡くなると、その関与はさらに広がります。義政は政務への関心を失っていったとされます。義尚と富子の関係は悪化し、義政は1481年ごろに富子のもとを離れて長谷へ移ったといいます。巷で語られる「夫婦の不仲」は、後継問題と政治への関与をめぐる対立が背景にあったことになります。
評価をめぐる三つの見方
義政は、研究者からも見方が分かれる人物です。永井路子は、義政が周囲に「お飾り」として育てられたことが人格や治世に影響したと評しました。赤松俊秀は、義政が将軍として立派に振る舞おうとしたものの、結果は幕府の衰退に終わり、「人に抑えられた」人物だと指摘します。相馬和将は、猶子の制度に注目して、義政期を「将軍家権威の絶頂期」と評価しています。
悪評だけでなく、将軍の権威の面から肯定的に見る研究もあることは、押さえておきたい点です。
晩年と死去
1489年、義尚が六角氏討伐の陣中で亡くなると、義政は再び政務をとる意思を示しました。同年8月には義政の執奏で「延徳」への改元が行われましたが、改元の吉書始は中止されています。この8月、義政は中風で倒れ、10月に再び病床に伏しました。
そして1490年1月7日(延徳2年)、55歳(数え年)で亡くなります。死因そのものを明記した記述は見つかりませんでした。確かなのは、前年8月と10月に病で倒れ、床についていたことです。没後の2月17日には、生前は辞退し続けていた太政大臣が贈られました。
遺言では東山山荘に埋葬される予定でしたが、延暦寺の反対で実現しませんでした。1491年に相国寺の大徳院が慈照院と改められ、同年3月に影像と遺骨が安置されました。墓所は京都市上京区の相国寺です。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 慈照寺(銀閣寺):京都市左京区。東求堂と観音殿が国宝で、庭園は特別史跡・特別名勝。世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産
- 相国寺:京都市上京区。義政の墓所で、遺骨は塔頭の慈照院に安置された
- 花の御所(室町殿):応仁の乱の最中、天皇と上皇が避難して将軍と同居した場所
関連する人物
- 日野富子:正室。義尚の母で、将軍継承をめぐって義視と対立した
- 足利義視:義政の実弟。いったん養子として次期将軍に定められた
- 足利義尚:義政の子で第9代将軍。1489年、六角氏討伐の陣中で死去
- 細川勝元・山名宗全:応仁の乱の東軍・西軍それぞれの中心人物
- 後花園天皇:寛正の大飢饉の際、義政を諫める詩を贈ったと伝わる
よくある質問
足利義政は何をした人ですか。
室町幕府の第8代将軍で、1449年から1473年まで在任しました。後継者問題が背景のひとつとなって応仁の乱が起き、隠居後は東山山荘(のちの銀閣寺)の造営を進めました。
銀閣寺は誰が建てましたか。
足利義政が1482年から東山山荘として造営を始めました。観音殿(銀閣)は1489年、東求堂は1486年の建立です。義政の没後に禅寺となり、1491年に慈照寺と改称されました。
銀閣には本当に銀が貼られていたのですか。
銀箔が貼られたことはないとされています。「銀閣」という呼び名は江戸時代に使われるようになったもので、金閣寺(鹿苑寺)になぞらえたものとみられています。
応仁の乱は義政のせいで起きたのですか。
原因は一つではなく、畠山家の家督争いや将軍家の後継問題などが重なりました。義政が義視を後継に定めたあとに義尚が生まれ、それでも義視の立場を変えなかったことが対立を深めたとされます。評価は研究者によって分かれます。
義政の墓はどこにありますか。
京都市上京区の相国寺にあります。遺骨は塔頭の慈照院に安置されました。




