足利義政と銀閣寺!知られざる妻の奮闘

結論:義政は政治に行き詰まった将軍、文化の土台を築いた人物。妻の富子は幕府を現実に動かした

足利義政(1436〜1490年)は室町幕府の第8代将軍です。応仁の乱を止められなかった一方で、晩年に東山山荘(のちの慈照寺、通称・銀閣寺)を造り、書院造や枯山水、茶の湯などにつながる東山文化の中心になりました。

この間、幕府の現実的な運営を支えたのが妻の日野富子です。関所の設置などで資金を集め、1476年に兄の勝光が亡くなってからは実質的な幕府の指導者になったとされます。一方で庶民には「守銭奴」と見られ、義政が山荘を造るときに援助しなかったことから「天下の悪妻」とも呼ばれました。

この記事では、義政の歩み、銀閣寺の造営、東山文化、そして富子の実像を、Wikipediaに書かれた範囲の事実で整理します。

基本情報

  • 名前:足利義政(あしかが よしまさ)。はじめは「義成」、1453年に「義政」へ改名
  • 生没年:永享8年1月2日(1436年1月20日)〜延徳2年1月7日(1490年1月27日)。享年55
  • 時代:室町時代
  • 身分:室町幕府第8代将軍(1449年に征夷大将軍に宣下)。父は第6代将軍・足利義教、母は日野重子
  • 正室:日野富子
  • 主な業績:東山山荘の造営(銀閣・東求堂を含む)、東山文化の中心となったこと
  • 墓所:相国寺。戒名は慈照院喜山道慶

足利義政の生涯と銀閣寺(慈照寺)の造営

8歳で後継者に選ばれた将軍

義政は第6代将軍・義教の五男です。1441年、父が嘉吉の乱で殺害され、兄の義勝が将軍を継ぎました。ところが義勝は早くに亡くなり、1443年に義政が後継者に選ばれます。このとき数え8歳でした。1449年に征夷大将軍に宣下され、第8代将軍となります。

1453年に「義政」へ改名し、1458年には父・義教の政治路線の復活を掲げました。

応仁の乱と将軍の立場

1464年、義政は弟の義視を後継者に定めました。翌1465年に富子が男子の義尚を産み、後継をめぐる問題が生じます。1466年には、側近の伊勢貞親らが義視の排除を求めた結果、義政の側近層が失脚する文正の政変が起きました。

1467年、畠山義就と政長の衝突(御霊合戦)を経て、5月に上京の戦いが始まり、応仁の乱は全国規模に広がります。1468年11月には義視が西軍に移り、義政は義視を討つための治罰院宣を得て西軍と絶縁しました。1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年12月に義政は将軍職を義尚に譲って隠居します。乱は1477年11月、大名の兵が京都を離れて終わりました。

東山山荘の造営と銀閣寺の誕生

1482年、義政は東山浄土寺の敷地で東山山荘の造営を本格的に始めました。祖父・義満の金閣を参考にし、庭園は西芳寺の庭などを手本にしたとされます。費用は山城国の公家領や寺社領などから徴収されました。1483年6月に義政は山荘へ移り、以後「東山殿」と呼ばれます。

観音殿(銀閣)は1489年3月に立柱上棟、東求堂は1486年に建てられました。義政は1490年に亡くなり、銀閣の完成を見ていません。遺言により東山殿は禅寺に改められ、夢窓疎石を勧請開山とし、相国寺の末寺として整えられました。寺号ははじめ「慈照院」、翌年に「慈照寺」とされています。

義政は生前辞退し続けた太政大臣を、死後の1490年2月17日に贈られました。

なお、1489年に子の義尚が六角討伐の陣中で亡くなると、義政は再び政務を執る意思を示しました。

東山文化と銀閣寺のしくみ:義政が残したもの

銀閣と東求堂の特徴

銀閣は木造2階建てで、屋根は宝形造の杮葺です。1階は住宅風の「心空殿」、2階は禅宗様の仏堂風の「潮音閣」で、観音菩薩坐像が安置されています。屋根の頂には銅製の鳳凰が置かれ、18世紀後半ごろまでは宝珠だったとされます。

東求堂は義政の持仏堂で、内部の「同仁斎」は四畳半の書斎です。現存最古とされる違い棚と付け書院を備え、書院造の源流とも、茶室の起源ともいわれます。銀閣と東求堂はともに国宝、庭園は1952年に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。1994年には「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されています。

「銀閣」に銀箔は貼られていたのか

銀閣という名から、銀箔が貼られていた、または貼る予定だったという話がよく語られます。しかし慈照寺について、創建時から銀箔は貼られていないとされ、2007年の科学調査でも裏付けられたと書かれています。銀箔の話は史実に基づかない俗説という扱いです。

「銀閣」の呼び名も、金閣になぞらえて江戸時代以降に広まったものです。寺全体を指す「銀閣寺」の呼称は、1658年刊の『洛陽名所集』などに見られます。

東山文化の担い手

東山文化は、義政が築いた東山山荘を中心に、武家・公家・禅僧の文化が混ざり合って生まれたとされます。能、茶道、華道、庭園、建築、連歌などが花開き、のちに庶民にも広がりました。「幽玄」や「わび・さび」に通じる美意識に支えられていると評されます。義政の祖父・義満期の華やかな北山文化と対比されることが多い文化です。

義政との関わりが書かれている人物には、次のような人がいます。

  • 村田珠光:義政に仕えたとされ、禅を茶の湯に取り入れたことから、茶道の祖といわれる
  • 志野宗信:義政に仕えた同朋衆で、志野流香道の祖。義政から名香「蘭奢待」を拝受したとされる
  • 狩野正信:狩野派の祖。水墨画と大和絵を融合させ、幕府の御用絵師になったとされる
  • 土佐光信:土佐派の祖で、大和絵を発展させた
  • 善阿弥:義政の時代に河原者集団を率いて活躍した庭師

日野富子の実像:「悪女」と呼ばれた妻の奮闘

義政との結婚と、立て続く不幸

富子は1440年に日野重政の娘として京都に生まれ、16歳のころ義政の正室になりました。1459年1月9日には男子を産みましたが、その日のうちに亡くなり、今参局の呪詛が原因とされて、今参局は沖島への流罪となり、途中で自刃しました。同年2月には義政の側室4人も御所から追放されています。後宮が緊迫していた様子がうかがえます。

その後、1462年と翌年に女子を、1465年に義尚を産みました。応仁の乱の原因を、富子が山名宗全に義尚の後見を頼んだことに求める説がありましたが、近年は『応仁記』の虚構とする見方が有力になっています。乱の間、富子は東軍(細川勝元側)に属しました。

関所と蓄財:幕府の財布を握った

富子は京都七口の関所から得た関銭の多くを蓄財に回したとされます。1480年には民衆が徳政一揆を起こして関所を破壊しましたが、富子は関所を再設置しました。大名への金銭貸付や米の投機で巨額の資産を築いたともいわれますが、貸付に関する記録は誤読との指摘もあります。

1473年に義尚が9代将軍に就き、1476年に兄の勝光が亡くなると、富子は実質的な幕府の指導者となりました。1493年4月には、細川政元とともに明応の政変を起こし、将軍義材を廃して足利義澄を11代将軍に就けています。

夫婦の距離と「悪女」像の見直し

1481年、義政は長谷の聖護院山荘に移り、富子と長く別居したと書かれています。富子が東山山荘の造営に援助しなかったことが、「天下の悪妻」という評判につながりました。一方、御所の修復費用を自らの蓄財から出したこともあり、一方的に「悪女」と決めつけられない面があります。

1496年(明応5年)5月20日、富子は京都で亡くなりました。享年57。遺産は7万貫(約70億円)ともいわれます。これは資料に書かれた数字で、評価は定まっていません。私は、政治の実務を担った人物が、のちの軍記物語や庶民の目によって悪く描かれた面もあると考えます。

ゆかりの地と関連する人物

慈照寺(銀閣寺)

京都にある寺で、相国寺の末寺として整えられました。銀閣と東求堂は国宝、庭園は特別史跡・特別名勝で、世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産です。

相国寺

義政の墓所があり、慈照寺は相国寺の末寺として整えられました。

関連する人物

  • 日野富子:義政の正室。幕府の財政と政治を実際に動かした
  • 足利義尚:義政と富子の子で9代将軍。1489年、六角討伐の陣中で亡くなった
  • 足利義視:義政の弟。後継者に定められたが、応仁の乱で西軍へ移った
  • 山名宗全・細川勝元:応仁の乱の両陣営の中心人物。ともに1473年に死去
  • 足利義満:義政の祖父。金閣を建て、義政の山荘造営の手本になった

よくある質問

足利義政はなぜ「失敗将軍」と言われるのですか?

応仁の乱を止められず、後継問題を整理できなかったことが理由とされます。一方で、東山文化の中心となった文化面の功績は高く評価されています。

銀閣寺はなぜ「銀」ではないのですか?

創建時から銀箔は貼られていないとされ、2007年の科学調査でも裏付けられています。「銀閣」は金閣になぞらえ、江戸時代以降に広まった呼び名です。

東山文化の「わび・さび」とは何ですか?

東山文化は「幽玄」や「わび・さび」に通じる美意識に支えられていると評されます。簡素で静かな趣を重んじる点が、華やかな北山文化との違いとして挙げられます。

日野富子は本当に「悪女」だったのですか?

庶民からは「守銭奴」と見られ、義政の山荘造営に援助しなかったことで悪評が立ちました。一方で、御所の修復費用を自らの蓄財から出したこともあり、評価は一つに決まりません。

義政は銀閣の完成を見たのですか?

見ていません。銀閣は1489年に上棟しましたが、義政は翌1490年に亡くなりました。遺言により山荘は禅寺に改められました。