足利尊氏

結論:鎌倉幕府を倒す側に回り、のちに後醍醐天皇とも戦って室町幕府を開いた人

足利尊氏(1305年生まれ)は、鎌倉幕府の有力御家人の家に生まれ、1333年に幕府を裏切って京都の六波羅探題を滅ぼした武将です。その後、後醍醐天皇の建武政権から離れて戦い、1338年に光明天皇から征夷大将軍に任じられました。これが室町幕府の初代将軍です。

晩年は弟の足利直義との争い(観応の擾乱)に苦しみ、1358年に背中の腫れ物が原因で亡くなりました。倒幕の功労者、天皇に背いた人物、幕府の創設者と、時代によって評価が大きく揺れた人でもあります。

基本情報

  • 生没年:嘉元3年(1305年)〜延文3年4月30日(1358年6月7日)。享年54(満52歳)
  • 時代:鎌倉時代末期〜南北朝時代(室町時代の初め)
  • 立場:足利氏の当主。室町幕府の初代征夷大将軍
  • 父・母:父は足利貞氏、母は上杉清子
  • 正室:赤橋登子(北条久時の娘)
  • 主な出来事:六波羅探題の攻略(1333年)、建武式目の制定(1336年)、将軍任官(1338年)、観応の擾乱(1349〜1352年)
  • 死因:背中の腫れ物
  • 墓所:京都の等持院、鎌倉の長寿寺

足利尊氏は何した人?鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立まで

北条高時の一字をもらった御家人の当主

尊氏は足利貞氏の次男です。ただし異母兄の高義が嫡子で、その死後に尊氏が家を継ぐ立場になりました。生まれた場所は鎌倉説と丹波国の綾部説などがあり、決着していません。生まれた月日を示す史料も見つかっていないとされます。

15歳のとき(1319年)に従五位下・治部大輔に叙任され、鎌倉幕府の北条高時から一字をもらって「高氏」と名乗りました。正室の登子も北条一門の出身で、足利氏は幕府の中枢と深く結びついた家でした。

元弘元年(1331年)、約26歳のときに足利氏の家督を継ぎました。同じ年、後醍醐天皇の討幕計画をめぐる元弘の乱が始まります。

1333年、幕府に背いて六波羅探題を攻める

尊氏は幕府軍の一員として派遣されながら、元弘3年(1333年)に幕府へ反旗を翻しました。篠村八幡宮(丹波国)で兵を挙げ、同年5月に京都の六波羅探題を滅ぼしています。六波羅探題は、幕府が京都に置いた出先機関です。

この年の8月、尊氏は後醍醐天皇の名「尊治」から一字を与えられ、「高氏」から「尊氏」に改めました。倒幕の功は勲功第一とされ、従三位・武蔵守に進んでいます。

建武政権との決裂:中先代の乱から箱根・竹ノ下の戦いへ

後醍醐天皇の建武政権のもとで、尊氏は参議などの役職と所領を与えられました。

建武2年(1335年)、北条時行が鎌倉を攻める中先代の乱が起きました。尊氏は征夷大将軍の官職を望みましたが許されず、同年8月2日、天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かいます。天皇は代わりに「征東将軍」の号を与えました。乱を鎮めたのち、尊氏は鎌倉にとどまって独自に恩賞を配りました。これが、天皇方には独自の武家政権をつくる動きと映り、建武の乱の一因になったとされています。

同じ年の12月、尊氏は新田義貞の軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍しました。

九州落ちから征夷大将軍へ:湊川の戦いと建武式目

京都での敗北、そして多々良浜の勝利

建武3年(1336年)1月に京都に入った尊氏でしたが、2月の豊島河原の戦いに敗れ、九州へ退きました。ここからの巻き返しが、尊氏の生涯で最も劇的な場面です。3月初旬(年表では3月2日)、筑前国の多々良浜で天皇方の菊池武敏らを破り、勢力を立て直しました。

5月25日、湊川の戦いで楠木正成を破る

九州から東上した足利軍は、建武3年5月25日(1336年7月4日)、摂津国の湊川(いまの神戸市)周辺で新田義貞・楠木正成の軍と戦いました。尊氏が海から、弟の直義が主力を率いて陸の西国街道を進む二方面の作戦でした。細川定禅の水軍が東側からの上陸を装って新田軍を引きつけ、その隙に和田岬へ上陸して新田軍と楠木軍を分断したと伝えられます。

分断された楠木正成は、弟の正季とともに約6時間戦い、最後は湊川東側の村の民家で刺し違えて自害しました。尊氏は6月に京都を取り戻しています。なお、尊氏が正成の首を遺族に返したという話は、今回確かめた資料には出てこないので、ここでは取り上げません。

建武式目と、1338年の将軍任官

同年11月7日、尊氏は是円・真恵の兄弟に諮問し、17か条の「建武式目」を定めました。これを室町幕府の成立とみる見方があります。そして暦応元年(1338年)、光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられました。

一方、後醍醐天皇は吉野に移り、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代が始まります。

観応の擾乱と天龍寺:晩年の尊氏

弟・直義、側近・高師直との対立

幕府では、尊氏の執事の高師直と、弟の直義が対立しました。貞和5年(1349年)閏6月、直義は上杉重能らの進言を受け、師直を執事から外すよう尊氏に迫ります。その年の8月、師直は兄弟で京都へ兵を進め、直義は尊氏の邸に逃げ込みました。夢窓疎石が仲裁に入り、直義は出家して政務から退くことになりました。

南朝を巻き込んだ兄弟の戦い

観応元年(1350年)10月26日、直義が京都を出奔します。これが観応の擾乱の始まりとされます。直義は南朝に降り、尊氏軍は翌1351年2月に光明寺や打出浜で敗れました。同月20日に和睦が成立し、26日、護送中の高師直・師泰兄弟は上杉能憲の軍に殺されて高氏は滅びました。

その後、尊氏は10月24日に南朝の条件を受け入れて、直義らを討つ綸旨を得ます(正平一統)。11月には北朝の崇光天皇らが廃されました。12月に薩埵峠で直義軍を破り、翌年1月には直義が鎌倉で降伏します。直義は正平7年(1352年)2月26日、鎌倉で急死しました。『太平記』が毒殺の噂を伝えますが、真相は分かっていません。

南朝は尊氏から将軍職を取り上げ、同年閏2月には北畠親房の軍が京都に入りました。3月に義詮らが京都を奪還し、南朝との一時的な和睦は約4か月で終わっています。

直義の養子の足利直冬は、尊氏の子とされています。1354年から翌年にかけて直冬を奉じた旧直義派が京都へ攻め込むと、尊氏は東寺の本陣から突撃して直冬を敗走させましたが、討ち漏らしたとされます。

天龍寺の造営と天龍寺船

暦応2年(1339年)に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、尊氏は夢窓疎石の勧めで、その菩提を弔う寺の造営を始めました。光厳上皇に奏請して院宣を得ており、南朝の離宮だった亀山殿を改めて寺としています。創建は康永2年(1343年)、落慶供養は後醍醐天皇の七回忌にあたる康永4年(1345年)です。

寺の名は、当初は暦応の年号にちなんだ「暦応資聖禅寺」の予定でしたが、直義が大堰川で金龍が舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」に改められたと伝わります。荘園の寄進だけでは費用が足りず、元との間に「天龍寺船」と呼ばれる貿易船が仕立てられました。

尊氏の人物像と、後世の評価

戦場で迷い、出家を願った人

尊氏には、強い武将というだけでは説明できない一面があります。建武2年には、赦免を求めて寺にこもり、出家のため髪を切ったとされます。建武3年8月17日には清水寺に願文を納め、この世は夢だから遁世したいと記しました。夢窓疎石は尊氏の魅力のひとつに、心が強く、合戦で命の危険にあうことも度々だったと述べています。同時代の人には、勇敢で寛容、気前のよい人と見られていました。

歌人でもあり、勅撰和歌集に歌が採られています。

「逆賊」から「幕府の創設者」へ

戦前の水戸学や国家の立場では、尊氏は天皇に背いた逆賊として扱われました。1934年には、尊氏を評価する文章を書いたことが閣僚の問題として批判された例もあります。戦後は、幕府を築いた人物として見直す研究が進みました。精神の浮き沈みが激しかったとする見方もありますが、医学的な根拠や史料の裏づけに乏しい推測という指摘があります。

ゆかりの地と関連する人物

  • 等持院(京都市北区):尊氏の墓所の一つ。
  • 長寿寺(鎌倉市):もう一つの墓所とされる。
  • 天龍寺(京都市右京区):後醍醐天皇の菩提を弔うために尊氏が造営させた寺。世界遺産「古都京都の文化財」の一部。
  • 湊川(神戸市):楠木正成との戦いの地。
  • 足利義詮:登子との間の子で、室町幕府の2代将軍。
  • 足利基氏:同じく登子との子で、鎌倉公方の祖。
  • 足利直義:弟。幕府の政務を担い、のち兄と争った。
  • 後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞:尊氏と戦った相手。
  • 夢窓疎石:尊氏が敬った禅僧。天龍寺の開山。

家のその後は、嫡子の義詮が将軍職を継ぎ、足利氏の将軍の家が続いていきました。

よくある質問

足利尊氏は何をした人ですか。

鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献したのち、後醍醐天皇と戦って武家政権を築き、1338年に征夷大将軍となって室町幕府を開いた人です。

なぜ後醍醐天皇に背いたのですか。

1335年の中先代の乱で将軍職を望みながら許されず、天皇の許可なく鎌倉へ向かい、恩賞を独自に配ったことが決裂につながったとされます。

弟の足利直義とはなぜ争ったのですか。

直義と、尊氏の執事の高師直との対立が幕府を二分し、1350年からの観応の擾乱に広がりました。直義は1352年2月26日に鎌倉で急死しています。

足利尊氏の死因は何ですか。

延文3年4月30日(1358年6月7日)、京都の二条万里小路の邸で、背中の腫れ物が原因で亡くなったとされます。

尊氏が建てた寺は何ですか。

後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石の勧めで造営した天龍寺です。費用の不足を補うため、天龍寺船が仕立てられました。