結論:幕府を終わらせる側に回った幕臣。死因は脳溢血で、家は慶喜の十男が継いだ
勝海舟(かつ かいしゅう)は、文政6年(1823年)に江戸で生まれた幕臣です。咸臨丸でアメリカへ渡り、慶応4年(1868年)には西郷隆盛と会談して江戸城の明け渡しにつなげ、江戸の市街戦を避けました。明治になってからは初代の海軍卿を務め、伯爵になっています。
亡くなったのは明治32年(1899年)1月19日、75歳のときです。風呂上がりに倒れ、死因は脳溢血(脳出血)とされています。最期の言葉は「コレデオシマイ」と伝えられます。
家のほうは、嫡男の小鹿が海舟より先に亡くなったため、小鹿の長女・伊代が徳川慶喜の十男・勝精を婿養子に迎えて続きました。墓は東京都大田区の洗足池公園にあります。
基本情報
- 生没年:文政6年閏1月30日(1823年3月12日)〜明治32年(1899年)1月19日(75歳)
- 時代:江戸時代後期(幕末)から明治
- 出生地:江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区)。父・勝小吉の実家である男谷家で生まれた
- 名:幼名・通称は麟太郎、諱は義邦。明治2年(1869年)に安芳と改めた
- 立場:幕臣(軍艦奉行並、陸軍総裁など)、のち明治政府の海軍卿、元老院議官、枢密顧問官。明治20年(1887年)に伯爵
- 死因:脳溢血(脳出血)とされる
- 墓所:東京都大田区の洗足池公園
勝海舟の生涯と主な功績:蘭学、咸臨丸、江戸無血開城から明治まで
剣術と蘭学で身を立てる
勝家は旗本の家で、海舟は天保9年(1838年)に家督を継ぎました。島田虎之助に入門して剣術と禅を学び、直心影流の免許皆伝を受けています。弘化2年(1845年)からは永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開きました。開塾の時期は嘉永3年(1850年)とされますが、確定してはいません。
蘭学修行中のエピソードとして、蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部書き写したという話があります。1部は自分用、もう1部は売ってお金にするためでした。
安政2年(1855年)には長崎海軍伝習所に入り、オランダ人教官ペルス・ライケンに師事しました。幕府が海軍を整えようとする流れのなかで、実地に航海術を学んだ経験が、のちの活動の土台になります。
咸臨丸での渡米と海軍の仕事
万延元年(1860年)1月13日、咸臨丸は品川を出航し、2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコへ着きました。帰国は5月6日です。
咸臨丸の艦長が勝だったと語られることがありますが、Wikipediaによると正式な役職はありませんでした。艦の最上位は軍艦奉行の木村喜毅で、勝は軍艦操練所教授方頭取という立場です。福沢諭吉の『福翁自伝』では、木村が「艦長」、勝が「指揮官」と書かれています。日本人乗組員の多くは船酔いで動けず、アメリカ人のブルック大尉の助けが大きかったとする説もあります。一方でブルックは、浦賀入港のときの勝の操艦を「非常に巧みに船を操った」と評価したと紹介されています。
文久2年(1862年)閏8月17日に軍艦奉行並となり、文久3年(1863年)には神戸海軍操練所の設立が許されました。ここでは坂本龍馬が塾頭を務めた神戸塾がありました。龍馬が勝を「日ノ本第一の人物」と評したとも伝わります。
蟄居、長州との談判、そして江戸無血開城
元治元年(1864年)11月10日、勝は軍艦奉行を罷免され、約2年間の蟄居を命じられました。幕府の側にいながら、順調に出世を続けた人ではありません。
慶応2年(1866年)9月2日、第二次長州征討の最中に宮島で長州藩の広沢真臣、井上馨らと交渉し、停戦の約束を取り付けました。ただし交渉は難航したと記されています。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いのあと、1月23日に陸軍総裁になります。徹底抗戦を唱える意見に対して、早期の停戦を主張しました。3月13日と14日には西郷隆盛と会談し、江戸城の明け渡しや徳川宗家の今後が話し合われて、江戸の市街戦は避けられました。
この間、勝はイギリス公使パークスを通じて新政府に圧力をかけさせ、交渉が決裂した場合に備えて焦土作戦も準備していたとされます。話し合い一本ではなく、決裂したときの備えを並べて交渉に臨んだことが分かります。
大田区の公式ページによると、勝は同年4月9日・10日(新暦5月1日)にも、池上本門寺へ向かう途中で洗足池のほとりに立ち寄っています。のちに墓所が洗足池に置かれる縁のひとつです。
明治政府での役職と旧幕臣への支援
明治5年(1872年)に海軍大輔、明治6年(1873年)10月25日には参議兼海軍卿(初代)となりました。明治8年(1875年)に元老院議官となり、同年11月28日に辞職しています。その後、明治20年(1887年)5月9日に伯爵を授けられ、明治21年(1888年)4月30日に枢密顧問官、明治31年(1898年)12月28日に勲一等旭日大綬章を受けました。
明治の勝は、徳川家と旧幕臣の支援にも力を入れました。徳川慶喜の謹慎解除(明治2年9月28日)に尽力し、旧幕臣の援助のため、明治13年(1880年)に保晃会、明治19年(1886年)に酬恩義会を設立しています。
勝海舟の死因と最期:脳溢血で倒れた1899年1月19日
倒れた日の様子
明治32年(1899年)1月19日、勝は東京市赤坂区赤坂氷川町の自宅で亡くなりました。風呂上がりにトイレに寄ったあとで倒れ、侍女に生姜湯を頼みましたが間に合わず、代わりに持ってこられたブランデーを飲んだ直後に意識を失ったと記されています。死因は脳溢血(脳出血)とされます。享年75でした。
亡くなって3日後には、勅使が氷川の邸を訪れ、勅語と弔慰を賜っています。
最期の言葉「コレデオシマイ」
最期の言葉は「コレデオシマイ」と伝えられます。ただし、勝の発言を集めた書物には編集上の問題が指摘されています。たとえば『氷川清話』は、吉本襄が新聞や雑誌の談話記事を集め、口語体にそろえて編集した本で、元の談話からの歪曲や改竄の疑いが指摘されています。『海舟座談』は巌本善治の聞き書きですが、時局に差し支える発言は削られ、一部は意味が逆に書き換えられたとされます。
勝の言葉として広まっているものは、こうした編集を経たものが多い点に注意が必要です。この記事では、引用する言葉を最期の一言に絞りました。
亡くなる直前の栄典
死の約3週間前の明治31年(1898年)12月28日に、勝は勲一等旭日大綬章を受けています。幕臣として生まれ、幕府の終わりに立ち会った人が、新しい国家から勲章を贈られて、その年の暮れを迎えたことになります。
勝海舟の子孫と家系:小鹿の死から勝精の婿養子まで
家族と子どもたち
父は勝小吉、母は信、正妻は民子です。海舟には複数の妾がおり、その間にも子がいました。三男の梶梅太郎もそのひとりです。子のうち、次男の四郎は嘉永7年(1854年)に生まれ、慶応2年(1866年)に亡くなっています。三女の逸子は、目賀田種太郎の夫人になりました。
嫡男・小鹿の早世と、勝精の婿養子
嫡男の勝小鹿は、明治25年(1892年)に40歳で急逝しました。海舟が亡くなる7年前のことです。海舟は、小鹿の長女・伊代の婿養子に徳川慶喜の十男である勝精を迎え、精が家督を継ぎました。精は浅野セメントや石川島飛行機などの重役を務めた人物です。
なお海舟の没後、勝家は男子の後継者を法的に定めず、女戸主となって爵位をいったん返上したとも記されています。勝家は、慶喜の子を迎えることで、旧幕臣として仕えた徳川家との縁を、血のつながりとしても残したことになります。
著名人の子孫という話について
勝海舟の子孫だという話は、インターネット上に数多くあります。この記事では、家としてどう続いたか(家督の流れ)を、すでに亡くなった世代までに限って紹介しています。現代に生きる人について、確かめられない情報や個人名は載せません。
ゆかりの地と関連する人物
洗足池公園の墓所
墓は、別邸「洗足軒」があった東京都大田区の洗足池公園にあります。洗足軒は戦災で焼失しました。大田区の公式サイトによると、勝海舟とその妻・勝たみ(民子、吉子。1821〜1905年)の墓は区の指定文化財で、所在地は大田区南千束二丁目14番5号の洗足池公園内です。東急池上線の洗足池駅から徒歩約10分と案内されています。
墓所のそばには、勝伯爵家と海舟の知り合いが明治32年(1899年)5月から寄付を募って同年に置いた水盤(手水石)が残り、裏面には寄付者の名前が刻まれていると紹介されています。
関連する人物
- 島田虎之助:剣術と禅の師。直心影流の免許皆伝を受けた
- 永井青崖:蘭学の師
- 佐久間象山:妹の順子の夫で、勝にとっては義弟
- 坂本龍馬:神戸海軍操練所(神戸塾)で塾頭を務めた
- 西郷隆盛:慶応4年3月13日・14日の会談の相手
- 徳川慶喜:勝が謹慎の解除に尽力した。十男の勝精が勝家を継いだ
- 木村喜毅:咸臨丸渡米時の軍艦奉行
よくある質問
勝海舟の死因は何ですか
脳溢血(脳出血)とされています。明治32年(1899年)1月19日、赤坂氷川町の自宅で、風呂上がりに倒れました。享年75です。
勝海舟の最期の言葉は何ですか
「コレデオシマイ」と伝えられます。勝の談話集には編集上の問題が指摘されているため、言葉をそのまま受け取らず、出どころに注意が必要です。
勝海舟の家は、その後どうなりましたか
嫡男の小鹿が明治25年(1892年)に亡くなったため、海舟が小鹿の長女・伊代の婿養子に徳川慶喜の十男・勝精を迎え、精が家督を継ぎました。
勝海舟の墓所はどこですか
東京都大田区の洗足池公園にあり、大田区の指定文化財です。妻・民子の墓も同じ場所にあります。
勝海舟は咸臨丸の艦長だったのですか
正式な役職はありませんでした。軍艦奉行の木村喜毅が艦の最上位で、勝は軍艦操練所教授方頭取という立場でした。福沢諭吉の『福翁自伝』では、木村が「艦長」、勝が「指揮官」と書かれています。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。




