徳川家康 日本史トリビア

結論:「人の一生は重荷を負て」の遺訓は、家康本人の言葉ではなく明治時代の偽作とされる

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」で始まる、いわゆる「家康公遺訓」は、Wikipedia では偽作と説明されています。明治時代に、元500石取りの幕臣だった池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』をもとに作ったとされる文書です。

池田は、家康が63歳のときの自筆の花押がある文書に似せて偽造したとされ、高橋泥舟らがこれを日光東照宮など各地の東照宮に納めました。

一方、江戸時代の記録にも、家康の遺訓として伝わる『東照宮御遺訓』があります。こちらも禁書とされ、偽書とする説があるなど、家康の肉声と言い切れる史料ではありません。この記事では、遺訓の成り立ちと、家康が実際に残したと伝わる遺言を分けて整理します。

基本情報

  • 人物:徳川家康(幼名は竹千代)
  • 生没年:天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)。享年は数え75歳(満73歳4か月)
  • 時代:戦国時代から江戸時代初期
  • 立場:江戸幕府の初代将軍。慶長8年(1603年)に就任し、慶長10年(1605年)に秀忠へ譲り、のちに駿府で大御所として政務に関わった
  • テーマの要点:広く知られる「家康公遺訓」は明治時代の偽作とされる。『東照宮御遺訓』は江戸時代の聞書で、禁書・偽書説がある

家康の遺訓の正体:有名な「重荷」の文書はいつ作られたのか

「人の一生は重荷を負て」の遺訓は偽作とされる

書籍やビジネス記事で「家康の遺訓」として引かれるのは、ほとんどがこの文書です。冒頭は「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」。人生を重い荷を背負って遠い道を行くことにたとえた文書として知られています。

Wikipedia の「家康公遺訓」の節は、この文書を偽作としています。作ったのは明治時代の幕臣、池田松之介。徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を下敷きにし、家康63歳のときの自筆花押文書に似せて偽造したとされます。年代は「明治時代」としか書かれておらず、何年のことかは確かめられませんでした。

日光東照宮など各地に納められた経緯

この文書が広まった理由として、高橋泥舟らが各地の東照宮に納めたことが挙げられています。日光東照宮をはじめとする東照宮に納められたため、「神社に原文が伝わる」という形で知られるようになったと考えられます。ただし、納められた先で家康本人の文書として扱われてきたかどうかは、確かめられた資料がないので、ここでは触れません。

花押を似せたという点が、この文書の性格をよく表しています。家康が実際に書いた文書の体裁を借りることで、本物らしく見せようとしたものです。

光圀の『人のいましめ』が元になっている点

元になったとされる『人のいましめ』は、徳川光圀の遺訓と言われるものです。つまり、「家康の遺訓」のうち、人の生き方を説く部分の源流は、家康ではなく別の人物の名で伝わっていた教訓だったことになります。江戸時代の人物の名を借りて教訓をまとめるやり方は、当時から珍しくなかったのかもしれませんが、これは私の推測で、資料には書かれていません。

『東照宮御遺訓』と実際の遺言:家康が残したと伝わる言葉

『東照宮御遺訓』(松永道斎聞書)とは

もう一つの「遺訓」が『東照宮御遺訓』です。『松永道斎聞書』『井上主計頭聞書』『万歳賜』とも呼ばれ、前述の遺訓とよく似た内容とされます。

成り立ちは次のように説明されています。元和の初め、秀忠の使いとして駿府を訪れた井上主計頭から聞いた話を、松永道斎が書き留めたものです。家康の言葉を人づてに記録したという形で、本人の自筆ではありません。江戸時代には禁書とされ、一説には偽書とも言われます。

実際の遺言:葬り方と祀り方

家康の最期の言葉として具体的に伝わるのは、人生訓よりも葬儀に関する指示です。『本光国師日記』によると、遺体は久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌のあとに日光山に小さな堂を建てて勧請するよう言い残したとされます。

外様大名に向けた遺告も伝わります。「われ死せば、いづれも先帰国して、将軍の指揮に従ひ、江戸に参観すべし」と、大名たちに先に帰国して将軍の指揮に従うよう伝えたとされます。

辞世と死因

家康は元和2年4月17日、駿府城で亡くなりました。辞世として2首が『東照宮御実記』に伝わります。遺体はその夜のうちに久能山へ移されました。

死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が長く知られてきました。しかし、天ぷらを食べたのは1月21日で、死去まで間が長すぎるため、無理があるとされます。現在の主流は胃癌説で、『徳川実紀』にある、痩せ衰えたこと、吐血、黒い便、腹部のしこりといった記述が根拠です。

家康の人生から見る「我慢」のイメージと、よくある誤解

人質時代から将軍まで

遺訓が「家康らしい」と受け取られるのは、本人の経歴が忍耐を思わせるからでしょう。家康は6歳のとき、駿府の今川氏へ送られる途中で織田信秀のもとへ送られ、約2年間を尾張の熱田で過ごしました。のちに織田信広との人質交換で今川氏のもとへ移り、駿府に移っています。桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)で義元が討たれると、岡崎城に戻りました。

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍に徳川・織田連合軍が惨敗し、1,000人以上の死傷者を出したとされます。慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝ち、慶長8年に征夷大将軍となり、慶長19年と20年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしました。

「我慢だけの人」ではない

Wikipedia は、家康が寡黙な苦労人で、家臣から「何を考えているか分からない」と評されたとする一方、「狸親父」のような狡猾なイメージも定着していて、学者の間でも評価は分かれると記しています。人質生活や家臣の裏切りを経験した人物であることは確かですが、「じっと我慢する人」という像は、遺訓の文面から逆算された面もあるのではないか、というのが私の見方です。

健康と倹約の逸話

逸話としては、鷹狩、薬作り、能、囲碁、将棋を楽しみ、薬草や食事に気を配って長寿を保ったこと、麦飯を食べ、壊れた厩をそのままにして丈夫な馬を育てようとしたことなどが伝えられています。

ここで気をつけたいのは、これらの逸話と遺訓の句を結びつけて「だから家康はこう言った」と語ると、偽作とされる文書の内容を、事実の裏づけのように見せてしまうことです。生き方の参考として読むのは自由ですが、「家康の言葉」と断定して使うのは避けたほうが安全です。

ビジネスや勉強に引くときの注意

「不自由を常とおもへば不足なし」のような句は、いまも自己啓発の文脈でよく引かれます。教訓として読む価値があるかどうかは別の話ですが、引用するときは「家康の遺訓として伝わる文書にある言葉(明治時代の偽作とされる)」と添えるのが正確です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 久能山東照宮(静岡県):久能山の廟所宝塔は元和2年(1616年)に創建され、家康の遺命により西向きに建てられたとされます。寛永17年(1640年)に家光が石造に造り替えました。
  • 日光東照宮(栃木県):元和3年(1617年)4月8日に奥院廟塔へ改葬され、4月17日に遷座祭が行われました。従来は天海の指揮による改葬が通説でしたが、近年は、日光へ運ばれた「神柩」に遺体はなかったとする説が有力とされています。
  • 大樹寺(愛知県岡崎市):遺言で位牌を立てるよう言い残した寺です。墓碑は昭和44年(1969年)に建てられました。
  • 高野山:寛永20年(1643年)に家光が建立した霊屋があります。

関連する人物

  • 池田松之介:明治時代に「家康公遺訓」を偽造したとされる元幕臣。
  • 高橋泥舟:この文書を日光東照宮など各地の東照宮に納めたとされる一人。
  • 徳川光圀:『人のいましめ』の作者と言われる人物。
  • 松永道斎:『東照宮御遺訓』を書き留めた人物。
  • 徳川秀忠:家康の後継者。『東照宮御遺訓』の話の取り次ぎ役として、使者を駿府に出した。

よくある質問

「人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし」は家康の言葉ですか?

Wikipedia では偽作とされています。明治時代に池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』をもとに作ったとされ、家康本人の言葉と確かめられる史料は示されていません。

家康が実際に残したとされる遺言は何ですか?

『本光国師日記』によると、遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺、位牌は大樹寺とし、一周忌のあとに日光山に小さな堂を建てて勧請するよう言い残したとされます。

『東照宮御遺訓』は信頼できますか?

松永道斎が、井上主計頭から聞いた話を記録したものとされますが、江戸時代は禁書で、一説には偽書とも言われます。確かな史料とは言い切れません。

家康の死因は何ですか?

鯛の天ぷらによる食中毒説は、食べた日と死去の間が長すぎるため無理があるとされ、現在は『徳川実紀』の記述を根拠とする胃癌説が主流です。