結論:勝海舟は坂本龍馬の師にあたり、幕末の二人は「幕府側の海軍通」と「浪士の周旋役」として別々の場所から時代を動かした
坂本龍馬は文久2年(1862年)12月、松平春嶽の紹介状を持って勝海舟を訪ね、門人になりました。以後、海舟が構想した神戸海軍操練所(海軍塾)で龍馬は塾頭を務めたとされ、二人の関係は師弟と呼べるものです。
有名な「龍馬は海舟を斬りに行って、説き伏せられて弟子になった」という話は、海舟が明治23年(1890年)に語ったことが出典で、近年は誇張か記憶違いとみる見方が強くなっています。
海舟は幕臣として江戸城無血開城を導き、龍馬は薩長同盟の仲介や大政奉還の動きに関わりました。立場は違っても、藩や幕府の枠を超えて日本全体を考えた点が、二人が並べて語られる理由です。
基本情報
- 勝海舟:文政6年閏1月30日(1823年3月12日)生まれ、明治32年(1899年)1月19日没(75歳)。江戸時代後期から明治の幕臣・政治家。軍艦奉行を務め、江戸城無血開城の交渉にあたった
- 坂本龍馬:天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)没(数え33歳)。土佐出身。亀山社中(のちの海援隊)を率い、薩長同盟の仲介などに関わった
- 二人の出会い:文久2年12月(龍馬が春嶽の紹介状で海舟を訪問)
- 時代:江戸時代(幕末)
勝海舟と坂本龍馬の出会いと師弟関係
文久2年、春嶽の紹介状を持って訪ねた
龍馬は文久2年12月5日に福井藩主だった松平春嶽に会い、12月9日に春嶽の紹介状を持って海舟を訪ねて門人になりました。龍馬は海舟を高く評価しており、その様子は姉・乙女への手紙にも表れています。海舟の日記に龍馬の名前が初めて出てくるのは文久2年12月29日付で、それ以前の交流の細部は分かっていません。
「暗殺しに行った」話はどこまで本当か
「斬りに行ったが説き伏せられて弟子になった」という逸話は、海舟が明治23年に語ったものが出典とされます。ただし、同時代の記録で裏づけられた話ではなく、近年は誇張か記憶違いとみる見方が強まっています。確実に言えるのは、紹介状を持った訪問が入門のきっかけだった、という点です。
互いの評価
龍馬は海舟を「日ノ本第一の人物」と評したと伝えられます。海舟は、大政奉還は龍馬がいたからこそ実現したと語り、土佐藩はむしろ日和見的だったとも述べています。師が弟子の働きを認めていた様子がうかがえます。
神戸海軍操練所と薩長同盟・無血開城:二人の働き
神戸海軍操練所は、藩や幕府の枠を超える海軍学校だった
攘夷論が高まるなか、幕府は大阪湾の防備を重視し、1863年に兵庫と西宮への砲台築造を決めました。その仕事を任された海舟は、将軍徳川家茂の大阪湾巡視に随行して生田川河口での操練局の開設許可を得ました。操練所は元治元年(1864年)5月に発足し、跡地は現在の神戸市中央区新港町周辺にあたります。海舟は幕府や諸藩の枠を超えた「一大共有の海局」を構想していました。
関係者には、龍馬(塾頭)のほか、のちに外務大臣となる陸奥宗光、初代連合艦隊司令長官となる伊東祐亨、土佐藩出身の近藤長次郎らがいました。ただし、松浦玲らは龍馬が塾頭だったという説に懐疑的で、海舟の私塾「海軍塾」と幕府の操練所を別のものとして扱う研究者の説もあります。
なぜ短期間で閉鎖されたのか
海舟は禁門の変の責任を問われ、元治元年(1864年)に軍艦奉行を罷免されました。操練所には土佐藩を脱藩した浪士や長州藩に同情的な生徒が多く、幕府の機関でありながら反幕府的とみなされたことが閉鎖の背景にあります。操練所は慶応元年(1865年)3月9日に閉鎖されました。
龍馬のその後:亀山社中、薩長同盟、大政奉還
操練所の廃止後、龍馬は慶応元年5月頃、薩摩藩の支援で長崎に亀山社中を結成しました。慶応3年4月上旬には土佐藩の外郭組織となり、海援隊と改称されます。
慶応2年1月8日からの桂小五郎(木戸孝允)と西郷隆盛の会談は難航し、1月22日に盟約が成立しました。龍馬は仲介役として列席し、翌23日に寺田屋で襲撃されて負傷したのち、2月5日に盟約書の裏書を行っています。
慶応3年10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に勅許が下りました。龍馬は11月上旬に「新政府綱領八策」を起草しています。
海舟は江戸の街を戦火から守る側に回った
慶応4年(1868年)3月13日と14日、海舟は薩摩藩江戸藩邸で西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城が決まりました。海舟は江戸城下での市街戦を避けるため、早期停戦と無血開城を主張したとされます。龍馬はすでにこの世になく、二人が並んでこの局面に立つことはありませんでした。
船中八策と竜馬がゆく:後世の龍馬像を見直す
船中八策は龍馬自筆の原本がない
慶応3年6月9日に後藤象二郎と協議した際に示されたとされる八項目の政策が「船中八策」です。長岡謙吉が筆記したとされますが、龍馬自筆の原本は見つかっておらず、創作とする研究者もいます。確実に龍馬の手になるのは、11月上旬に起草した「新政府綱領八策」のほうです。
近江屋事件と龍馬の最期
龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都の河原町蛸薬師にあった近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、亡くなりました。この日は龍馬の誕生日でもありました。実行犯は、今井信郎の供述により京都見廻組とする説が定説となっていますが、薩摩黒幕説など異説もあります。
『竜馬がゆく』が広めた龍馬像と、史実の距離
司馬遼太郎『竜馬がゆく』(1963年)以降に広まった話のなかには、のちに覆されたものがあります。たとえば、姉の栄が龍馬に刀を授けたという通説は、昭和63年(1988年)に栄の墓が見つかって没年などが判明したことで覆されたとされます。また、龍馬の女性関係には作家の推測で描かれた部分が多いとも指摘されています。小説の龍馬像と史料から言えることは、分けて読むのが安全です。
ゆかりの地と関連する人物
勝海舟のゆかりの地
- 勝海舟生誕之地碑(墨田区両国、両国公園内)
- 勝海舟の墓(東京都大田区、洗足池公園)
- 晩年の邸宅「洗足軒」の跡地(現在は大田区立大森第六中学校)
- 神戸海軍操練所跡碑(神戸市、京橋筋南詰)
坂本龍馬のゆかりの地
- 坂本龍馬の墓(京都霊山護国神社の霊山墓地。墓碑の揮毫は桂小五郎)
- 高知県立坂本龍馬記念館(1991年開館。桂浜の銅像の近く)
- 高知市立龍馬の生まれたまち記念館(2004年開館。出生地の高知市上町)
- 亀山社中記念館(長崎市)
関係の深い人物
松平春嶽(龍馬を海舟に紹介)、西郷隆盛(海舟と無血開城を協議。龍馬が仲介した薩長同盟の当事者)、桂小五郎(薩長同盟の当事者)、中岡慎太郎(近江屋で龍馬とともに襲われた)、陸奥宗光(神戸海軍操練所の塾生)、岡田以蔵(龍馬の推薦で海舟の護衛を務めたとされる)が挙げられます。
よくある質問
Q. 勝海舟と坂本龍馬はどんな関係でしたか?
師弟関係です。龍馬は文久2年12月に春嶽の紹介状を持って海舟を訪ね、門人になりました。神戸海軍操練所の塾頭を務めたとされます。
Q. 龍馬が海舟を暗殺しに行ったというのは本当ですか?
海舟が明治23年に語った話が出典で、近年は誇張か記憶違いとみる見方が強いです。同時代の記録で裏づけられた話ではありません。
Q. 神戸海軍操練所はなぜ短期間で閉鎖されたのですか?
海舟が禁門の変の責任を問われて軍艦奉行を罷免され、さらに脱藩浪士や長州に同情的な生徒が多く、反幕府的とみなされたためです。元治元年5月に発足し、慶応元年3月に廃止されました。
Q. 龍馬は薩長同盟でどんな役割でしたか?
慶応2年1月、桂小五郎と西郷隆盛の会談が難航するなか、仲介役として列席しました。盟約は1月22日に成立し、龍馬は2月5日に盟約書の裏書を行っています。
Q. 船中八策は龍馬が書いたものですか?
長岡謙吉が筆記したとされ、龍馬自筆の原本は見つかっていません。創作とする研究者もいるため、慎重に扱う必要があります。




