徳川綱吉の真実:側室「安子」、死因、そして驚きの身長まで徹底解説

結論:綱吉は流行の麻疹で亡くなったとされる。側室の「安子」は確かめられず、124cmは位牌に基づく説

徳川綱吉は宝永6年1月10日(1709年2月19日)、江戸城中で亡くなりました。享年は数えで64、満で62です。死因は、前の年末に江戸で流行していた麻疹とされています。いったん快方に向かいましたが、1月10日に悪化したと伝えられます。

題名にある側室「安子」という名の人物は、日本語版Wikipediaの徳川綱吉の項にも瑞春院(お伝の方)の項にも出てきません。綱吉の子を産んだ側室は、瑞春院(お伝の方)ただ一人です。

「身長124cm」は、愛知県岡崎市の大樹寺にある綱吉の位牌の高さが124.0cmであることから出た説です。位牌の高さが将軍の身長と同じだという前提自体が「説」にとどまります。

基本情報

  • 生没年:正保3年1月8日(1646年2月23日)〜宝永6年1月10日(1709年2月19日)。享年64(満62歳)
  • 時代:江戸時代
  • 立場:江戸幕府の第5代将軍
  • 死因:麻疹とされる。麻疹に併発した急性気管支炎の発作で餅を喉に詰まらせた窒息死とする見方もある
  • 死去の場所:江戸城中
  • 墓所:寛永寺(東京都台東区)
  • 正室:鷹司信子
  • 子を産んだ側室:瑞春院(お伝の方)。長女の鶴姫と長男の徳松

徳川綱吉の死因は麻疹だったのか?最期の経過と諸説

麻疹にかかり、1月10日に悪化した

日本語版Wikipediaによると、綱吉は宝永5年(1708年)の年末に江戸で流行していた麻疹にかかりました。いったんは快方に向かったものの、年が明けた1月10日に容体が悪化し、江戸城中で亡くなったとされています。当時の江戸では麻疹が広がっており、将軍も例外ではありませんでした。

餅を喉に詰まらせた窒息死とする説

別の見方として、麻疹と併発した急性気管支炎の発作が起き、そのときに餅を喉に詰まらせて窒息したとする説が紹介されています。麻疹による病死という説明と、窒息という直接のきっかけを重ねた形の説です。どちらが事実かを決める材料は、Wikipediaの記述からは確かめられませんでした。

正室・信子による無理心中説

Wikipediaには、綱吉がご落胤とされる柳沢吉里を将軍継嗣にしようとしたのを阻止するため、正室・信子が無理心中を図ったという説がある、と書かれています。信子の墓所には長く黒網がかけられていたと伝わるとも記されています。ただし、これは死因をめぐる説の一つで、確かな史料で裏づけられたものとは言えません。

亡くなったあとの動き

綱吉の没後、家宣が将軍になると、1月20日に生類憐みの令が廃止されました。綱吉の死から10日後のことです。ただし、『徳川実紀』などでは廃止が宣言されたとされる一方、『楽只堂年録』では罰則をなくして事実上の廃止にしたとされ、史料によって書き方が分かれていると記されています。

側室「安子」の真実:子を産んだのは瑞春院(お伝の方)だけ

「安子」という名は確認できない

綱吉の項には、側室として瑞春院(伝)、寿光院、清心院などの名が挙がっています。「安子」という名の側室は載っていません。似た名前としては、牧野成貞の妻・阿久里と、その娘とされる牧野安が綱吉の手つきだったという俗説が紹介されていますが、後世の創作と考えられていると注記されています。柳沢吉里が綱吉の落胤だという噂も、現在では否定されています。「安子」について、確かな史料に基づく人物像を書くことはできません。

綱吉の子を産んだ唯一の女性

瑞春院の項によれば、綱吉の子を産んだ女性は伝(お伝の方)だけでした。延宝5年(1677年)に長女の鶴姫、1679年に長男の徳松を産んでいます。瑞春院は万治元年2月1日(1658年3月4日)の生まれで、元文3年6月9日(1738年7月25日)に81歳で亡くなりました。墓所は芝の増上寺とされています。

父は小谷正元(小谷権兵衛)で、下級武士とされます。身分は「黒鍬(10俵一人扶持)」とする説と、「中間頭(80俵)」とする説があります。

世継ぎの構想はなぜ崩れたか

徳松は幼くして亡くなりました。その後、娘婿である紀州徳川家の徳川綱教が将軍継嗣の候補に上がりましたが、鶴姫が宝永元年に亡くなり、綱教との間に子がいなかったこともあり、甥で養子の綱豊(のちの家宣)が6代将軍に決まりました。綱吉の没後、お伝は落飾して瑞春院と名乗り、二之丸に移りました。

徳川綱吉の身長は124cm?位牌から出た説を読み解く

大樹寺の位牌という根拠

愛知県岡崎市鴨田町の大樹寺には、歴代将軍の位牌が安置されています。その高さは、それぞれの将軍が亡くなったときの身長と同じだという説があります。綱吉の位牌は124.0cmで、当時の平均身長から大きく外れている位牌の一つです。このため、綱吉は低身長だったとする説があります。

甲冑の大きさも手がかりに

綱吉の項には、残された甲冑のサイズからも低身長だったと推測されていると書かれています。ただし、同じ項目には、当時の人物評にそうした記述が見当たらないという注記もあります。

数字をどう受け止めるか

124cmという数字は、「位牌の高さ=身長」という説を前提にしたものです。大樹寺の項でも、これは説として紹介されています。同じ位牌で大きく外れている例として、家継の135.0cmもあり、こちらは高身長だったという説と結びつけられています。遺骨の調査のような科学的な裏付けは、今回確かめたページには見つかりませんでした。「コンプレックスが性格に影響した」といった心理の話は、根拠となる資料を確かめられないため、ここでは扱いません。

綱吉の治世をどう見るか:生類憐みの令と宝永の災害

生類憐みの令は「悪法」だったのか

綱吉の項によると、生類憐みの令は、母・桂昌院が寵愛した隆光僧正の進言を採り入れたものとされています。「過酷な悪法」とする従来の評価は、江戸時代史の見直しの中で再考されつつあると書かれています。

宝永地震と富士山の噴火

宝永4年(1707年)には宝永地震が起こり、富士山が噴火しました。晩年の災害は当時「天罰」と捉えられており、噴火でできた宝永山は、綱吉や荻原重秀の悪政の証拠の一つとされました。Wikipediaは、これが綱吉の評価を低めた一因だと指摘しています。

瑞春院の縁者をめぐる見方

瑞春院の妹の子にあたる白須正休の長男を、遠藤家の養子とした縁組については、「将軍の威を借りて天下の法度を動かした」利権誘導とも考えられるという見方が、瑞春院の項で紹介されています。あくまで一つの見方として紹介されているものです。

ゆかりの地と関連する人物

  • 寛永寺(東京都台東区):綱吉の墓所
  • 増上寺(芝):瑞春院(お伝の方)の墓所とされる
  • 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町):124.0cmの綱吉の位牌が安置されている
  • 鷹司信子:綱吉の正室
  • 桂昌院:綱吉の母。隆光僧正を寵愛したとされる
  • 鶴姫:綱吉とお伝の長女。紀州徳川家の徳川綱教の妻
  • 徳川家宣:綱吉の養子で、次の将軍

よくある質問

徳川綱吉の死因は本当に麻疹ですか?

麻疹とされています。前年末に江戸で流行していた麻疹にかかり、一時回復したあと1月10日に悪化して亡くなったと伝えられます。麻疹に併発した急性気管支炎の発作で、餅を喉に詰まらせた窒息死とする見方もあります。

徳川綱吉の側室「安子」とは誰ですか?

Wikipediaの綱吉の項と瑞春院の項には、「安子」という名の側室は出てきません。子を産んだ側室は瑞春院(お伝の方)だけです。牧野安が手つきだったという話は、後世の創作と考えられています。

徳川綱吉の身長はなぜ124cmだと言われているのですか?

大樹寺にある綱吉の位牌の高さが124.0cmだからです。歴代将軍の位牌の高さは亡くなったときの身長と同じだという説があり、それをもとにした数字です。この説は確定したものではありません。

生類憐みの令は天下の悪法だったのですか?

従来は「過酷な悪法」とされてきましたが、江戸時代史の見直しの中で再考されつつあると、Wikipediaに記されています。家宣が将軍になった1月20日に廃止されました。

綱吉の治世にはどんな災害が起きましたか?

宝永4年(1707年)に宝永地震と富士山の噴火が起きました。晩年の災害は当時「天罰」と捉えられ、宝永山は綱吉らの悪政の証拠の一つとされました。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。