結論:小西行長は関ヶ原の敗戦後に捕らえられ、切腹せず六条河原で斬首された
小西行長は、関ヶ原の戦い(1600年9月15日)で西軍が敗れたあと、美濃の山中に逃れて庄屋にかくまわれ、捕らえられました。そして慶長5年10月1日(西暦1600年11月6日)、石田三成・安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で斬首されています。
武士なら切腹で最期を迎えるのが普通の場面でしたが、行長はキリシタンで、自害を禁じられていたため切腹を拒んだとされます。商人の次男から大名にまで上った人物の、最後の選択でした。
基本情報
- 生年:1558年(永禄元年)とされる。ただし根拠は朝鮮の史料『宣祖実録』の記述のみ
- 没年:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
- 時代:安土桃山時代
- 出自:和泉国堺の商人・小西隆佐の次男
- 立場:豊臣秀吉に仕えた大名。肥後国南部の宇土城主
- 洗礼名:アゴスチノ(アウグスティヌス)
- 最期:関ヶ原の敗戦後に捕縛され、六条河原で斬首
小西行長の最期:関ヶ原の敗戦から六条河原での処刑まで
関ヶ原で西軍に加わった理由
家康が会津征伐に向かった際、行長は上方に残るよう命じられていました。その後、石田三成に呼応して西軍に加わります。英語版Wikipediaによれば、行長は約2,000の兵を率いて戦いに加わり、残りの兵は宇土に残ったとされています。
1600年9月15日の本戦で、行長は奮戦しました。しかし小早川秀秋の裏切りで大谷吉継の隊が壊滅し、小西隊も崩れます。
山中の逃亡と捕縛
敗れた行長は、美濃の菩提山中に逃れたと日本語版Wikipediaは記します。9月19日に庄屋の林蔵主にかくまわれ、そこで捕らえられました。
英語版には、もう少し具体的な経緯があります。逃げきれないと悟った行長は、農民に自分を徳川方へ売るよう頼みました。農民は断り、切腹を勧めます。行長は、自分はキリスト教徒だからと、これを拒みました。最終的には竹中重門が行長を東軍の陣へ連れていったとされます。
なお、逃れた山を英語版は伊吹山とし、日本語版は菩提山とします。資料で食い違うため、この記事では場所を断定しません。
処刑の場で伝わること
英語版によると、黒田長政が助命の取りなしを申し出ましたが、行長は断りました。また、最後の告解のために司祭を求めましたが、徳川家康は認めませんでした。
日本語版は、キリシタンだった行長が自害を禁じられていたため、切腹を拒んで斬首されたとされると記します。浄土門の僧が経文を読むのも拒み、キリストとマリアのイコンを掲げて処刑を受けたと伝えられます。
処刑は六条河原で、石田三成、安国寺恵瓊とともに行われました。首は三条大橋にさらされています。遺体の埋葬場所ははっきりしていません。
小西行長の生涯:堺の商人の子から宇土城主、朝鮮出兵へ
商人の子が武士になるまで
行長は堺の商人・小西隆佐の次男で、母はワクサ(洗礼名マグダレーナ)です。日本語版Wikipediaによると、のちに備前の商人のもとで養子となりました。商売で訪れた先で宇喜多直家に才能を見出され、武士になったとされます。
三木城攻めの際には、直家の使者として羽柴秀吉のもとへ向かい、秀吉に気に入られて家臣になりました。豊臣政権では舟奉行として水軍を率いています。1585年(天正13年)には摂津守となり、豊臣姓を許されました。
キリシタンとなり、小豆島で布教を支える
行長は1584年(天正12年)、高山右近の後押しで洗礼を受けました。小豆島を与えられると(1万石とされるが、数字は確定していない)、宣教師のセスペデスを招いて布教を行ったとされます。
1587年にバテレン追放令が出た際は、改易された高山右近を島にかくまい、秀吉に諫言したとされます。
肥後の宇土城主として
九州平定(1587年)と肥後国人一揆の討伐(1588年)での功により、行長は肥後南半国の宇土・益城・八代の3郡を与えられました。日本語版Wikipediaは20万石余、英語版は25万石と記しており、数字は資料で異なります。
1589年(天正17年)には宇土城を築きました。天草五人衆との戦いも加藤清正らと平定し、天草の所領も得ています。八代には麦島城を築き、重臣の小西行重を城代に置きました。
文禄・慶長の役での行長
文禄の役(1592年)で、行長は先鋒を務めました。釜山から進軍し、漢城を加藤清正より先に占領します。そのあと平壌を攻略しましたが、1593年に明の李如松の軍に攻められ、漢城へ退きました。
碧蹄館の戦いの後は、石田三成とともに明との講和交渉に当たります。秀吉と明の双方を欺いたともいわれます。この講和は秀吉の怒りを買い、行長は死を命じられました。しかし、西笑承兌、前田利家、淀殿のとりなしで救われたとされます。
慶長の役では、漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原城の攻略に加わりました。1598年の順天倭城の戦いでは、明側の謀略を逃れて城に籠城し、明・朝鮮軍の攻撃を撃退しています。秀吉の死後は、立花宗茂や島津義弘の救援を受けて帰国しました。
掘り下げ:切腹を拒んだのはなぜか、残る謎と家族のその後
切腹を拒んだ理由
理由として資料が挙げるのは、行長がキリシタンで、自害を禁じられていたことです。英語版の捕縛の場面でも、農民から切腹を勧められて「キリスト教徒だから」と退けたと書かれています。
なお、処刑前後のやりとりには、断られた告解のように、資料によって書きぶりが異なる点があります。日本語版は、同じキリシタンの黒田長政に依頼したが家康の命もあって断られたと記し、英語版は長政の助命の申し出を行長が断ったと記します。細部は資料によって揺れがあるため、確実に言えるのは、行長が切腹をせず、斬首で最期を迎えたことまでです。
娘・妙とその子
行長の娘・妙(マリア)は、対馬の宗義智の正室でした。関ヶ原のあと離縁され、対馬を追放されます。のちに赦免され、1605年に病没しました。
妙の子であるマンショ小西は、日本語版Wikipediaによれば江戸時代最後の日本人司祭とされ、殉教しています。猶子のジュリアおたあは、文禄の役の際に連れ帰られた朝鮮人女性です。
肥後の所領について
英語版Wikipediaは、行長が肥後南半国を1588年から1600年まで保持したと記します。関ヶ原の敗戦後の領地や家臣団の行方については、確かめた資料に詳しい記述がないため、ここでは触れません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 宇土城跡(熊本県宇土市):行長が築いた城。日本語版Wikipediaによれば、本丸跡の公園に行長の銅像が建っている
- 禅幢寺(岐阜県垂井町):日本語版Wikipediaが、行長の墓所の一つとして挙げる寺
- 堺公園墓地(大阪府堺市):同じく日本語版Wikipediaが、供養塔があるとする場所
前述のとおり、遺体の埋葬場所ははっきりしないため、これらは墓所・供養の場所として伝わるものです。
関連する人物
- 石田三成:関ヶ原で西軍を率い、行長とともに六条河原で斬首された
- 安国寺恵瓊:同じ日に処刑された
- 高山右近:行長の入信を後押しした。バテレン追放令のあと、行長が小豆島にかくまった
- 加藤清正:文禄の役で漢城を行長に先に占領された。天草五人衆との戦いでは行長と平定に当たった
- 宗義智:行長の娘・妙の夫
よくある質問
小西行長はどのように亡くなりましたか。
関ヶ原で敗れて捕らえられ、慶長5年10月1日(1600年11月6日)に六条河原で斬首されました。石田三成、安国寺恵瓊と同じ日です。
なぜ切腹しなかったのですか。
行長がキリシタンで、自害を禁じられていたためとされます。英語版Wikipediaには、捕縛の際に切腹を勧められて断った場面が書かれています。
小西行長の出身は?
和泉国堺の商人・小西隆佐の次男です。のちに備前の商人のもとで養子となり、宇喜多直家に才能を認められて武士になったとされます。
洗礼名は何ですか。
アゴスチノ(アウグスティヌス)です。1584年に高山右近の後押しで洗礼を受けました。
小西行長の墓はどこにありますか。
岐阜県垂井町の禅幢寺と、大阪府堺市の堺公園墓地内の供養塔が、日本語版Wikipediaで挙げられています。遺体の埋葬場所自体は、はっきりしていません。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。





